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本能寺の変1582 重要 ◎第50話③ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

重要 ◎第50話③ 

8光秀の苦悩 2光秀と長宗我部元親 

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→【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 
その一因 目次 
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*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済 
 50 ◎ 
*以下は、重要ヶ所◎のみ抜粋したものです。 
*加筆修正 

長宗我部元親が、安土へ、使者を派した。

 使者は、弟、香宗我部親泰。
 三好方の三好式部少輔が服属したことを報告した。

「三好式部少輔の事」

 以下は、それに対する信長の返事。
 否、承諾=許可している様にも感じられる。
 命令 ⇄ 報告 の図式か。
 二人の関係性が、よくわかる書状である。 

  三好式部少輔の事、此方(こなた=信長)に別心なく候、
  然して、其面に於て、相談ぜられ候旨、先々相通ずるの段、
  異儀なきの条、珍重に候、

  猶以って、阿州面の事、別して
(特に)、馳走専一に候、

  猶、三好山城守
(康長)、申すべく候也、
  謹言、

  六月十二日  信長(朱印)
  
  香宗我部安芸守(親泰)殿
                      (「香宗我部家伝証文」)

信長は、三好康長を起用した。

 康長は、阿波の三好氏の一族。
 元家臣。
 この頃は、信長に仕えてた。
 すなわち、手持ちの「駒」。
 三好式部少輔は、その子とされるが定かではない。

信長は、康長を三好家の当主に仕立て上げた。

 三好氏は、阿波の名家。
 信長は、康長を、同地に配置しようと考えていた。

康長にとっては、三好家復興の大チャンス。

 康長の願いは、没落した三好家の復興。
 そこに、大きなチャンスが、舞い込んで来たわけである。
 康長の生没年については、よくわからない。
 三好長慶の叔父という。
 ならば、人生の終盤にあった人。
 残り時間は、少ない。
 これに、懸命に取り組んだものと思う。

信長は、元親の、これ以上の領地拡大を望んでいない。

 「災いの芽は、摘み取らねばならぬ」、のである。

光秀に、逆風が吹き始めた。

 おそらく、斯くなることまでは、想定していたものと思う。
 「時間切れ」
 それが、現実となった、だけ。
 問題は、ここから、先のこと。
 ならば、如何に、・・・・・。

信長は、四国問題に介入した。 

「猶、三好山城守、申すべく候也」

 この一言から、始まった。
 やがて、それは、あの大事件へと発展していく。

 そして、丁度、二年後・・・・・。

天正十年1582、六月二日未明。

「本能寺の変」




 ⇒ 次へつづく

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 「本能寺の変」
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