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【短編】『春の訪れ』

春の訪れ


 森の奥深くの洞穴に眠るヒグマはツバメの鳴き声を聴くなり寝返りを打つ。誰もいないはずの湖のほとりにつがいのシマリスが現れ、風で飛ばされた木の実を求めて草をかき分ける。それを遠くの水面からじっと見つめるカバは水中へと潜って再び水面に顔を出すと、鼻から水を勢いよく吹き出す。シマリスは突然のことに身を震わせて森の方へと去っていく。再びツバメが鳴くとヒグマが寝返りを打つ。どこからか怪物が唸り声をあげながら近づいてくる音がする。白いボートだ。船上には二人の人間が立っている。一人はハンドルを握ってタバコを吸い、もう一人はデッキに上がって片手でレールにしがみついた状態でもう片方の手で長いレンズを顔に当てている。あまり見かけない人間たちだ。ゆっくりとボートが停止すると、先ほどまで凶暴だったボートはおとなしくなった。すると二人の人間が突然忙しなく何かをボートの中から引っ張り出し、両腕を大きく振ってそれを水面へと放り投げる。白い細い網だ。すぐに持ち手のところを引いて順に網を折りたたんでいく。するとバタバタと水面が跳ね始め、全て引き上げる頃には何匹もの小魚が尻尾を網の束から出して勢いよく振り続ける。それを遠くからじっと見つめるカバは、向こうから漂う獲物の臭いで腹が減ってしまうと、水中へと姿を消した。

我々は盗まれたボートを追っていた。密林の中に入ると、そこかしこから鳥とムシの鳴き声が絶え間なく聴こえてくる。ヘビやクモは物音すら立てないのでかえって恐怖を抱いてしまう。奴らにも声帯があれば良いのにと思う。人間社会を抜け出すとそこはもはや危険そのもの。ライフジャケットと手錠、そして救急箱だけでどう立ち向かえというのだ。しかし、そんなことも言っていられない。我々は盗んだ者を捕え、依頼人にボートを受け渡すという任務を課されているのだ。警備用ボートが傷つかぬよう木々をかき分けながら細い川を上っていく。一匹の手長猿が我々の進む道を案内するかの如く前方で枝から枝へと飛び移る。

「見てみろ」

「ああ。面白いやつだ」

「オレたちに興味があるみたいだな」

「そのようだ」

「しかしこんな森まで来てしまうとは」

「仕方ないだろ。探せと言うのだから」

「だが、なぜオレらなんだ」

「そんなこと知らん。署長の命令は従う外ない」

「昔やんちゃしてたからじゃねえのか」

「そんなこと関係あるか」

「あるかもしれない。だって署長、事あるごとにオレらに嫌な仕事ばかり押し付けてくるじゃないか」

「今回もそうだと言うのか?」

「ああ」

「署長はこう言ったんだぞ?『君たちに大事な任務を任せる』と。それに、盗まれたボートの持ち主は署長の友人らしいじゃないか。間違いなく大事な仕事だ」

帽子を首にぶら下げた男は、一方のライフジャケットを着てハンドルを握る男に向かって首を傾げた。

「なんだその顔は?」

「いや」

「何か言いたいことがあるなら言え!」

「署長の友人てのも嘘なんじゃねえかって」

「なんだと?」

「だって、署長にそんな金持ちの友人がいると思うか?」

「そりゃ、あんな人に嫌われそうな醜い顔じゃ一人も友人はいなさそうだが、だからこそその金持ちのボートを取り返して友人として認められたいんじゃないか?」

「そうかなあ」

「ああ、きっとそうだ」

と木々をかき分けながら会話を続けていると、やがて密林が開けてきたと同時に、目の前に広大な海が姿を現した。川を上ったはずが海に戻ってきてしまったようだった。我々は密林の奥の湖をむざしていたはずなのにどうして、海に着いてしまったのだろうかと二人してと方に明け暮れていると、どこからか人の声が聞こえてきた。

「お前の母ちゃんの尻みたいにでけえ湖だ」

男は帽子を頭に被って声のする方に顔を向けた。しかしそこに人の姿はなかった。空耳かと思い再び帽子を取ると、先ほどよりも近くでその声はした。

「お前の母ちゃんの尻みたいにでけえ湖だ」

ちょうど目の前に見える枝の上に赤黄緑の三色に彩られたオウムがとまっていた。

「お前の母ちゃんの尻みたいにでけえ湖だ」

どうやらこのオウムが声を発しているようだった。我々はオウムに感謝しなければならなかった。その声は、ここが海ではなく湖であることがわかったと同時に、この先にボートを盗んだ犯人がいるということを教えてくれていたのだ。

静まり返った湖の真ん中で、二人の男たちは獲れた魚を眺めながら組み立て椅子に寝そべってくつろいでいた。片方はサングラスまでつけて仮眠をとろうとしていた。

「それにしても暖かいな」

「ああ」

「もう春か」

「そうだな」

「この後の人生どうしようか」

「うーん」

「国外に逃げないか?」

「そうだな」

「ボートの燃料をどこかでもらってこの国を出よう」

「悪くない」

「おい、もっとまともに答えてくれよ」

「ああ」

その言葉を最後にサングラスの下の唇が動くことはなかった。

「お前の母ちゃんの尻みたいにでけえ湖だ」

という声が聞こえてきたかと思うと、その後に続いて一瞬サイレンの音が響いた。警察のボートだった。ボートの外には、赤黄緑の三色に彩られたオウムが足を紐で縛り付けられて必死に逃げようと声を発していた。二人は慌てて椅子から飛び起き、ボートのエンジンをかけると再び怪物の唸るような音が湖に響いた。すると警察の男がメガホンを顔に当てた。

「警察だ。観念しろ!」

急いで錨を上げてボートを動かそうとしたその時、再びメガホンから声が聞こえた。

「お前らだろ。このオウムに教え込んだんだのは?署でじっくり母ちゃんの尻を眺めさせてもらおうじゃないか」

全速力でほとりの方へとボートを走らせた。高値のボートであるだけに信じられないほどの速度でボートは走った。あっという間に警察のボートの姿は小さくなり、ボートはほとりへと乗り上げた。二人はそのまま荷物を置いて森の中へと走った。

「追うか?」

「当たり前だろ」

警備用ボートを湖のほとりにつけると、逃げた犯人たちを追って後の二人もいなくなった。

誰もいないはずの湖のほとりにつがいのシマリスが再び顔を出した。木の実を手に取って噛み砕いていると、背後から物音がする。後ろを振り向くなり、そこには痩せこけたヒグマが立っていた。シマリスは即座に木の実を落として森の方へと身を隠した。のこのことほとりまでやってきたヒグマは一口湖の水を飲むと、向こうにとまった二隻のボートを見て鼻をひくつかせた。

「お前の母ちゃんの尻みたいにでけえ湖だ」という声だけが響いていた。


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