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バカ娘元気に生きる

今日は父の命日。彼が亡くなって、5回目の年だ。もともと、父の話を書きたくてnoteを始めたのだが、それ以降も毎年違う視点でこの日について考えをしたためている。

■命日 2年の記事…「おっさんの妖精が本当になった日。
■命日 3年の記事…「妖精の命日。(おっさんへ)
■命日 4年の記事…「――――という、はなし。

あれから5年もの月日が流れると、わたしの状況も一段と変わり、バンドのCDが全国流通に乗ってみたり、仕事を辞めて独立してみたり、一進一退を繰り返しながらも何かに向かって成長してきたように思える。
そこで、「そうなのか!じゃあきっとお前は、やっと”真人間”になれたんだね!」と、胸を撫で下ろすのは早いよ父さん。20代も後半だというのに、わたしは相変わらず恥ずかしい姿を晒しに晒しながら、おバカ一直線で毎日を過ごしている。

たとえば、これはつい最近の話。2019年を迎えて、フリーランスとして元気よく生きていくことになったわたしは、仕事先をもっと増やせるように営業をはじめた。そこで、2年ほど前(半分フリーとして仕事をはじめたてのとき)に使った履歴書を引っ張り出してきたところ、なんと、バンドのアーティスト写真撮影で撮った写真を、証明写真に使っていたのだ…。

その頃は、右も左もわからずフリーに片足を突っ込んだばかり。仕事のクオリティもままならず、仕事が全然入ってこない時期だった。だから今よりももっと焦っていて、企業やメディア媒体に自分を売りまくっていた。だったらキチッと撮った証明写真を貼って、履歴書を送るべきだったんだけど、その感覚も鈍るくらい焦っていたのか、緑の背景にめちゃくちゃいい笑顔で写っている自分のアー写を貼り付けて履歴書を送ったのだ。結果的にはその企業から継続的に仕事をもらえるようになったのだけど、なぜ先方がわたしと仕事をやる気になってくれたのか…いまだに謎である。(でも、本当に本当に感謝している!)

 ……本題はここからだ。
その「アー写貼り付け履歴書」を発見したわたしは、何を思ったか、「こういう履歴書でも、受理してもらえるんやな!」と急にバカになり、証明写真作成アプリをダウンロードして、自宅で履歴書の写真を撮り始めた。やっぱりアレか。社会を何年か経験してますっていう証明さえできれば、証明写真の体裁ってさほど重視されないのかもしれないな!…などと考え、要は、「アー写でイケるなら自宅で撮った証明写真もイケるよね!」と謎のポジティブ思考を爆走させたのだ。

そうして、小一時間ほどかけて「自宅でちょっといい顔をしている自分」の写真を撮り、バランスや形を整え、”自家製証明写真”を作ったわたし。その写真を何の迷いもなく履歴書に貼り付け、目下営業中である企業に送りつけた。

――数日後、選考お見送りのメールが来た。そりゃそうだ。わたしはライターという職業上、お客様のもとへ取材に行く可能性がある身なのだ。それなのに、ヨレッとした黒いトレーナーを着て、自宅で微笑んでいる女の写真が送られて来たら、コイツとはちょっと仕事できないわ…となるよね。取材なんて、行かせられないよね。
(なお、そんな自分の非常識振りに気づかされたのは、写真屋息子の知人にこのエピソードを話し、「やっぱり君はどうかしてるね」といった温かいコメントをいただいたからであった。)

よく考えれば、こんなやり方は”非常識”だと気づいたはずだ。というより、常識的な人からすればよく考える必要もなく、そもそもこんな「非常識」なやり方を実行する発想にいたらないんだろう。やっぱりわたしはトンデモナイ馬鹿者なのだ……と驚愕した。社会を舐めてる!と怒られても仕方ないレベル。でも、こういうことをやっちゃうのがわたしで、またこういう精神を持っちゃっているからこそ、今を図太く生きられる自分がいるのかもしれない。でも、あの履歴書を送った企業さんには、謝りたい気持ちです…。

こんな残念な娘の姿を、ぜひとも父に見せてみたかった。おそらく父は、わたしがこれほどに底抜けのおバカだとは知らなかったはず。非常に真面目に社会を生きてきた常識人なので、生きていたらきっと、ちょっとしたお小言があっただろう。

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話は戻って、父が亡くなって5年。我々ヒガシノ家の者たちは、結局誰も父の最期を見ることができなかった。朝起きたら、父は亡くなっていたのだ。亡くなる半年ほど前から体の具合が悪かった父。夜中に容態が悪化したものと思われ、朝方、父の部屋を訪れた母が、床に倒れた状態で亡くなっている彼を発見したのだ。その後、姉から父が亡くなったとの連絡を受ける。その瞬間、中学の旧友と会う予定だったその日は、「父の命日」に変わったのだ。

世の中は、”急な別れ”がほとんどかもしれない。別れの場にちゃんと居合わせることは難しく、人の命の動きは目に見えないため、いつどこで人の命が亡くなるのかを予測することはできない。どうしようもないことでもあるし、だからこそ、急な別れは寂しくて悲しくて胸がキュッとなる。けれど、そういう別れ方だからこそ、わたしたちには、たくさん”相手”について考える時間が生まれ、そこから何かしらの「意味」や「答え」などを見つけられるのかもしれない。(少なくとも、わたしは「意味」や「答え」を見つけたいと思っている。)

明日の朝起きたとき、大切なあの人が亡くなっていたら。そう考えると、怖くて怖くて、でもそんなことを怖がるくらいなら、今生きているうちに想いを伝えたり、生きているからこその「意味」や「答え」を見つけた方が絶対にいい。父や友人が亡くなり、”絶対に明日も彼らが生きている”など、絶対が約束された世界はないのだと痛感した。わたしはもっと愛情やお礼を伝えたかったし、伝え損ねたことを悔いるときもある。だから、相手に好きと伝えたり、それを形にしたり、「気持ちを伝え損ねた!」なんてことがないように、日々愛情を伝えながら、生きていきたいですね。

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東京では今日、初雪が観測されたそうですが、わたしの家からは一粒も雪の姿が見つけられませんでした。うちは隙間風が入るので、底冷えします。
今日は、豚肉とニラと卵を炒めたおかずと、トマトスープを作って食べました。何とか頑張って生きています。割と自分らしく、生きていると思います。不安もあるけど、楽しいです。たまには夢に出てきて、わたしを心配してね。それでは。

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