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生きヅラさを抱える者、コトバを武器に我が道を行け。

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自分自身に対する不甲斐なさ。それは自己肯定感の低さという仮面をかぶりながら、実際は自分に対する怒りへと変貌を遂げることのほうが多い。それに気付けばいいが、ほとんどの人がまったく自覚していないように思える。

新約聖書に次のような一節がある。
“柔和な人は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ”(マタイによる福音書5章5節)

社会に出れば、誰でも一度は“正直者はバカを見る”と感じる場面に出くわすことがあるはず。けれども、正義を貫く正直者が最後は得をするように宇宙は出来ている。別にこれはスピリチュアルな意味でもなんでもない。

逆に、怒りという盾を借りた正直者は宇宙からはじかれる。職場やコミュニティーといった狭い意味ではなく、本当にこの世からはじかれる。気功の世界では、怒りは肝臓の症状に出やすいと言われているが、とにかく怒りは体の緊張を生みやすい。結局、愛という武器を忘れて怒りに頼ってしまう人ほど体を壊して長生きできない。つまり、誰よりも地を受け継げないのだ。

生理学者のハンス・セリエ博士は「ストレスは人生のスパイスである」と述べている。あり過ぎも良くないけど、無さ過ぎてもやる気の減少や倦怠感が誘発されやすく、仕事においては生産性が低くなるとも言われている。要は塩梅(あんばい)が重要で、濃すぎても薄すぎてもダメなのである。

これは“生きづらさ”という観点から考えても同じことだと思う。生きやすいと感じる環境では、人は生きづらいという逆説が成り立ってしまう。だから、多少の生きづらさを感じるくらいのほうがいいのかもしれない。

実際、人間関係がフラットな環境ほど競争は起きやすい。人は地位の逆転を本能的に狙うと言われている。だから、会社では頻繁に異動があり、学校では毎年クラス替えを行うのである。

そうは言っても、我々人間は常に生きづらさを嗅ぎ分けるリトマス試験紙のようなもの。感情の垂れ流しも許されない。その感情垂れ流しを食い止める“おしめ”を一生履かされる運命だ。

だからこそ、言葉をもっと大事にし、言葉のマジックをもっと信じていこうとわたしは思う。

いまから450年以上も前に、長崎の隠れキリシタンの人たちは「グレゴリオ聖歌」を宣教師から口伝で教わり、それを「オラショ」という民謡調の唄にして代々受け継いだと言われている。

黙ることも自己表現かもしれない。けど、それだと人は地を受け継げない。だからこそ知恵を使って、想いを言葉にするのだ。その時代が生み出すルールさえ守れば、感情をすべて吐き出したっていいと思う。いまが生きづらいと感じているのならば、いまという時代を巧みに利用すべきではないだろうか。

“わたしは抵抗し、すばやくつばを吐く/コトバという武器で”

このボブ・ディランの言葉を胸に、これからもわたしは“瞬間”を切り取りながら想いを発信していきたい。自分も常に生きづらさを感じている人間のひとりなのだ。

Live your life !

※写真はすべて台北で撮影。

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