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NHK100分de名著 西田幾多郎『善の研究』第4回「“生”と“死”を超えて」

今回は第4回最終回です

第1回「生きることの“問い”」はこちら
第2回「“善”とは何か」はこちら
第3回「“純粋経験”と“実在”」はこちら

以下、番組の内容です
いよいよ最終回となりました。西田は晩年どの様な哲学に到達したのでしょうか☺️

たどり着いたのは、人間は矛盾的存在であるということ
生と死、善と悪、対立するものを乗り越える
そして、絶対矛盾的自己同一という思想が生まれた

大正7年から、母の死、妻が脳出血で倒れ、22才で長男が死去、三女四女六女も病に倒れる、妻も他界

存在し生きることそのものが悲哀である
自己存在の矛盾という思想が導びかれた

昭和14年、論文「絶対矛盾的自己同一」を発表
異なるものが異なるままで1つになる
それがこの世界の姿
絶対矛盾的自己同一を自らの哲学の集大成とした

西田には、哲学をしたくてしたというには終わらない生涯がある
何者かに哲学をすることを、良い意味で強いられているところがある
『善の研究』以降、すごい人生が、大いなるものが西田に哲学をさせている

哲学の原点は“悲哀”である
言葉にならない何か、言い尽くすことができない何か
8人の子供のうち5人が亡くなり、奥さんも亡くなり、悲しいでは言い表せない

私たちの苦しみも悲しみも自分の中だけでは終わらない
他者と深く交わる契機でもある
深めていけば他の人と出会っていける

西田哲学の代名詞
絶対矛盾的自己同一
異なるものが、異なるままで1つになること、1つであること

私たちは2分して考えがち、善と悪
そう簡単には分けて言えない
人によっては真逆になる可能性がある

異なるものが分かれない状態にあるのが本当なんじゃないか
私とあなたも異なったままどこかでつながっている

大いなるものを「一」とするなら
「多」は我々、深くつながって不可分な関係にある
大いなるものと万物は不可分な関係にある

「一」を自分とするなら
「多」=みんな、深くつながっている

絶対矛盾的自己同一
仏教の言葉で、多即一、という言葉がある
私はそのまま人々とつながっているのだ

私たちは「個」の人間でありながら
「人類」の一部でもある

愛するものとの別れでこの考えに行き着いた

西田は深い経験から言う
ある矛盾をはらんだ姿が人生やこの世界の実在で、本当の姿だと

人の生と死を問題にした時
過去、現在、未来の矛盾的世界を越えた世界が現れると考えた

現在は単独で存在しているのではない
未来からの働きかけ、過去からの働きかけがあって存在している

永遠の今=矛盾的自己同一に存在
生と死を考える際、そう考えざるを得ない

人間は死を経てもなお、大いなる生命に生きる存在でもある
西田はこれを「人格的生命」と呼んだ

これを思惟することで、真の自己に出会える

絶対の自己否定において自己を有つ
小さな自分を手放すことで本当の自分をもつ

到達できなくても、存在している、そこが大事
安心して悲しんだり苦しんだりすることが、人生に許されている
本当の自分が自分の気づかないところにあるから
人とつながっている、孤立して生きていない
他とのつながりの中で生きている、自分を支えている、自分の気づかないところで

永遠に生きないのではなく
永遠の世界に生きているんだと西田は言いたい

永遠に生きないと考えているのは、肉体と結びついている「生物的生命」

しかし「人格的生命」は別だ
私たちの死を乗り越えてなお
私たちに存在し続ける何か、と西田は考える
他者の中であり続けるような…

西田の哲学、一言で言うと、いのちの哲学
私たちは、いのちをないがしろにしがち
そんな中、現代で西田を読み直す意味は大きい

【番組の内容を受けた考察】
〈人間は矛盾的存在であることについて〉
人生は矛盾が多いものです
起きることや人間関係に思い悩み、自分の感情と葛藤しながら生きていかなくてはなりません
自分の人生に何度も訪れる矛盾対立するものを何とか乗り越えようと、西田は「絶対矛盾的自己同一」という概念に到達したのだと思います
西田には度重なる家族の不幸、死がありました
そのやるせなさを何とかして自分の中で昇華しつつ乗り越えようとしたのです
相矛盾することをそのまま1つであるとする
そうすることで新たな道、世界が開かれて行くのだと思います

〈西田幾多郎は何者かに哲学をさせられているということについて〉
西田を襲った度重なる不幸が、西田に哲学をすることを強いた、駆り立てたことは間違いないと思います
これは第3回でも述べましたが、フランクルの言った「人間が人生の意味は何かと問うに先立って、人生のほうが人間に問いを発してきている。人間は、人生から問われている存在だ。」に該当すると思います
ではその何者とは何か
番組では大いなるものとしていますが、自分は宇宙=神であると思いますし、また西田自身の心奥深い無意識=魂だと思います
いずれにせよ、人生は、向こう側からやって来たものと、自分との相互作用で進んでいくものだと思います

〈物事は簡単な2分法では考えられず、分かれない方が本当ではないかということについて〉
物事はすっぱり白か黒に分けられるのではなく、グレーゾーンが成り立つということだと思いますが、これは物事は排中律ではなく、矛盾同士が同時に成り立つことということを、西田は言っているのだと思います
このことが数学の世界で成り立ってしまうとしたら、背理法で証明された定理は成り立たなくなってしまい不都合なことになりますが、そんな数学の世界も考えて見ることに意味があると、自分は思っています

〈大いなるものと私たちは深くつながって不可分であることについて〉
自分のエゴをなくすることができ、無意識が掘り下げられ、宇宙さんの普遍的無意識(集合的無意識)に接続できたら、大いなるもの=宇宙=神とつながり1つになります
数多くのシンクロニシティが起こり、宇宙さんたちからメッセージや思いつきが訪れます
宇宙さんたちとのつながりを日々感じながら過ごすことになります

〈人間は死んでもなお、大いなる生命に生きることについて〉
上で述べました様に、今の自分はエゴがなくなり普遍的無意識(集合的無意識)で宇宙さんたちと接続していますが、残念ながら死んだ後も自分が宇宙さんたちと接続できるかわかりません
死んだ後も自分の何か(無意識?)が残るかはわからないからです

〈絶対の自己否定において自己を有つ。小さな自分を手放すことで本当の自分をもつことについて〉
先程から述べているとおり、自分のエゴがなくなる過程(小さな自分を手放す)で、自分の無意識の深掘りがなされ、より深い普遍的無意識(集合的無意識)に到達します(絶対の自己否定)
そうすることで、直観が絶えず訪れ、自分の感情と言動が一致する様になります
本当の自分になります

〈自分のエゴがなくなり、宇宙=神と普遍的無意識で接続した時、却って孤立することについて〉
番組では「人とつながっている、孤立して生きていない、他とのつながりの中で生きている、自分を支えている、自分の気づかないところで」としていますが
昔も今も自分は、昔友達は遠方でやりとりは疎遠に、今は日常的にLINE、SNSをやりとりする知り合い、友達はいません
寂しさはほとんどないのですが、おそらくこれは、宇宙さんたちの計画に絡む、自分の真実の愛の追求の過程で必要なもので、致し方ないかなと最近は思う様になりました
「孤独、孤立」しないとエゴの消失を始め、自分を深めることができないからです
また宇宙=神には、友達はいるでしょうか?
いないでしょう
そう言った今必要な「孤立」の状態に自分はあり続けているのだと思います
ただ直接的なつながりはないけれども
自分が“愛で在る”ことで、無意識を始め、他の人、存在とつながっていることは感じているのです

〈もう20年も前に亡くなった母の人格的生命について〉
今となっては母のことはほとんど思い出さず、夢にも出てきません
そう言った意味で、自分に母の人格的生命はあるのかな?と思いますが、やはり記憶はありますし、思い出そうとすれば思い出します
どこか遠い記憶の様に人格的生命は存在しているのかなと思います

以上で、4回にわたるNHK 100分de名著 西田幾多郎『善の研究』は終了です
この後は、番組テキストの内容を追加した改定版を作成し、順次公開して行きます(*´-`)💖

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