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本能寺の変1852 その一因 一、武田効果 第5話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

その一因 一、武田効果 第5話 

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→【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 
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その一因 一、武田効果 第5話

 【参照】信長の甲斐侵攻 1信忠、出陣 
     ◎第5話  ◎小5 ◎P5  通し 第5話

天正十年1582、二月。
信長は、甲斐を攻めた。

先陣は、嫡男信忠。
この時、二十五歳。

信長の本陣は、その後を追う。
これについて、条々。
大和の筒井順慶、出陣すべし。
丹後の細川藤孝、これは警固のため残し置く。
但し、子の忠興は、は出陣すべし。
信長は、藤孝の嫡男忠興に目を懸けていた。
忠興は、永禄六年1563の生れ。
この年、二十歳。
藤孝の後継者。
立派な若武者である。

信長は、光秀に参陣を命じた。
 光秀は、筒井・細川と同じく、後発軍である。 
 両氏は、ともに、光秀の与力。
 その指揮下にあった。

 おそらく、1000kmを超えるだろう。
 甲斐攻めは、長期に亘る大遠征となる。
 気力、知力、体力。
 光秀には、それが十分に出来た。
 まだまだ、現役。
 引退するような年齢では、なかった。

 となれば、光秀の年齢は、六十代前半以下。
 当時の人々の寿命を見れば、このあたりが上限になるのではない
 だろうか。

信忠は、破竹の勢いで進撃した。
 
三月一日。
 飯島から、天竜川を越え、貝沼原へ進出(長野県上伊那郡飯島町・同伊那市
 富県貝沼)。

信忠は、高遠城を攻めた。
 戦いは、夜明けとともに始まった。

信忠は、勇猛だった。
 自らも、塀際へ突撃して、一斉攻撃を命じた。
 敵味方、入り乱れての激戦となった。

武田氏は、この日から、僅か、十日後に、消滅する。
 
信長の武威。
 圧倒的な軍事力。
 武田氏は、戦意を喪失した。
 これに、対抗できず。
 ついには、滅びの道へ。

「その噂」が、全国を駆け巡った。
 「あの、武田が」、・・・・・、である。
 信長の武威は、最高潮に達していた。

次は、毛利。  

天下統一は、成る。

そして、このことが、信長の油断へと繋がった。
 
五月二十九日*。
 「御小姓衆二、三十人召し列れられ、御上洛」
  *五月は、小の月。この日が月末である。


光秀は、そこを衝いた。
  六月二日、未明。
 不意討ち、である。 
 「
桂川打ち越し、漸く夜も明け方に罷りなり侯」
                      
(『信長公記』) 

時は、戦国時代。
「一寸先は、闇」

何が起きるか分からぬ時代だった。 
きわめて、流動的な時代だった。

そのことを、他の誰よりも、一番よく知っていたのが、当の信長だった。
なれど、・・・・・。

これが、「本能寺の変」である。



 ⇒ 次へつづく

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