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【短編】『本の虫』

本の虫


 私の趣味は本を読むことだった。と言っても趣味以外に日中することはなく、強いて言うなら小さな扉の内側に毎日ひょいと置かれる少量のご飯を食べることか、外の世界を想像して妄想に耽ることぐらいだった。幸い、以前住んでいたであろう子持ちの家族が残していった本棚と本がずらりと並べられており、それを片すことすら面倒に思った継母はそのまま私を部屋に閉じ込めたのだ。本は子供向けの絵本から学術書まで種類は様々だった。

 私はそれからのこと本を読むことに夢中になった。継母は屋根裏部屋に入ってくることはないので、私が本に夢中になっていることは知る由もなかった。ただいつもオニオンスープとパンが乗ったトレーを持った赤切れの目立つ右手が扉の影から一瞬姿を現すだけだった。食事以外にもお湯の入った桶とタオルが毎日その扉から運ばれた。私はそれを使って自分の体を清潔に保った。継母の顔は随分昔に一度、私が食器を扉の前に置き忘れ、確認のためにひょいと顔を覗かせた時以来見ていなかった。どのぐらいの月日が経ち、どれほど継母は老け込んでしまったのだろうかと思った。私はたまに思い出したように部屋の柱の前に立っては、自分の身長の高さのところに傷を入れていたため、自分の背の伸び具合からして2年ぐらいかと見積もった。

 ある朝のことだった。目が覚めるとなんだか体の調子がおかしく感じられた。いくら寝返りを打とうとしても頭から足先まで体が固まって動けないのである。金縛りにあってしまったかと思い、しばらくそれが解けるのを待った。いつもの金縛りとは何か違うと思いながら私の頭には自然と本のことが浮かんだ。そろそろ読みかけの本を読み終えるため、次はどの本を読もうかと物思いに耽った。私はすでに児童文学から卒業して大人の本を読んでいた。最近読んだ本と言えば、ヘンリージェイムズのねじの回転やサキの短編集、カフカなど古典が多かった。わりと年代の新しい文学でも読んでみようと、まだ手付かずだったフォークナーの納屋を焼くや、チャンドラーの大いなる眠り、それとダザイの走れメロスを思い浮かべた。どれも魅力的だったが、やはりヤパン文学を読んでみたいと思い走れメロスに決定した。

 しばらくしてもう金縛りが解けたかと思い、起き上がろうと首の力だけで頭を持ち上げると大きな岩のようにびくともしないのだ。なんとか体をころころと回転させてベッドの脇までこれたが、移動するにも腰から踵にかけて曲げることができなかった。どうしようもなくなった私は、とうの昔に読んだくまのプーさんの絵本に出てくる虎のティガーのように垂直に飛び跳ねながら移動するしかないと思い、床に倒れ込む勢いで立ち上がった。一瞬バランスを崩しかけたがなんとか飛び跳ね続けることによって移動の方法を習得した。鏡の前までくると、そこにはいつもと変わらない自分の姿があった。しかしながら体の中は全くもっていつもと違うのである。自ら背中を確認しようと少し体勢を傾けるも、首を横に捻ることすら至難の技だった。

 なんとか肩の上から手を回して背中の方に手をやってみると、太い定規のような一本の何かがあるのである。継母の仕業と思ったが、私を閉じ込めてからのこと屋根裏に入ってくることは一度たりともなかったためにそうとは考えられなかった。今度は腰のあたりから太腿にかけて手を伸ばしてみるとそこにも先ほど同じ一本の何かがくっついているのだ。その何かはとても太くそして硬くまるで恐竜の背骨のようだった。もう一度肩の方から首筋を撫でてみると、その硬い骨がちょうど頭の後ろのあたりで折れ曲がり内側に食い込んでいることがわかった。ちょうどその間からは長い髪の毛のようなものが一本生えており、引き抜こうとすると激しい痛みを感じ咄嗟に指を離した。私はふと以前読んだ本の一文を思い出した。

「ある朝グレゴール・ザムザはいろいろな不安な夢から目覚めたとき、自分がベッドのなかでおそろしい害虫に変ってしまっているのに気づいた」

私はその情景を頭に浮かべると同時に肝を冷やした。寝ている間に何かとんでもないことが起こり、背骨が異常な進化を遂げたのかもしれないとふと恐ろしくなった。私は自分の硬い体に慣れるまでにかなりの時間を要したが、ようやく難なく食事ができるまでにはなった。不自由であることは変わりないが、無駄に動かなくなったという意味では少し大人のようになれたような気もした。

 私はある夜、突然自分の体から羽が生えきて屋根裏部屋から飛んで抜け出す夢を見た。それはなんとも爽快な心地でまるでピーターパンの絵本に出てくる妖精になったような気分だった。翌日今までになく目覚めの良い朝を迎えた私は、鏡の前に立つと自分の体型にどこか違和感を覚えた。太ったとは言いづらいもののなんだか横に広く見えたのだ。そっと腰に手を添えるとそこには薄い羽のようなものが何枚も重なってくっついているのだった。私は仰天して直立のまま後ろに倒れ込んでしまった。その時だった。私の体は床に叩きつけられる寸前に若干宙に浮きパラパラと音を立てたのだ。私は気づいたのだった。本の虫になってしまったと。


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