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稲垣良典 『神とは何か 哲学としてのキリスト教』 : 神の不在ゆえの 護教的欺瞞と高慢

書評:稲垣良典『神とは何か 哲学としてのキリスト教』(講談社現代新書)

この人の議論はいつでも、ウンザリするほど勿体ぶった衒学趣味の三百代言的詭弁であり、所詮は護教的ペテンでしかない。
「著名なカトリック学者なんだから、そんなことはしないだろう」などと考えるような、歴史と宗教に無知な人のために、最初にハッキリと言っておこう。
神学とは、基本的に「わが神は尊し」という「結論ありき」の護教論なのである。そして、十字軍異端審問と同様、いつでも目的は手段を正当化してきたのだ。

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(アルビジョア十字軍による、異端カタリ派虐殺)

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(スペインの異端審問)

「神とは何か」一一 著者・稲垣良典は「これは、現代においてどこにでもあるような通俗凡庸な問いではなく、自身を問い深めることに通じる、哲学的に深い知恵の問いなのですよ」と、学識を欠き、物事を突き詰めて考える習慣のない人たちに向けて、大上段から思わせぶりで語る(つまり「掴み」としての「カマし」だ)。

しかし、このように「現代における世俗的な知(理性)としての科学(的思考)」や「事実(目の前の現実)」を居丈高に軽んじて見せるのが、「超越性というレトリック」を安易に弄する、独善的な宗教的ペテンの臆面もない常套手段であって、本書もその例外ではない。

著者の言い方は「科学的思考なんて当たり前であり、凡庸なものでしかない。しかし『神とは何か』という問いは深遠なものであり、非凡だ。あなたにはそうした哲学的な思考がありますか?」といったものであり、この手の思わせぶりに食いつく、知的承認欲求の満たされない人たちが、しばしばカルトに引っかかる。

無論、もはやキリスト教はカルトとは言えないが、今もキリスト教の中にはカルトが存在するし、カルトではない教派の中にも、カルト的な人や思考や手法なら、いまも生き続けている。例えば、「悪魔」を実在とするカトリックで、悪魔祓い師が正式に生きているように。

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だが、キリスト教に無知な人は「キリスト教はカルトではない」と、その無知ゆえの単純明快さと警戒心の無さで、そうしたレトリックに易々と乗せられてしまう。

「神が実在しない」ということを「科学」は証明(確証)できない。一一これは有名な「悪魔の証明」というやつで、「存在しないことの証明」は、神だろうと悪魔だろうと、あるいはウルトラマンであろうと、確証はできないのだ。

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(「こんな神など存在しない」という証明は不可能)

しかし、神や悪魔やウルトラマンが存在しないというのは、「歴史的」には明らかだ。
「ウルトラマン」が人間の作ったものだという歴史的事実があるように、「神」や「悪魔」も、人間の創作でしかないことは、歴史的事実に即して「ほぼ」間違いない。

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「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」一一こんな神の不在証明も不可能。だから、存在する?)

ウルトラマンが、100パーセント「宇宙のどこにもいない」とは確証できないのと同様に、神も悪魔も、どこにもいないとは確証できないけれど、少なくとも「聖書に書かれた、キリスト教の神(エホバ)」「処女から生まれ、処刑後3日目に復活した後、肉体を持って天に昇った、主イエス・キリストという神」が存在しないというのは、歴史的には明白な事実だ(カトリックの稲垣が、この比喩でも何でもない具体的事実としての正統教義への、正面からの言及を避けている点に注目)。
このように、キリスト教の各種教義と歴史的事実の矛盾(さらに、公会議による強権的辻褄合わせの無理)を考え合わせれば、そんな超越的存在など存在しない蓋然性は、ほぼ100パーセントなのだ。

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(「受胎告知(マリアの処女懐胎)」新約聖書 ルカ福音書)

しかし、だからこそ著者は「キリスト教の言う神とは何か」とは問わずに、「神とは何か」と曖昧に問うてから、キリスト教の神の話にずらし込んでいく。

言うまでもなく、キリスト教信者にとって「キリスト教の言う(聖書が教えるところの)神は存在しない」という可能性は、是が非でも認められない。
なぜならそれは、なにより自分自身の人生とアイデンティティを否定するものだからで、だからこそ現代では「存在する証明」は避けて「存在しないという証明はできない」などと言いたがる。そして「キリスト教の神」ではなく、無定義な「一般的な神」を持ち出し、議論の余地を担保しようとする。

だがそれは、いかに深遠めかそうとも、所詮は物事を突き詰めて考える習慣のない人向けの、歴史的にもありふれたペテンでしかない。こんなことは何度も繰り返されてきたのだ。
それがペテンに見えないのは「キリスト教という金看板」の権威のせい(目くらまし)であって、中身の問題ではないのである。

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「抽象概念としての神」なら、いくらでも論じればいい。
しかし、その前に「聖書の神」の不在について、正直に認めてから議論をしてもらいたいものだが、そっちこそが「(本書前半で秘められた)本丸」である以上、老獪な著者に正直な態度を求めても無駄だろう。
だから、読者に言おう「美味しい(甘い)話」や「リアルな人間が不在の、高尚深遠めかした話」には要注意。つまり「眉に唾して読む知性を持て」と。

なお、私はすでに稲垣良典の旧著へのレビューで、真正面から稲垣を論駁している。

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同じことは繰り返したくないので、ぜひそちらをご参照いただきたい。そうすれば、稲垣のペテンの常習性もその手口も、おのずと明らかになるはずだ。

いずれにせよ、稲垣良典が「学者」の肩書きにおいて有り難がられるのは、間違いなく生きている間だけだろう。
ベストセラー小説家と同様、ジャンルを問わず「使い勝手の良い現役の物書き」というのは、いつでも同時代のうちは過大評価されがちなのだ。

無論、キリスト教書にも優れたものはいくらでもあるので、神に近づきたいのなら、そちらを読むべきだろう。
併せて、科学啓蒙書や哲学書、そして歴史研究書なども読めば、稲垣の弄する初歩的なペテン(鬼面としてのペダントリ、無根拠な決めつけ、はぐらかし等の合わせ技)に引っかかることもないはずだ。

また、本書を「信仰という病い」の根深さを学ぶための反面教師とするのは悪くないし、知識以上の知恵や自己探求を極める信仰による高次の認識といったものを語る著者が、いかに不似合いな「文体」の持ち主かに注目して、主張と内実の不相応という「ありがちな現実」を学ぶのも悪くない。

ともあれ、お手軽に真理を掴みたいなどと横着なことを考える心の隙に、悪魔はつけ込むものだということを、読者はゆめゆめ忘れてはならない。

初出:2019年3月7日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)
再録:2019年3月24日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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