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本能寺の変1582 重要 ◎第82話① 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

重要 ◎第82話① 

12 光秀と斎藤道三 2光秀と長宗我部元親 

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その一因 
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 82 ◎ 
*以下は、重要ヶ所◎のみ抜粋したものです。 
*加筆修正 
【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親 

土佐、長宗我部元親が生まれた。

 同、天文八年1539。
 四国、土佐。
 長岡郡岡豊城にて。
 長宗我部国親に、嫡男元親が誕生した。
 幼名、弥三郎。
 後、宮内少輔を称す。
 信長より、五つ年下である。

  【参照】天正十年1582時の年齢比較。
      明智光秀   大永四年1524±四年の生れ  59±四歳  
      織田信長   天文三年1534生れ     49歳
      羽柴秀吉   天文六年1537生れ     46歳
      長宗我部元親 天文八年1539生れ     44歳
      徳川家康   天文十一年1543生れ    40歳   

元親は、信長に誼を通じた。

仲介者は、明智光秀。

 天正六年1578のこと。
 それ故、光秀との関係が深い。

  次に、字(あな)ざの儀、信を遣はし候、
             (「土佐国蠧簡集」「織田信長文書の研究」)

信長の四国問題介入。

 天正八年1580。
 本願寺が、降伏した後のこと。
 すなわち、状況が変わった。

信長は、元親に、停戦を命じた。

 信長は、三好康長を起用した。 

  猶、三好山城守(康長)、申すべく候也、
                      (「香宗我部家伝証文」)

光秀の説得交渉が始まった。

 信長は、光秀に、十分な時間を与えていた。

元親、これを承服せず。

 元親とて、戦国武将。
 斯くなることは、想定していた。
 なれど、あまりのも早すぎた。 

交渉は、難航した。

 これが、天正九年1581。

  【参照】8 光秀の苦悩 2光秀と長宗我部元親
   ◎第50話① ◎小50①   ◎P50① 通し  第50話  小
   ◎第50話② ◎小50②   ◎P50② 通し  第50話  小
   ◎第50話③ ◎小50③   ◎P50③ 通し  第50話  小
   ◎第50話④ ◎小50④   ◎P50④ 通し  第50話  小
   ◎第50話⑤ ◎小50⑤   ◎P50⑤ 通し  第50話  小
   ◎第50話⑥ ◎小50⑥   ◎P50⑥ 通し  第50話  小

最後の使者。

 天正十年1582、正月。
 光秀は、石谷頼辰を土佐へ派した。

元親は、受け容れた。

 これが、五月二十一日。
 こうする他、道は、なかった。
 なれど、時、すでの遅し。 

頼辰、未だ、帰還せず。

 これが、五月二十九日。
 五月は、小の月。
 この日が月末である。

 光秀の、最後の切り札。
 ついに、間に合わず。

「万事休す」

 斯くして、すべてが終わった。

 同日、信長が上洛した。
 これすなわち、信長の油断。

光秀は、決断した。

 六月一日。
 中国出陣の日。
 光秀は、軍勢の一部を出発させた。

 同日、深夜 ~ 。
 すなわち、六月二日未明 。

「本能寺の変」


以下、その一因となる (①~④) 。

①本願寺が降伏し、状況が変わったこと。

②信長が、四国問題に介入したこと。

②元親の承諾が、遅くれたこと。

③頼辰の帰還が、間に合わなかったこと。


 これらについては、後述する。



 ⇒ 次へつづく


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