見出し画像

「分かる」とは「つながる」

――好奇心のドリルで掘り下げていったら、過去に同じように掘り下げていったときにできた穴に辿り着いたというわけです。


人生は物語。
どうも横山黎です。

大学生作家として本を書いたり、本を届けたり、本を届けるためにイベントを開催したりしています。

今回は「『分かる』とは『つながる』」というテーマで話していこうと思います。


📚「分かる」とは「つながる」

一昨日、noteで知り合った大谷さんと久しぶりにオンラインでお話していたんですが、そのときに印象的だった言葉に「『分かる』とは『つながる』」がありました。僕もすごく共感したので、ひとつの記事をかけてそれについてつらつらと語っていこうと思います。

ちなみに、なんだかんだ3時間近く語り合っていたのですが、話の終盤、「大谷さんが住み開きに興味を持っている」「僕が創作合宿をやってみたい」という流れから、来月「桃太郎合宿」と題して、プレでやってみることにしました。僕はそろそろ絵本『桃太郎』をつくりたいんですが、その物語を決定するために、みんなで寝食を共にしながら、あれこれ議論してつくりあげようという内容のものです。

ひとりで家でキーボードをカタカタするのではなく、「仲間」と一緒に創作合宿という「体験」を交えながらつくっていくスタイルは、これからの時代に求められている創作との向き合い方ですし、単純に面白そうなので可能性を探ってきます。

※詳しくは昨日の記事で↓↓↓


さて、大谷さんが最近感銘を受けた話に、「人を自由にするのは作文である」というものがあるそうです。自由作文を重んじることによってより良い学級づくりを図ったというエピソードがあり、今もなおその重要性が謳われているそうなのです。

多くの子どもは、親や先生といった大人たちが喜んでくれそうな文章を書こうとするきらいがあります。こういう文章を書いたら褒めてもらえる、そんなメタ的な思考が働いて文章に向き合う子どもが少なくないのです。だからこそ作文を毛嫌いする人は増えるし、本当に伝えたいことを言語化する姿勢が損なわれてしまうのです。

だからこそ、「人を自由にするのは作文」なのです。子どもたちをしがらみから解放するための手段が、自由作文なのです。それは、あるいは大人にもいえることかもしれません。

この記事を書くにあたり、さらっと調べたら、土佐いく子さんという元教員で現代は大学の講師などをされている方の文章を見つけました。「今、なぜ生活綴方教育か――子どもの声を聴く」というもので、コロナ禍を受け、自由作文を重んじる教育にこそ教育開拓の鍵がるのではないかと主張するものです。そのなかで、このような言葉がありました。

「文章を自ら書くという行為、それは、実に自由で主体的な行為である。」

土佐いく子「今、なぜ生活綴方教育か――子どもの声を聴く」

そして、文章は、学校がグローバル経済を支える人材育成のために子どもたちに競争をさせる場所と化している現状を指摘し、生活綴方教育は善教育活動の土台であると主張していました。


📚「桃太郎」を掘り下げて

話を元に戻しますが、大谷さんはこの話に感銘を受けて、「分かった」と話しました。過去に自分がやってきたこと、知覚してきたことと結びつき、過去と今が結びついた感覚がしたといいます。好奇心のドリルで掘り下げていったら、過去に同じように掘り下げていったときにできた穴に辿り着いたというわけです。

「横穴が生まれる」ときの快感こそ、学びのモチベーションになり得る感情だと思っていて、それに行き着くために、僕らは学問に魅せられるし、興味を持ったら掘り下げてみたくなる習性を持っているのです。

僕自身、2年前に「桃太郎」についてめちゃくちゃ調べたんです。大学の授業で芥川桃太郎の『桃太郎』という作品を紹介されて、酷く興味を持って、自分なりに掘り下げてみたんです。そしたら、横穴が生まれまくったんですよね(笑)

「桃太郎」の物語は時代の変遷と共に変わっていっているのですが、それは時代ごとに求められる物語や英雄像が違うからだったんですね。「求められる物語や英雄像」は、その時代における価値観や正義によって決まるものなので、日本史の基礎的な知識がめちゃくちゃ役に立つんですね。そこで僕は「横穴が生まれる」快感を覚えたのです。学校で掘り下げていった「日本史」という穴に、個人的に興味を持って掘り下げていった「桃太郎」という穴が行き着いたのです。


📚学校じゃ生まれない「横穴」

学校の勉強がつまらないという声が多いのは、ひとつのアプローチでしか掘り下げていかないからだと思っていて、複数の穴を掘り下げていき、それぞれの穴がつながったときにこそ知的充足感が満たされ、初めて「面白い」と思えるわけです。

大学受験のとき、受験勉強そっちのけで「あいうえお」の歴史について調べたことがあったんですが、それも「日本史」の穴につながっており、「面白っ!」となったんですが、学校教育では「あいうえお」を掘り下げることも「桃太郎」を掘り下げることもなく、「日本史」を掘り下げるだけなんですよね。

「日本史」に興味を持っている人ならばともかく、そうではない人にとって無理やり「日本史」を掘らせるのは学習意欲の低下につながり、やがては「日本史」だけでなく、あらゆる教科科目に対して掘り下げることに抵抗を覚えるようになります。だって、掘り下げたところで面白くないのだから。結果、勉強(掘り下げること)ってつまらないよねという声が上がるわけです。

したがって、僕が教育で重視するべきは、複数のアプローチで掘り下げていくと、それぞれがつながって横穴が生まれる快感を知ってもらうことであり、掘り下げるためには少なからず時間と労力をかける必要があるから、掘り下げようと思えるきっかけをつくることなのではないかなと思います。

自分の掘り下げていったものがつながって、「分かった」という感覚は、より豊かな人生を送るためには必要なものだと思うので、息の長い教えを伝える場所こそ学校であってほしいですね。今後、もし自分が教育関連の活動をするときは、特に意識して向き合おうと思います。最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

20240221 横山黎




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?