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梨木香歩 『椿宿の辺りに』 : 万物照応する世界

書評:梨木香歩『椿宿の辺りに』(朝日新聞出版)

今どきの小説は「キャラクターの魅力」を楽しませるものが主流だ。その受け皿として「ストーリー」が存在すると言っても過言ではないかも知れない。いきおい、ストーリーが類型化する。そうした作品の読者にとっては、ストーリーは類型化しても構わないのだ。ストーリーはあくまでも様式であって、そこを楽しむのが目的ではないからだ。
しかしまた、少し前の「日本文学」では、「人間」を描くことが目的とされ、その深みを味わうことを読者は楽しんだ。端的に言えば、訓練された、選ばれた読者のための作品であったと言ってもいい。読者には、読解力が求められたし、読者の方にもその自負があったが、今や、そういうものはまったく流行らないものとして、読書界の片隅に押しやられている。

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では、本作は何を描いているだろうか。

それは「キャラクターの魅力」でも「ストーリー」でもないし、まして「人間」でもない。
本作が描いているのは「世界観」だ。さらに言うなら、作者が求めている「あるべき世界」観であると言って良い。世界はこのようあるべきだという作者の「想い」が、物語として表現されている。まさに、そんな「ひとつの世界」を創造した作品だと言えるだろう。

では、その世界とは、どのようなものか。
それを適切に表現するのは、なかなか難しいのだけれど、あえて言うなら「万物照応する世界」だとでも言えよう。

「万物照応」とは、どういうことか。ここでは「はてなキーワード」の解説を紹介しよう。

『「最大なる世界(マクロコスモス)は最小なる世界(ミクロコスモス)と影響しあい相似する」という考え方。西欧神秘思想の基本的な概念であり、錬金術や占星術などの理論的な支柱となっている。
エリファス・レヴィ「コレスポンダンス(万物照応)」の影響を受けてシャルル・ボードレールが書いた『悪の華』のなかの「万物照応(コレスポンダンス)」という詩が、フランス象徴詩の母体となった。
 私という「内宇宙」と世界という「外宇宙」が相互に呼応しあうという出合い、その神秘を解き明かすことに、フランス象徴派の詩人は精力を注いだ。そこには、「詩の音楽化」という試みもなされていた。』

これでは、いささか抽象的でわかりにくいのだが、少なくとも本作『椿宿の辺りに』を読んだ読者には、次のような言葉なら、概ねその意味が了解できよう。

『下のものは上のもののごとく、上のものは下のもののごとし』
     (エメラルド・タブレットTabula Smaragdina)

『目に見える言語で形づくられた
 この世は神の夢だ。』
     (エリファス・レヴィ「コレスポンダンス(万物照応)」)

『自然は一つの神殿、そこに生きづく柱は
 ときおりとらえにくい言葉をもらす。
 人間がそこに入り象徴の森を過ぎ行くと、
 森は親しげなまなざしで人間を見守る。』
     (シャルル・ボードレール「万物照応」)

つまり、単に「ミクロコスモスたる人間」と「マクロコスモスたる宇宙」が相似的関係にあって響きあい影響しあう「一体的」な世界、と言うだけでは済まされない、文字取り「万物」が「照応する=響きあい影響しあう」交響楽的世界であり、どちらがミクロでどちらがマクロだなどとさえ言えない、一体としての「完全世界」である。

これを本作に即して言うのなら、「主人公の体調」と「実家の構造」と「先祖の生き方」と「土地や自然の歴史」と「人間以外の生き物」と「神話・伝説」といった項目が、すべて「照応する=響きあい影響しあう」世界なのである。

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だが、だからと言って、それが主人公を含め、そこに存在するものにとって、何の問題もない世界だというわけではない。
問題はあるのだが、問題も孤立して局所的に存在しているのではなく、他の全てのものと関連して、全体の中でその意味を与えられているのだ。だからこそ、物語の発端となる、主人公の体調不良は、そのまま、そこに描かれた世界そのものに内在する「差し障り」を解決する物語へと発展していく。

こうした世界観は「万物照応」という言葉の解説にもあるとおり、極めて「魔術的」で「過剰解釈」的な世界観であり、昔からあるものなのだが、著者の梨木香歩には、そうしたセンスが備わっているのであろう。

しかし、無論、こうした世界観が、私たちの住むこの世界の本質を正しく示すものであるという保証はどこにもない。むしろそれは、多分に「願望充足的なフィクション」に過ぎないとも言えよう。事実、本作が描く世界は、多くの問題を孕みつつも、しかし「優しい世界」であるという事実は、読者のだれも否定しないところだろう。ここに描かれた世界は、私たちの住む現実世界より、はるかに優しいのである。
そしてその「優しさ」とは、たぶん「万物照応」の世界が「母胎内的世界」であるからだろうと私は思う。
つまり、母体から排出され、へその緒さえ切断されて孤立せざるを得ない、「孤独」を知る前の温かい世界に酷似しているのである。

世界とは、主観的には「私」を中心にして存在しているのだが、しかし、私たち個々は、実際には孤立しており、私が死んでいなくなっても、あるいは、この地球が消滅しても、世界は何の痛痒もなく、変わらず進行していくだろうということを、私たちはよく知っている。私たちの知る世界とは「万物照応」どころか「私と私以外のすべてが切れた、冷たい世界」なのだ。
だからこそ、私たちは「つながり」を求めて、日々インターネットに向かって、自分の存在をアピールしようとしたりする。母の乳房を求めて鳴き声をあげるのだろう。だが、本質的な孤独は、どんな道具を使っても、どのようにしても、完全に和らげられることはない。だからこそ私たちは、そうした世界そのものを「虚構」するしかないのである。
そして、本作はそのような「世界」を構築して、読者に提供したひとつの作品だと言えるだろう。

本作を「世界の本来の姿を提示したもの」と理解する読者も少なくなかろう。だが、私は本書を「人が願望する世界を描いたもの」だと考える。つまり、そこには「リアルな人間」は描かれていない。
しかし、このリアルな人間が描かれていない世界が、私たちの住むこの現実世界を逆照射しているのは確かだろう。

「目に見える言語で形づくられた、この世(この物語)は梨木香歩の夢だ。」一一これが本作の本質だろう。
私たちは、そんな世界に憧れられはしても、残念ながら、その世界に入ったままでいることはできないのである。

初出:2019年5月24日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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