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母の短歌

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母が生前に作った短歌をまとめたものです。
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母の短歌 あと追うも出来ずに生きいる今日の道

母の短歌 あと追うも出来ずに生きいる今日の道

 あと追うも出来ずに生きいる今日の道
 草の芽萌えてたんぽぽの咲く

母が60代で父に先立たれた。急に寂しい生活に変わった。道を歩けば、父と来たことが思い出されたようだ。「ここもお父さんと歩いたな。ずいぶんいろいろなところに行ったな」と言っていた。父が春彼岸に亡くなってから、何年目の春だろうか。ひとりで歩く道ばたに草は芽を出して、たんぽぽの花が咲いていた。

ひとりの人のことを思い、何度も歌に詠む

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母の短歌 抱きたる赤児と共に頭下げ

母の短歌 抱きたる赤児と共に頭下げ

 抱きたる赤児と共に頭下げ
 初めましてと亡父に告げぬ

まだ首のすわらない子を連れて、母のところに行った。母は、孫を抱いて早速、仏壇前に行き、父の前に座った。その時のことをこう歌に詠んで残してくれた。

「お父さんが生きていたら喜んだね」と母が言っていた。姉の子が生まれたときに、ひと際、喜んでいた父。もともと子ども好きだった。甥が生まれてから姉夫婦と奥多摩の渓谷に行ったときに、父がすごく喜んでい

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母の短歌 戦時食のイメージ湧きしさつまいも

母の短歌 戦時食のイメージ湧きしさつまいも

 戦時食のイメージ湧きしさつまいも
 老いの昼餉に快く食む

これまでにさつまいも程に実力とイメージに差があり、軽視されてきた食べ物はないだろう。高温でも乾燥地でも育ち、青木昆陽の時代から飢饉のときの非常食と考えられ、日本人の生命を救ってきた。デンプンやビタミンが豊富で栄養化の高い食べ物である。そういう役割からか、さつまいもにはマイナスのイメージがついてまわり、母の世代では、戦時食とされ、沖縄に出

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母の短歌 採りいれる金柑に幼等駆け寄りて

母の短歌 採りいれる金柑に幼等駆け寄りて

 採りいれる 金柑に幼等 駆け寄りて
 両掌差し伸べ 吾を取り巻く

元気な頃の母は、季節ごとに小まめに庭木の手入れをしていた。大きくならないように手が届く高さに枝を下ろす作業をしていた。木は縮められると、反対に勢いづいて伸びようとする。次の年にまた枝を切る。そんなことの繰り返しだった。

玄関前に植えられた金柑は、母によって背の高さに抑えられて、いつも手の届く範囲にあった。冬になると金色の実をた

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母の短歌 一瞬に人ざわめきて席は埋まり

母の短歌 一瞬に人ざわめきて席は埋まり

 一瞬に人ざわめきて席は埋まり
 常の如くに電車動きぬ

母は、朝早く出かけることがあったのだろう。柏駅の朝の光景をこう歌った。駅始発の電車に乗り込む乗客たちは皆こんなだったな。都心まで50分程だったが、車内はすし詰め状態で、それを回避するには座るしかない。始発の電車を待って座って行きたい。ドアが開くと脱兎の如く走った自分のことが思い出される。

満員電車と言えば、昔、日比谷線の竹ノ塚に住むAくん

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母の短歌 ぼろ屑と思える程の遺品をも

母の短歌 ぼろ屑と思える程の遺品をも

 ぼろ屑と思える程の遺品をも
 捨てかねており七回忌迎う

父が亡くなり、たくさんの毛筆書、日記帳、スクラップブック、レタリング帳、カメラ等が遺された。一周忌が過ぎて、三回忌が過ぎても、そのままの状態が続いた。

断捨離という言葉が言われはじめて、それが強迫観念に近い想念として湧いてくる。取捨選択して不要な物を処分しなければならない。だが、なかなか捨てられない。理由は簡単で、生きているからだ。生き

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母の短歌 つやめきて紅く熟せる柿の実を

母の短歌 つやめきて紅く熟せる柿の実を

 つやめきて紅く熟せる柿の実を
 期待を持ちて皮をむきいる

柿の木が小岩の家の庭に植わっていて、毎年、秋になると橙色の実を生らした。榊󠄀の生垣に沿って椎の木の間に3本の柿の木があり、外を歩く人からは気づきやすかった。たまに近所の人が、赤くなった柿の実を見て、「お宅の柿は甘柿?」と聞く。母が「甘柿と渋柿が毎年交互なんですよ」と言うと近所の人は納得したような顔をしていた。事実、隔年で甘柿と渋柿を繰

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母の短歌 庭の山茶花次々と咲く

母の短歌 庭の山茶花次々と咲く

 身に沁みる冬を厭いて夫と見る
 庭の山茶花次々と咲く

小さな庭には、梅や沈丁花や私の知らない木々が植えられていた。そんな中で冬に赤い花をつける山茶花がひときわ目をひいた。ずっと椿だと思っていたが、母のこの短歌を読むとそれが山茶花だったのかと知った。

父は心臓に持病があり、特に冬の寒気は体に堪えた。春が来るのが待ち遠しくて、温かくなると「また一年だよ」と言っていた。また一年、生きられるというこ

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母の短歌 老い先の事など互いに触れずして

母の短歌 老い先の事など互いに触れずして

 老い先の事など互いに触れずして
 笑顔で語る息子らの招きに

母がまだ元気な頃の短歌だと思う。友人たちと楽しく交わっていながらも、先のことを思うと不安になることがあったのだろう。気丈な母は、口に出すことはなかったが、短歌を読むと本当の気持ちが感じられて、辛くなる。

母が介護施設で息をひきとったときには、ああすればよかった、こうすればよかったと思った。最後の数年は、歩いて数分の娘夫婦の近くに住ん

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母の短歌 廃棄せんと決めし自転車のペダルにも

母の短歌 廃棄せんと決めし自転車のペダルにも

 廃棄せんと決めし自転車のペダルにも
 深く染みいむ夫の足あと

休みの日によく父子して、自転車のペダルをこいで出かけた。手賀沼辺りのこともあったし、さらに利根川岸まで遠出したこともあった。ある時、父は、漕ぐだけ漕いだら、自転車を倒して草むらにバタッと寝ころんだ。父の心臓がバクバクと踊り出したのだろう。

また松戸の小金原へのこともあった。小金原の先は、昔住んでいた千駄堀が近く、そこには私の生まれ

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母の短歌 通信の学園に学ぶ少年ら

母の短歌 通信の学園に学ぶ少年ら

母が70歳近くになって通信制の高校に通い始めた。女学校に行かずに働いた母にとって高校進学はひとつの夢だった。

自宅でひとりで学習してレポートをきちんと提出していたようだ。国語と社会は苦ではなかったが、はじめて学ぶ英語には苦労したみたいで、特に英語の聞き取りが難しかったのか、会いに行くとリスニングの問題を手伝ってくれとよく頼まれた。

月に一度、NHK学園の本校のある国立まで通い、大勢の若者たちと

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母の短歌 唇の熱きも忘れ

母の短歌 唇の熱きも忘れ

 唇の熱きも忘れ六十路来て 
 肩をふれつつバスの旅行く

「唇の熱きも忘れ」に与謝野晶子の「柔肌の熱き血潮に」の歌を連想するが、母にもそのような情熱が隠れていたのかと感じている。そう言えば、母の普段の理路整然とした落ち着いた語りぶりとは打って変わって時に豊かな感情が表れることがあった。

母の60歳の頃は、退職した父と静かな生活を楽しむことができるようになっていた。短歌会や絵画のサークル等でたく

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母の短歌 筆談の兄との会話は弾みたり話が何よりの馳走と言いつつ

母の短歌 筆談の兄との会話は弾みたり話が何よりの馳走と言いつつ

 筆談の兄との会話は弾みたり 話が何よりの馳走と言いつつ

 耳遠き兄との会話の筆談に チラシの余白を埋めつくしたり

母は、4人兄弟姉妹の末に生まれ、2人の兄と 1人の姉がいた。次兄は昭和20年6月に沖縄本島南部で戦死した。姉は数年前に亡くなり、あとに12歳年上の長兄が残っていた。姉が亡くなったときに長兄は、とうとう二人だけになったなとしみじみと言ったらしい。そのときのことを母はこう歌った。

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母の短歌 立食いそば肘ぶつけあい食みおれりサラリーマンの昼食風景

母の短歌 立食いそば肘ぶつけあい食みおれりサラリーマンの昼食風景

 立食いそば
 肘ぶつけあい食みおれり
 サラリーマンの昼食風景

母の短歌を読んで、立ち食いそばの自分の思い出がよみがえってきた。

立ち食いそばは、元祖ファストフードと言われ、かなり昔から駅ナカ・駅チカ等にあった。昔は名前の通りに座席のないカウンターの前で立って食べた。そのうち 座り席がある店が現れて、今では立ち食いだけの店の方が珍しい。総武線亀戸駅から東武亀戸線に乗り換える途中に、立ち食いそ

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