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脱学校的人間(新編集版)〈47〉

 親たちの信頼、子どもたちの従順、教師=教員たちの献身等々、学校に対するそれぞれの立場からの関係性を表すこういった様々な「表現」は、学校という公的で「中立的」な社会機能=機関=装置に対する、それぞれの立ち位置を表象するのに用いられた「イデオロギー的な表現」であり、あらゆる社会階級にそれぞれ属する全ての人々から「中立的な場所」に位置づけられた、「公的な社会装置」である学校の社会的な機能により、あらゆる人々に対しそのそれぞれの社会的な立場に応じて与えられる、それぞれの社会的な役割のその社会的意味を表象するのに用いられている、あらゆる人々がそれぞれに関係する社会的なイデオロギーによる表現のその一端である(※1)。
 また、そのような意味合いを持ったイデオロギー的表現とは、それぞれが属する社会的な立場の「間において」生じ作り上げられている、それぞれの「社会的な関係性」に対して、それぞれが個別に有する「その関係性への意志・意欲」の表現として、それぞれの立場から表明されている「主体的な」表現ともなっている。さらにそのような表現とは、それぞれの立場においてそれぞれがその表現の対象を有し、それぞれ「その立場にある者として自ら進んで関係していこうとする意志・意欲」を持つことによって「主体的に表現される」ものなのでもある。
 親たちが学校を信頼しなければ、彼らの学校に対する「厚い信頼という社会的な関係」はけっして成立しない。「信頼という主体的な意識の運動」があってはじめて、そこに「信頼という社会的な関係性」が成立する。子どもたちの従順も、教師=教員たちの献身も、これと全く同様である。
 彼らの主体性は、そういった社会的な関係に対して「自ら進んで意識的に関係しようとする、主体的な活動についての主体性」である。しかし、この主体性がそれぞれに独自の、あるいはそれぞれ独特の主体性だというわけでないことはすでに明白だ。彼らの「主体性」とはあくまでも、公的な社会機能である学校へと一括して送り込まれ、そこで一定の社会的な役割を獲得し、その一元性をもって社会的に機能するべきものとされている、その当の社会の中で、「みな一様・一元的に、中立的かつ一般的に機能するべきものとして」あらかじめその規格を統一された上で生産されているものなのだから。そのような「中立性・一般性」とはすなわち、「それぞれだいたい同じものとして、それぞれだいたいどのようにでも使えるもの」ということ以外ではない。あらゆる人々、すなわち「われわれ」は実際そのように、だいたい誰もがそのようなものとして「公的な社会機能である学校の中」において作り上げられているのだ。

 子どもたちはいずれ大人になり親になる、そしてやがては自分の子どもたちを「厚い信頼をもって学校に送り出す」ことになる。その学校には、子どもたちを迎え入れる教師=教員たちがいる。その教師=教員たち自身もまた「かつては子どもだった」のであり、それが大人になって、つまり教員になって「学校に戻ってきた」わけである。その教員たちに迎え入れられた子どもたちの、その中の幾人かはまたいずれ大人になって、つまり教員になって学校に戻ってくることになるだろう。
 このようにして、学校の社会的機能における「社会的諸関係の再生産」は、まるで鮭やウナギか何かの生態であるかのように、それがいかにも「自然で必然で当然」であるかのように、グルグルといつまでも社会の中を循環し続け、その社会の中でいつまでも機能し続けるものであるかのように思われている。そしてあらゆる人間は、公的な社会機能である学校を中心に置いたこの「永続的な循環機能」を通じて、次々に社会へと送り出されることになるわけである。

〈つづく〉

◎引用・参照
※1 アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」


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