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【読書コラム】ナチによるホロコーストの起源はアメリカにあり - 『弱者に仕掛けた戦争: アメリカ優生学運動の歴史』エドウィン・ブラック(著), 貴堂嘉之(監訳),西川美樹(訳)

 わたしは相模原出身だ。津久井もよく知っている。そのため、津久井やまゆり園事件が起きたときはショックだった。想像を絶する惨状に絶句したのはもちろん、やまゆり園の存在を知らなかった自分自身に衝撃だった。すぐ近くで暮らしていたというのに、わたしはなにも見えていなかった。

 植松聖死刑囚は、意思疎通ができないものは社会に迷惑をかけるだけだから、殺害してもよいと主張し、それを実行した。そんなことは絶対に許されていいはずがない。ただ、やまゆり園の近くで育ちながら、やまゆり園で日々なにが起きているかを知らないまま、平和な人生を送ってきた自分になにを言う資格があるのだろうと焦燥感に駆られてしまった。

 突き詰めれば、既存の社会システムに合わない人たちを透明化してきた社会の問題であり、その透明化の余波を受けた人間による蛮行について、これに目を向けないと言う形であれ、肯定してきたわたしも無責任ではいられない。

 具体的に言えば、あのとき、植松は当時の首相だった安倍晋三に手紙を送っていた。自分の思想を理解してくれると信じていたのだろう。事件後、さすがに安倍晋三は追悼の意を表しただけだったが、当時、政財界では植松がそう思ってしかるべき空気が流れていたのは間違いない。

 振り返れば、バブル崩壊後。日本経済を立て直す方法として、ドラッカーが提唱した「選択と集中」で立て直しに成功したアメリカのGEを参考に、国内企業も多くマネをしてきた。この効率化重視の発想は2000年代、小泉政権の熱狂的な支持という形で政治の世界にも浸透。正しい目標と成り果ててしまった。

 しかし、2008年、リーマンショックが起きたことで「選択と集中」の弱さが露呈。アメリカでも日本でも、多くの会社が苦しむことになり、世間の閉塞感はピークに達し、それぞれ劇的な政権交代が実現する。オバマ大統領の誕生と小沢一郎による民主党の政権交代だ。どちらも2009年の出来事だった。

 あの頃、日米ともに具体的な政策が支持されて、トップが変わったわけではなかった。このままじゃいけないという変化を求める空気に押されて、ある種、そんな状況を作り出した連中を辞めさせることが目的となっていた。要するに、新しいリーダーは祭りの神輿みたいなもので、誰も彼らにどうしてほしいか、具体的なイメージを持っていなかった。

 実際のところ、オバマも日本の民主党もリーマンショックの後処理という損な役回りも担わされていたので、本来、うまくいかないのが当然だった。しかし、国民は漠然と変化を求めていたので、そのうまくいかなさを受容する余裕などあるはずなかった。

 日本人は事業仕分けに興奮した。それまでの経緯など関係なく、基地を移設したり、ダムの建設を止めたりすることを望んだ。断捨離という言葉がブームになった。決断力のない鳩山由紀夫にヘイトが溜まった。菅直人の時代、やがて、東日大震災をきっかけに不満は爆発。2012年、あっさり自民党が政権を取り戻し、安倍晋三の長期政権が発足した。その四年後、アメリカではトランプが大統領になった。

 どちらも強硬な経済政策を武器に人気を集めたことは偶然じゃないだろう。アベノミクスとアメリカファースト。ここにきて、「選択と集中」が復活を遂げたのだ。気づけば、効率化は教義となっていた。なにかを無駄と定義し、取り除くことは絶対的な正義となってしまった。

 植松聖が事件を起こす前年、麻生太郎は北海道の講演会で「90になって老後が心配とか訳のわからないことを言っている人がテレビに出ていたけど、いつまで生きているつもりだよと思いながら見ていた」と語った。事件後、石原慎太郎は植松の行為について、ある意味でわかると言っていた。かつて、水俣病患者が書いた抗議文を読み、会見で「これを書いたのはIQが低い人たち」と暴言を吐いたことが思い出された。

 危ない匂いが漂い始めていた。そして、2018年、杉田水脈が『新潮45』に「LGBTのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子どもを作らない、つまり生産性がないのです」と寄稿した。

 悔しかった。津久井やまゆり園事件で、我々は優生思想を改めて否定しなければいけなかったはずなのに、現職の国会議員がこんな言説を堂々発表できてしまうなんて、と。

 もちろん、杉田水脈は大炎上。多くの人がその優生思想を批判した。わたしも匿名のアカウントで問題点をあれこれ指摘したものだ。

 しかし、その中で疑問が生じた。そもそも、優生思想とはなんなのだろう。みな、一様にナチス・ドイツの例を引き合いに出しているけれど、これはヒトラーが考え出したものなのだろうか。

 植松聖に覚えた焦燥感の正体をつかんだ気がした。もしや、優生思想とはなんであるか、それを根拠に差別をするものたちも、それを理由に批判するものたちも、ひょっとして、優生思想のなんたるかを理解していないのではないだろうか。

 以来、ずっと、いつかはちゃんと優生思想の歴史を学ばなくてはと思ってきた。そのため、昨年、人文書院から『弱者に仕掛けた戦争: アメリカ優生学運動の歴史』が発売されたとき、買わないわけにはいかなかった。

 定価は税込で8,800円。ページ数は驚異の700頁。手に持って読むのは困難な書籍だったので、ベッドに寝転び何日もかけて読破した。強烈だった。

 要約できるものではないけれど、あえて、一言でまとめるならば、優生学はイギリスで理念が作られ、アメリカで実践され、ドイツで暴走したという事実が示されていた。

 こんな風に書くとそんなもんだろうなぁと思われるかもしれない。しかし、実際に読むと、そんなもんじゃない事実が次から次へと判明する。

 たとえば、優生学はメンデルの遺伝の法則を根拠にしていると多くの人が思っているけれど、実際はフランシス・ゴルトンという数学者の推論に過ぎず、最初から科学でもなんでもなかったらしい。なんなら、ゴルトンの妄想と言っても過言ではない。

 ゴルトンはダーウィンの従兄弟であり、本人も天気図や指紋解析技術を発明するなど様々な功績を残した。たしかに凄い人ではあるが、自意識が過剰で、自分たち一族を天才と定義することに躍起だった。そして、自分たちの天才性が遺伝によるものだと示すため、優生学という屁理屈を無理やり作り出したのだ。

 そこに数学の要素はなかった。しかし、有名な数学者が言っているから科学的なんだろうと勘違いされ、ソースを確かめることなく「才能は遺伝する」という考え方が世間に広がり始めた。

 つまり、優生学の本質は「俺の血筋は凄い」という自慢であり、ゴルトンが暮らすイギリスは階級社会だったので、あくまでナルシシズムを満たすものとして受け入れられたのは想像に難くない。

 問題はこれがアメリカに渡り、人種の坩堝において、「俺の血筋以外は凄くない」という差別意識にひっくり返ったときに生じる。自分たちと違う種類の人々を迫害する際、海の向こうの学説として、優生学は重宝されたてしまったのだ。

 方法は簡単。気に入らない人間がいたら、なんらかのレッテルを貼ればいい。そして、その原因は遺伝にあると結論づけ、社会に迷惑をかける子孫を残させないため、断種を行うだけである。

 恐ろしいことに、二十世紀前半、アメリカのいくつかの州で遺伝的に劣った人々を対象とした強制去勢治療が合法化し、信じられないことに1980年ごろまで継続していた。いや、アメリカだけではない。日本でも90年代まで優生保護法が残っていたように、決してナチスのものと矮小化してはいけない。

 なんなら、ナチスはアメリカ国内で行われた断種のデータをT4作戦やホロコーストに活用したという。しかも、迫害対象となるユダヤ人や障がい者のリスト管理について、IBMが技術的なサポートをしていたというから言葉を失う。

 結局、優生学はカルトな宗教であり、自分たちの正当性を主張するために都合よく敵を作り、罪悪感なく攻撃をするための便利な言い訳なんだと、『弱者に仕掛けた戦争: アメリカ優生学運動の歴史』を読み、よくわかった。

 その上でわたしたちは心に誓う必要がある。植松聖の気持ちはわかっちゃいけない、と。それをわかったら最後、差別が始まる。迫害が始まる。その先に待っているのは絶望だけだ。

 障害者に対する差別を認めた瞬間、あらゆる差別が肯定される。生産性がないという理由でLGBTが殺され、働かないという理由で高齢者が殺され、仕事ができないという理由であなたが殺されるかもしれない。

 反ナチ活動家の牧師、マルティン・ニーメラーの詩を忘れてはいけない。

ナチスが共産主義者を連れさったとき、私は声をあげなかった。私は共産主義者ではなかったから。

彼らが社会民主主義者を牢獄に入れたとき、私は声をあげなかった。社会民主主義者ではなかったから。

彼らが労働組合員らを連れさったとき、私は声をあげなかった。労働組合員ではなかったから。

彼らが私を連れさったとき、私のために声をあげる者は誰一人残っていなかった。

『彼らが最初共産主義者を攻撃したとき』

 そもそも、障害は障害として、独立に存在するものではない。それを障害と感じる人がいて初めて存在し得るものである。

 漫画『Dr.STONE』第4巻28話に、そのことを示すエピソードが載っている。

 文明のなくなった世界で、目が悪いことに悩んでいた女の子は生活に困難を抱えてきた。しかし、眼鏡を作ってもらえたことで、困難は綺麗さっぱりなくなってしまう。

 現実はこんな簡単に変わらないけれど、制度や環境、技術によって、障害は障害でなくなる可能性を常に孕み続けている。そのためにできることはないか、考え、行動する不断の努力が求められている。

 ずっと近くにいたというのに、やまゆり園のことを知らなかったわたしはとても卑怯な人間だった。だが、そのことを理由に、植松聖を否定する責任から逃れられるわけではない。

 自分に関係ないさと見て見ぬふりをするところから、優生学は繰り返し蘇る。なにせ、それは科学でなく、ナルシシズムの化け物だから。「俺は凄い」「わたしは特別」という勘違いが生まれるたび、それっぽい顔して弱者に戦争を仕掛けてくるのだ。

 メンタリスト・DaiGoが猫と比べてホームレスの命に価値はないと述べ、「ホームレスの命なんてどうでもいい」と発言したとき、大炎上する一方、賛同の声が多々ネット上で見受けられたのはとても悪い兆候だった。

 SNSの普及によって、人々の自意識はいまや史上最大規模まで膨れ上がっている。自然、優生学が雨後の筍のように現れ続けることだろう。

 わたしたちはそのひとつひとつを否定していかなくてはいけない。モグラ叩き状態と化し、終わりは延々見えないけれど、それぐらいしなきゃ、臭いものにふたをしてきた我々の罪は贖えない。

 そう。この国に、津久井やまゆり園事件と関係のない人間なんていないのだ。全員に、悩み苦しみ、答えのない答えを探し続ける義務がある。




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