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「道」のうえで -遠音とエンジンと消しゴム-

「道」のうえで -遠音とエンジンと消しゴム-

 遠くから聞こえるすべての音というのは、なぜか懐かしく感じる。学校のチャイム、野球の練習をする少年の掛け声、通りを走る車のクラクション、花火の音、爆竹の音、雷鳴が聞こえると、遠くで降りすさぶ豪雨の音も聞こえる気がする。仮に隣の国で戦争が起きて、銃声や爆撃音が聞こえてきても、それは血みどろの争いを想起させる前に懐かしさを与えるのだろう。遠音が発生して秒速300mで僕の元へと訪れる。その数秒の間に起こ

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砂浜と悪意

砂浜と悪意

 初老の男が去った後には男女4人の笑い声が砂浜全体に響きわたっていた。民家や民泊、新築のコテージが潮風に吹かれ明かりを灯していたが、夏の夜と若者たちの奇声は近隣の住民には馴染み深いもので、だれも、気にするものはいなかった。

 若者が暇を持て余して海辺に集まり、明日には忘れてしまうような、些細な会話や大げさな自慢話や産毛をたくわえて生暖かいままの色恋話は幾万となく生まれて、彼らがその場を去るころに

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幸福の小鳥たち

幸福の小鳥たち

「わたしは幸せになりたい。」
そういうと、なんだか身体の芯が凍えた気がして。
『幸福の小鳥たち』を皆殺しにしたい。その思いはいや増して抱える猟銃にも力がこもる。
 こんなことを言うのはわたしだけだろうか。世間によれば答えは既に準備してあって、疑問を挟むと妻は逃げだしていくという。現にわたしの妻は昨晩逃げだした。小鳥たちと同じように。「あなたといるとズルいことが出来なくなるの。」そういって、結婚指輪

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その日から離れた男が覚えていること

その日から離れた男が覚えていること

 長い時間がたつと人は疲れるようにできている。それが楽しい、わくわくするような時間であっても同じで、愛する人々であろうが四六時中一緒にいればうんざりするものだ。仕事なら言うまでもなく当然のことで、男は長い時間を今日も耐えて、家に着いた。
 荷物を居間に放り投げ、コンビニで買ってきたコーヒーを飲みながら煙草を一本吸って、玄関に置いてあったグローブと軟式ボールを持って外に出た。男の家の裏には廃校舎があ

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無への帰郷

 ゆっくりと足を踏みこむ。泥にめり込んでいく長靴を確認しながら、さらに一歩、足を運ぶ。視神経と足の神経を繋ぐように歩いてるうちに、あたりは闇に包まれ、水を含んだ泥の咀嚼音が遠くから聞こえる犬のような遠吠えと共に、男の体に染み込んできて、時間の中を音が進むように、男もまた、先を目指していた。
 目的地と言ってしまえば簡単だった。いつまでもつづく泥濘に足は慣れ、体も慣れ、場合によってそれは疲弊であって

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うつわ(再掲)

 地面に当たっては弾ける雨を眺めていたら正午を告げるサイレンが鳴った。二枚目の器を洗い終えた時点で早々に切り上げることにした私は、店先に立て掛けてある青いトタンに閉店の看板を掛ける。雨に濡れて錆びきった釘で指先には赤黒い粒子が散らばった。湿った煙草のいつもと違う味に、一瞬脳がぐらっと揺れた。

「器であれば姿形はといません。器洗いなら当店で」

これといった屋号が思い付かず宣伝用に作ったのぼり

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