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本能寺の変1582 テーマ別 光秀の年齢 第74話④ 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

テーマ別 光秀の年齢 第74話④ 

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テーマ別 光秀の年齢

テーマ別 光秀の年齢 第74話④ 

  【参照】◎P74 ◎第74話

 そして、中国出陣命令。
 
その、わずか十日後である。
 信長のボルテージは、上がるばかり。

 信長は、毛利を滅ぼすつもりだった。
 これで、「天下布武」は、成る。
 信長は、そう、思っていた。

  中国の歴々討ち果たし、

 信長は、さらに九州を平定しようとしていた。
 そして、九州へ。
 信長は、恐ろしい男。
 「毛利滅亡」 
 斯くなれば、・・・・・。
 歯向かう者など、いようはずはない。

  九州まで一篇に仰せつけらるべきの旨、上意にて、
  堀久太郎(秀治)御使として、羽柴筑前かたへ、条々仰せ遣はされ、

 光秀は、信長の志向をよく知っていた。
 光秀は、出来る男。
 切れ者である。
 信長の、心の内をよく知っていた。
 手に取るように、わかるのである。
 それ故、ここまで出世した。
 甲斐遠征中は、ほとんど、毎日のように、顔を合わせていたものと思う。
 となれば、尚更である。
 洞察力に優れた光秀が、これに気づかぬわけがなかろう。 

 信長は、光秀に先陣を命じた。

  惟任日向守・長岡与一郎(忠興)・池田勝三郎(恒興)・塩河吉(橘)大夫・
  高山右近(重友)・中川瀬兵衛(清秀)、
  先陣として、出勢すべきの旨、仰せ出だされ、則ち御暇下さる。

 光秀の心は、重く沈んでいた。
 
石谷頼辰は、海の彼方。
 光秀には、どうすることも出来なかった。
 時は、容赦なく、過ぎていく。
 「間に合わぬやもしれぬ」、・・・・・。
 不安が募る一方だった。                    

 五月十七日。
 光秀は、準備のため坂本へ帰った。

  五月十七日、惟任日向守、安土より坂本に至りて帰城仕り、
  何れも々々々(他の面々も)、同事に本国へ罷り帰り侯て、
  御陣用意侯なり。

                          (『信長公記』)

 中国攻めは、「天下布武」の総仕上げ。
 総指揮官は、あくまでも信長自身。
 秀吉では、ない。

 秀吉は、毛利本軍を誘き出すのがその役目。
 織田総軍の一翼を担う立場に過ぎない。

 言い換えれば、信長の華々しい勝利を御膳立てする係。 
 主役は、信長。
 秀吉は、黒子。
 目立たぬように、目立たぬように。

 秀吉には、これ以上の手柄が不要だった。
 播磨・但馬・備前・因幡・淡路島。
 正に、日の出の勢い。
 目覚ましい活躍である。
 そして、毛利本軍を備中に誘き出した。
 となれば、いよいよ、信長の出番。

 だが、信長は、猜疑心が強い。
 ・・・・・。
 秀吉は、そのことを怖れていた。 

 信長は、秀吉を救援するために、援軍を派したのではない。
 秀吉は、備中。
 毛利の本拠地は、安芸。 
 安芸に攻め入るために、軍勢を派したのである。
 
攻め口は、複数。
 先の、甲斐攻めを見れば、そのことがよくわかる。

 光秀は、信長の指揮下にあった。
 
別の一翼を担う立場である。 
 秀吉の、下につくのではない。
 
秀吉と対等の立場にあった。

 これが史実。
 このこと、明記しておく。
 要注意!!
 惑わされるべからず!!

 従って、光秀は、信長から、屈辱的な命を下だされたのではない。
 むしろ、その逆である。
 光秀は、手柄を上げる機会を与えられたのである。

 おそらく、それが、国替えの口実となる、・・・・・。
 となれば、滝川一益の場合に同じ。
 光秀は、そのことを察知していた、・・・・・。 

 なお、これらについては、後述する。

 五月二十一日。
 土佐、長宗我部元親が承諾した*1。
  
*1「石谷家文書」

 光秀は、これを知らず。

 石谷頼辰が帰国の途についた*2。
  
*2「石谷家文書」

 光秀は、これも知らず。

 同日。
 家康、上洛。

  五月廿一日、家康公御上洛。
  此の度、京都・大坂・奈良・堺、御心静かに御見物なされ尤もの旨、
  上意にて、
  御案内者として、長谷川竹、相添へられ、
  織田七兵衛信澄・惟住五郎左衛門両人は、
  大坂にて、家康公の御振舞申しつけ侯へと、仰せつけられ、
  両人、大坂へ参着。
                          (『信長公記』)
 

 五月二十六日。
 光秀は、亀山城に入った。

  五月廿六日、惟任日向守、中国へ出陣のため、坂本を打ち立ち、
  丹波亀山の居城に至り参着。
                          (『信長公記』)
 

 石谷頼辰、未だ、帰還せず。
 
光秀は、吉報を待っていた。

 「本能寺の変」は、この五日後に起きた。



 ⇒ 次へつづく

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