本能寺の変1582 重要 ◎第82話② 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』
重要 ◎第82話②
12 光秀と斎藤道三 2光秀と長宗我部元親
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82 ◎
*以下は、重要ヶ所◎のみ抜粋したものです。
*加筆修正
【シリーズ】信長の甲斐侵攻 光秀と長宗我部元親
長宗我部氏の先祖について。
長宗我部氏は、秦の始皇帝の末裔であると云う。
渡来人秦氏の流れを汲む一族とされる。
抑(そもそ)も、長曽我部宮内少輔秦元親卿の系図、家の根源は、
元祖太唐人、秦始皇六代孫の流れなり、
日本に渡海し、初めは信濃の国に住す、
この人、文に達し、武に勝る、
連々、叡聞あり(天皇がお聞きになった)、
人王十四代仲哀天皇の御宇(=御代)、召されて上洛せしむ、
詔(みことのり)あり、大学寮、先ず儒才を試され、作文を献策す、
尤も叡感あり(天皇がお褒めになった) 、
此の時、秦氏を号されおわんぬ、
聖徳太子(574~622)の時代。
秦川勝の子孫が土佐に移り住んだ。
爾(=それ)以後、聖徳太子、守屋(物部)逆臣を誅罸し、
仏法を広めんと欲し、海内(かいだい=天下)を給はんとせし時、
厥(その)十五代末孫秦川勝大臣広隆、一方の大将軍なり、
その末葉、当国の国司を賜ふ、
則ち、長宗我部領、江村郷・廿枝郷・野田・大埇・吉原、
都合三千貫領地すべき旨、頂戴し、輪(綸)旨・御盃を給ふ、
(「元親記」)
長宗我部氏の家紋について。
家紋は、鳩酢草(カタバミ)である。
そのいわれについて。
その御盃の中に、鳩酢草と云ふ草葉一つ浮き、これを飲む、
此の故を以って、鳩酢草を家の紋に定むと云ふ、
元親は、長宗我部氏の二十一代目という。
初代を能俊(よしとし)と云う。
家の初めは、能俊と申す、
扨(さて)また、十一代目信能の代、
尊氏(足利)将軍召され、御代最前(真っ先に)御味方に参ず、
恩賞、一かたならず、
爾来、代々武勇の家なり、
その二十一代が元親である。
七郡の侍、皆隔心し、
已(すで)に当家を取り消すべしとせしこと、
数度に及ぶの由、昔語りに伝え聞く、
然りといえども、冥加天道に叶う哉、
数代を経て、元親卿まで廿一代とあり、
(「元親記」)
幼少期の元親について。
幼少期は、姫若子と呼ばれ、柔和な性格だったという。
だが、長じて後、一変、土佐の出来人といわれる人物になる。
此の元親は、生得背高く色白く、
柔和にして、器量・骨柄天晴類なしと見えながら、
要用のほかは物いふことなく、人に対面しても会釈もなく、
日夜深窓にのみ居給ひければ、姫若子と異名をつけて、
上下囁き笑ひけり、
(「土佐物語」)
⇒ 次へつづく
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