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小町の復讐をかたどる花

連載シリーズ 物語の“花”を生ける 【プロローグ】はこちらから

第8回 『小町の芍薬』(岡本かの子)

2020年。私たち人間だけでなく、花や植物たちにとっても厳しい年だった。

日本では3月に自粛生活がはじまり、4月に緊急事態宣言が出て、一年のうちでもっとも花を必要とするイベントがすべて中止になった。花や植物の需要が激減し、それを生業とする人すべてが苦しんだ。生産者は丹精込めて育てた花や植物たちを市場に出すことなく、刈り取り、摘み取り、伐採せざるをえなかった。

5月、一年のうちもっとも爽やかで外出する機会も増える季節。ゴールデン・ウイークの観光のシーズンに合わせて、全国の観光地が花の見頃を迎えたにもかかわらず、人が集まることを危惧して、やはり刈り取られ、摘み取れ、伐採された。

花や植物にかかわるようになって多くの恵みをもらいながらも、何もできない日々に悶々としていた5月の終わり、市場に出せなかった芍薬を生産者から直接買うことができると知り合いから聞いて、早速注文した。

届いた箱には20株ちかい大輪のつぼみをつけた60センチほどの芍薬が横たわっていた。一晩、暗いところで水揚げをすると、翌朝にはほとんどの花がひらきだした。別のところから仕入れたものも同じタイミングで届いたこともあり、花器の空きを見計らっていたところ、その半日から1日の間で、全ての花が咲き切ってしまった。

あわてて生けたものの、梅雨入り前の真夏日のような暑さも手伝って、水を取り替えているそばから花びらがこぼれ落ちていく。バラやラナンキュラスもそうだけど、多弁の花は、一枚の花びらがこぼれだすと、連鎖的にほかの花びらもあっというまにこぼれ落ちてしまう。そしてその連鎖は、なぜかほかの花にも伝わっていく。

たった2〜3日の命。あまりのはかなさに呆然としながら、落ちた花びらをあつめてみる。薄桃色の大量の花びらが器のなかで重なりあう姿も、やはり花であった。

そんな様子を見つめていたら、秋田の小野・雄勝地域に伝わる小野小町の伝説が、芍薬の花と結びついていることを思い出していた。

* * *

世界の三大美女のひとりと言われ(その判定基準がよくわからないけれど)、平安時代初期に編纂された『古今和歌集』の「花の色はうつりにけりないたずらに我が身世にふるながめせしまに」の歌で知られる小野小町。絶世の美女説も含めてその生涯は伝説にいろどられ、実際のところは、『古今和歌集』におさめられている和歌18首以外、生年、出生地、家族、家系、没年など何一つ明らかになっていない。

小野小町の伝説といえば、和歌の才覚と美貌で宮中の男たちを魅了し浮名を流し、ときにはいいよってきた男を拒絶し、容色衰えた晩年は不遇のうちに諸国を流浪し客死した、というのが主なストーリー。これにさまざまな脚色が加えられ、流浪で訪れたという土地の伝説や神社仏閣の縁起譚と融合して、無数の小町伝説が生まれた。

おもしろいことに人々の関心は、才色を誇った女が容色衰えて不遇な晩年を過ごしたということにあるようで、伝説や説話の多くは晩年にフォーカスされている。謡曲や三島由紀夫の『近代能楽集』でも有名な「卒塔婆小町」も、芥川龍之介の「二人小町」も、容色衰えた老婆となっても(死しても)なお、色恋の妄執から逃れられない小町を描いている。

それに対して岡本かの子は、これとは違う小町伝説を取り上げて、『小町の芍薬』という5000字ほどの短編を残している。

国史国文学者の村瀬君助の結婚生活は、妻の突然の死によって終止符が打たれる。しばらくすると人肌が恋しくなって、伝説上の小野小町を理想の女として追い求めるようになる。研究もかねて小町の出生地といわれる秋田の雄勝にやってきたのだが、小町がみずから植えたという芍薬の園で、一人の美しい少女に出会う。そこで君助は・・・。

といったストーリーで、妖しくも艶やかな芍薬の花が、伝説上の小町のイメージを映し出す。

しかし小町が秋田で生まれた・・・初めてきいたな・・・東北地方に小町伝説が多いとはきいたことがあるけれど・・・しかも、なんで芍薬と小町なんだろう・・・小町の和歌に芍薬なんて詠まれていたかな・・・

現代の小野・雄勝の小町伝説

学生時代、国文科の授業で習ったことを記憶の底から引っ張り出しながら、秋田県の最南端で山形県や宮城県との境に位置する、現在の湯沢市小野・雄勝地域の観光案内や道の駅などの各種ホームページを見た(※1)。微妙な違いはあれど、この地域の小町伝説の大筋としては、次のようなものだった。

小野小町はこの地で生まれ、京にのぼって宮中で歌人として活躍し、晩年に戻ってきて庵を建てて静かに暮らした。京で小町に思いをかけていた深草少将がはるばるやってきた。そこで小町は、毎日1本ずつの芍薬を自分のために植えてくれたら、100日目に会いましょうといった。少将は毎日芍薬を植え続け、大雨の降る100日目に100本目の芍薬を植えに出かけたところ、川の氾濫で流されて死んでしまった。

実は小町はそのころ疱瘡を患っていて、100日目までにはなんとか完治したいと、近くの神社に願掛けをしていたという。小町は少将を森子山(現在の二ツ森)に葬ると、岩谷へ移り住み、世を避けるように暮らして92才で没した。

芍薬は小町が京にのぼるときに植えたという説もあるが、少将が芍薬を植えた場所は、芍薬塚もしくは小町堂と呼ばれ、毎年6月の第二日曜日に小町まつりが開催され、市内から選び抜かれた七人の小町娘(謡曲の七小町になぞらえているのかも)が、小町の和歌を朗詠し小町堂に奉納するという。

小町に関する名跡の数々がコンパクトにまとまっている町で、近隣には小町芍薬苑という9000坪の植物園があり、「平安歌人 小野小町が愛した伝説の花芍薬」をコンセプトに150種7000株の芍薬が6月には見頃をむかえる。

小町伝説、ここではこんな話しになっているのね。一般的に知られている小町伝説特有の毒気が抜かれていているような気がしないでもなく・・・百夜通いで有名な交野少将の話しも、男を拒絶する驕慢な女の話しとして語られることが多いのに、小町側の事情を描くことで、相思相愛の純粋な恋物語になっている!

考えてみれば新幹線「こまち」や米のブランド「あきたこまち」も、秋田美人説も、この地域の小町伝説がもとになっていて、町おこしや観光地化しているということなのね。それにしても新幹線まで引いてしまうとは、さずが小町!

と感心してみたものの、小町の伝説にいつどのように芍薬が登場したのかは、ここからはわからなかった。

芍薬と小町の結びつき

古典文学に登場する植物について解説した本の「芍薬」の項をみると、平安時代の漢詩の中では数例詠まれているものの、和歌や散文形式のものでは見当たらないとある(※2)。

これまでの研究では、小町の和歌は、勅撰和歌集で64首採録されていて、そのうち『古今和歌集』の18首が小町作としてたしかなものと言われている。このほかに『小町集』という家集があり110首ほど採録されているが、『古今和歌集』などに採録されている歌をもとにして後代に虚構されたものらしく、これが伝説の端緒となったのではないかと考えられている(※3)。

『古今和歌集』の18首と、『小町集』の110首前後の歌(※3)をざっとみたけれど、「芍薬」の語は出てこない。和歌に漢語は詠まれないという原則があるため、漢語である「芍薬」は、その姿がいくら美しくても、和歌には詠まれないのかもしれない。

一方で、秋田の小野・雄勝地域と芍薬の関係やいわれを調べてみたが、例の小町が植えたとか深草少将が植えたといったことしか出てこない。芍薬は寒さに強い花で根茎であればマイナス数十度でも耐えるので、北国の秋田でも大輪の花を咲かせることで、人々に好まれたとも考えられる。

また、芍薬は田植えの時季に見頃を迎えることから田植えのタイミングを告げる花とも考えられていた。秋田の農産業にとっては、そういう意味でも芍薬は大切な花だったのではないか。

そこに、和歌を詠みあげて雨乞いをしたという伝説(謡曲「雨乞小町」)や、小野・雄勝地域を出生の地とする伝説、「雨」をキーワードにした和歌などから呼び覚まされる小町のイメージが、田植えの時季に雨を必要とするこの地域の花と結びついたのではないか。

あるいは、芍薬はえびすぐすりとも言われ、痛み止めや婦人病の漢方薬としても用いられていたことから(現在も芍薬甘草湯、当帰芍薬散といった漢方が有名)、女性の代名詞的な存在の小町と結びついたのかもしれない。

そんなことをあれこれ想像してみるものの、なんの確証も得ることなく、小町と芍薬の関係は宙ぶらりんのまま、時間だけがすぎた。

小野・雄勝の小町伝説がたどってきた道

気分を変えて、小野・雄勝が小町の出生の地である説を調べてみることにした。数年前に購入した『小町伝説の誕生』(錦 仁 角川選書 ※4)が、本棚にあったことを思い出して、ページをめくりはじた。

小野・雄勝地域の小町伝説が、どういう経緯と歴史をたどったのかを明らかにしている本書によると・・・。

そもそも小町は、平安時代の漢学者で有名な小野篁(おののたかむら)の孫という説がある。篁の子、小野良実(良真とも)が郡司として出羽国(現在の湯沢市小野・雄勝地域周辺)にくだり、地元の娘との間に小町が生まれたというのだ。しかし小町の父とされる小野良実という人物は、南北朝時代から室町期にかけて編纂された氏姓系図『尊卑分脈』にその名前が見えるものの、実在は確認されていない。

もともと小野・雄勝にはいくつもの小町伝説があったが、特に江戸期、何度かの積極的で意図的な改編を経て、先に挙げた各種ホームページにあるような現代のストーリーの原型が形づくられたらしい。

改編の背景には、小野・雄勝地域を治めていた小野一族の鎮魂、秋田藩の政策下で文人たちによる芍薬塚を中心とした観光地化と中央に向けた喧伝といったような政治的な思惑があった。

そのため、小町はこの地で生まれ、京で活躍し、この地に戻ったという要素を強調するストーリーに改編された。また外聞の悪い部分を消し去るため、ある信仰の対象として伝えられていた醜く老いた姿の小町像が別の場所に移され、代わりに若くて美しい小町像が用意されたこともあったという。

明治期に入って、中央政府に秋田の存在をアピールするという、これまた政治的な意図のもと、文人たちの手で小町は神格化された。なかでも小松弘毅という漢学者国学者が、小町は交野少将ただ一人を愛し、ほかの男をすべて拒否したという論を展開した。

秋田の存在をアピールするにあたり、明治政府が女性に期待した、良妻賢母で、貞淑で、男性と家庭を守ることを体現する理想的な婦人、二夫にまみえない「貞女の鑑」として小町を宣揚した。

さらに大正期に入ると、黒岩涙香というジャーナリストが(秋田の人ではないのだけれど)、一夫にもまみえない小町論を展開し、家父長制の貞操観念のもと処女崇拝を喧伝し、世の女性たちに純潔を強いた。

この小町論、小町が真に愛したのは深草少将ただ一人で、ほかの男をすべて拒否したけれど、ある事情から二人は思い合うだけの関係だった、つまり一夫にもまみえてないというもので、秋田の小松弘毅の小町論がベースにされたのではないかと、本書は推測している。

なるほど、小野・雄勝の各種ホームページにある小町伝説を読んだときに、小町伝説が持つ独特の毒気が感じられなかったのは、こういう背景があったからなのね・・・。

本書も言及しているけれど、このような改編がいい悪いではなく、また史実かどうかが問題なのではなく、伝説とはこのように長い年月を経て、移り変わっていくものなのだと思う。

ただ、さすがに黒岩涙香の処女崇拝、純潔信仰のところまでくると、女性としてやりきれない気持ちになった。そのときどきの政治的な思惑や都合を押し付けられ、勝手なことをいわれてきた小町。恋多き驕慢な女、容貌衰えた晩年の流浪、髑髏にもなり、地獄にも落とされ、性的不能者とまでいわれ、一方で貞女の鑑、処女崇拝のシンボルにまで仕立てられた。

『小町伝説の誕生』が明らかにした小野・雄勝の小町伝説の改編の過程をかたわらにおきながら、もう一度、岡本かの子の『小町の芍薬』を読んでみる。すると主人公村瀬君助の思考回路が、この過程そのものであるということに気がついた。

小町「貞女の鑑」説、「生涯無垢」説への批判

君助は何事にものめり込むタイプで、国史国文学の研究の傍ら、なんの価値もない骨董や古美術の収集に明け暮れた。そんな性格は研究には向いていたが、実際の生活では単なる浪費家でしかなく、暮らしを心配する妻とは諍いが絶えなかった。ところが妻は突然他界し、病身の息子も後を追うように亡くなった。

妻は病身の子を育て、現在の生活と老後の生活に腐心する、当時の家庭の婦人としては至極まっとうな人物だ。君助の収集癖に口うるさくいっても、浮気を心配しても、自分がほかの男に通じようとは夢にも思わない。それは貞女の鑑として小町像に託してきた、二夫にまみえない女であり、明治政府が期待していた家庭の婦人そのものといえる。

そんな妻に「功利一方」の「醜くさ」を感じ、嫌気がさしていた君助は、その死をきっかけに、小町をなぐさみの女として追い求めるようになる。現実の生きた女は「なま/\し」いから嫌、歴史上の女は素性や役割があからさまで「干からびて」いるから嫌、だから「縹渺とした伝説の女」で「美しく、魅力を持つ性格」の女がいい。

こんな君助の態度は、政治的に小町を利用してきた人たちの思考回路と同じだ。「縹渺(かすかではっきりとしない)」としているからこそ、利用者のイメージを好き勝手に押し付けることができるのだ。

君助はまず、国史学者として小町の出身と素性を調べ、国文学者として和歌と伝説を調べた。その頃、小町は生涯無垢のままだったという言説が出回っていたが、それを打ち消す形跡を見つけることもできた。にもかかわらず君助は「小町は生涯無垢な女だ。一生艶美な童女で暮らした女だ・・・結局男が望む理想の女はさうした女なのだ」と言い放った。周囲からは「孤独の寂しさから、少女病マニアにかかつて、どの女も処女だと思ひ込むのだ」と笑われた。

君助が「国史国文学者の研究家」であるという設定は、史実の面からも、和歌・伝説の面からも真実を明らかにしようとする職能が備わっていることを意味する。君助の調査として描かれる小町に関する調査研究の方法は、現代の研究にも通じる。

しかし学者として、ふつうにまっとうな方法で調査研究をしていれば、小町が生涯無垢な女だったなんて仮説はありえないし、そんな仮説は何の価値もないことが分かるはずだ、そんなことをいっている学者はその価値すらなく、ただの「少女病マニア」でしかない、と明治期以降、伝説を自分勝手に解釈し、小町を政治的に利用してきた学者たちを、君助を通して批判しているのではないか。

この作品は昭和11年に出版されているが、君助が小町を追い求めるのを明治29年と設定し、わざわざ、日清戦争が終わった頃の古典復活で珍しい資料や典拠が手に入りやすかった時代のこと、という解説を挿入している。前後関係から解説の不自然さが気になり調べてみると、秋田の小松弘毅が小町を「貞女の鑑」といって宣揚したが明治27年だった。これを思い起こさせるしかけになっているのではないか。

そして、作中に出てくる小町は生涯無垢のままだったという言説は、まさに黒岩涙香の小町生涯無垢説であり、それを世間が受け入れ女性たちに強要する風潮に対して思うところがあった作者岡本かの子は、このふたつの言説を導いてきた雄勝の小町伝説を舞台に選んだとも考えられる。

さて君助は、机の上での調査に一区切りつけたところで、芍薬が咲く季節に、秋田の雄勝に足を運び、小町ゆかりの跡をまわった。小町が京に上る際に植えたという芍薬の園に立ち寄ると、美しい少女が立っていた。

少女はこの辺りの豪家の子らしく、名を采女子(うねめこ)、16才といった。少女は美しさのあまりいろいろ問題が起こるので、東京の学校には行けなくなったという。またこの土地は小町出生地であることから、代々美しい女の子が生まれるが、「小町の嫉み」で夭死するという伝説があるという。

少女の無防備な清らかさがかえって媚態に映る、ほんのある時期の生命のきらめき。かたい蕾が露を滴らせながらほころんでいく瞬間の芍薬そのものでもあり、匂うような妖しさがたちのぼってくる少女の様子に、息を飲む。

そして、少女はこんな言葉を残して君助の前から姿を消す。

をぢさま、人間ていふものは、死ぬにしても何か一つなつかしいものをこの世に残して置き度(た)がるものね。けども、あたしにはそれがないのよ。
『小町の芍薬』 岡本かの子 青空文庫

少女が残した言葉の「なつかしいもの」とは、少女を小町の化身と考えるならば、小町自身の生きた痕跡であり、伝説そのものと考えられる。自分の知らないところで自分の人生が好き勝手に解釈され利用される要素を、ほんの少しでも残しておきたくないという、小町の気持ちのようでもある。

一方で、子どもだと考えてみる。少女は「蒼白い顔」であり「病気らしい咳をせき込みながら」とあるように、「小町の嫉み」で女の子が夭死するという伝説により、死が近いのかもしれない。君助の妻も子も死んでしまっている。家父長制に都合のいい女性像を強要された女たちは死んでいるもの同然であり、家父長制に必要な“子”を残さないという、当時の女たちの声にならない決意にも思えた。

芍薬は、誰か一人を思い秘めるだけの小町ではない

君助は少女が口づけした芍薬の花を手折り、恍惚としながら東京に戻った。その後、「頭が悪くなつたといふ評判」で本業の研究もやめて、「下手な」芍薬づくりをしているという噂もあったが、やがて姿をくらました。

最後にもう一度、芍薬について思いを巡らせる。

根はかち/\の石のやうに朽ち固つてゐながら幹からは新枝を出し、食べたいやうな柔かい切れ込みのある葉は萌黄色のへりにうす紅をさしてゐた。
 枝さきに一ぱいに蕾つぼみをつけてゐる中に、半開から八分咲きの輪も混つてゐた。その花は媚びた唇のやうな紫がかつた赤い色をしてゐた。一歩誤れば嫉妬の赤黒い血に溶け滴りさうな濃艶なところで危く八重咲きの乱れ咲きに咲き止まつてゐた。
 牡丹の大株にも見紛ふ、この芍薬(しやくやく)は周囲の平板な自然とは、まるで調子が違つてゐて、由緒あり気な妖麗な円光を昼の光の中に幻出しつゝ浮世離れて咲いてゐた。
同上

これは冒頭、雄勝の芍薬の情景なのだが、君助が和歌の研究から見出した小町像「男を揶揄するほどぴんとして気嵩なところがあり、ときには哀切胸も張り裂ける想ひが溢れ、それでゐて派手で濃密」「小町もときには恋愛し、ときには恋人に疎んぜられ恨みをのんだ」と重なるところもあり、言い換えともいえる。

つまり、ここの芍薬が暗示するのは、雄勝が長い年月をかけてつくりあげてきた、誰か一人を思い秘めるだけの「貞女」の小町でもなければ、「生涯無垢」の小町でもない。従来の伝説にある「由緒あり気な妖麗」な雰囲気があり、「媚びた唇」を持ち、「嫉妬の赤黒い血」が流れ、恋に「乱れ咲」く小町であり、「美しい女の子」を「妬み」で夭死させる小町なのだ。

だから、君助は少女が口づけた芍薬を持ち帰ったことで、従来の小町的な“何か”をその身に負ってしまった。東京に戻ったあとの君助の末路は、小町の晩年の流浪説を思わせる。小町の人生を好き勝手に改編し利用してきた側が、今度は伝説となってさまようのだ。

* * *

小町の和歌を一つひとつ読み終えるたびに、長い夢からさめたような、あるいは長い旅からもどってきたときようなぼんやりとした感覚に陥る。

和歌はあくまでも虚構なのよ、これをもとに私の人生をあれこれいわれてもね・・・


詩人の小池昌代さんが「別離」という作品で、梅酒を仕込む季節、梅の実が木から離れる落ちる瞬間に、詩的な思索をめぐらせている。「わたし」が落下していく梅の実の気持ちになってみるラストを読むたびに、もう自分の人生を誰の手にも渡さないという小町の決意であり、願いであり、祈りのようなものを重ねずにはいられない。

地面に落ちた時、誰にも聞こえないほどの柔らかな音が立ち、そこから先のことは、もう誰にもわからない。実っていた時より、少しだけ遠い空。その時がきたら、もはや誰にも拾われたくはない。落ちた場所で、一人静かに朽ち果てていくことにしよう。
「別離」『黒雲の下で卵をあたためる』岩波現代文庫  228ページ



※1 現代の小野・雄勝地域の小町伝説については、以下のホームページを参考にした。

※2 『古典文学植物誌』(學燈社) 74ページ

※3 『新装版 小野小町追跡: 「小町集」による小町説話の研究』(片桐洋一 笠間書房)

※4 『小町伝説の誕生』(錦 仁 角川選書)

今回取り上げた『小町の芍薬』は青空文庫を底本とした。以下より全文が読めるので、本noteに興味をもってくださった方は、ぜひ読んでほしい。


なお、近年の和歌の研究では、小野小町の和歌が男性を拒んでいるように読めたり、自分の容姿を嘆いているように読めるのは、和歌の修辞法の一つによるものと考えられている。

二人の間で交わされる和歌を贈答歌といい、贈答歌の世界においては、和歌を贈る側よりも、和歌を贈られた側が優位に位置づけられている。和歌という虚構の世界のことなので、実際の社会的な立場を反映したものではないが、恋の歌を贈られた女は、贈ってきた男の歌に対して「は?何言ってんの?」、今の言葉でいえば上から目線的な態度で反発したり切り返したりする。そのような相手への否定的な態度が一転して自分自身に向けられ、「でも私って・・・」といったような内省的な発想となる。

これを女歌の発想もしくは表現といい、『古今和歌集』の小野小町や伊勢を出発点として、『蜻蛉日記』などの女流文学に連なっていくと考えられている。この女歌の発想もしくは表現は、和歌を贈られた側の発想・表現であることから、男性同士あるいは女性同士の和歌のやりとりにも用いられる。

この女歌の発想・表現については、『古代和歌の世界』(鈴木日出男 ちくま新書)に詳しいので、ぜひこちらも併せて読んでいただきたい。



第7回 花に生かされ、花に奪われたラブストーリー『うたかたの日々』(ボリス・ヴィアン)

第9回 過去も未来も超える花『時をかける少女』(筒井康隆)


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