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エロスの画家・高橋秀の物語(6)【アートのさんぽ】#14
1960年代からイタリアに渡って国際的に活躍した「エロスの画家」高橋秀(1930年生)。1963年にイタリア政府招聘留学生としてイタリアに渡航し、ローマ美術学校に席を置く。そして何もしない1年間を過ごそうと決心する。その象徴が、40日間にわたるスペイン旅行であった。はたして高橋はスペインで何を見たのだろうか?
イタリアに渡る
高橋秀は1963年、イタリア政府招聘留学生に応募し、イ
ブルーノ・ムナーリの《役に立たない機械》【アートのさんぽ】#13
ブルーノ・ムナーリ(1907-1998)は、イタリアの元祖マルチ・クリエーターであった。
その分野は、絵画、彫刻などファイン・アートからグラフィック・デザイン、工業デザイン、絵本、出版、教育などと幅広かった。今回はムナーリの出世作である《役に立たない機械》を見ていきたい。
ムナーリは、未来派の中心地であったミラノを本拠地とし、後期の未来派に加わり、そのキャリアをスタートさせた。(*未来派は、スピ
エロスの画家・高橋秀の物語(3)【アートのさんぽ】#10
1960年代からイタリアに渡って国際的に活躍した「エロスの画家」高橋秀(1930年生)。広島から上京して、一時的に武蔵野美術学校に席を置いたのち、緑川広太郎と出会い、その画家魂に魅せられ、本格的に画家を目指す。独立展で入選するとともに、アンドレ・ミノーなどの影響を受けながらも独自の画風を探る。いよいよ賞を受けて、新たな境地を探す。
カラスの作品で受賞
どの画家にも最初のメルクマールとな
吉原英雄:具体美術とデモクラートを駆け抜けたポップ・アート【アートのさんぽ】#07
第二次大戦後の美術を考えようとする時、1950年代の革新的な動向を追うことが重要であろう。
たとえば、抽象的な傾向のアンフォルメルや具象的な傾向の新具象派の画家たちの動きが活発となり、世界の注目を浴びていた。日本の美術雑誌でもジャン・デュビュッフェやジャン・フォートリエ、ジャクソン・ポロック、ベルナール・ビュッフェ、アンドレ・ミノーといった画家たちが大きく取りあげられ、詳細に紹介された。
この
因縁の対決:ジョルジョ・デ・キリコvs.アンドレ・ブルトン【アートのさんぽ】#06 ジョルジョ・デ・キリコ
イタリアのジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978)は、その独特のスタイルでパブロ・ピカソやサルバドール・ダリとともに20世紀最高の画家と称されたが、毒舌家だったゆえに毀誉褒貶も多かった。
デ・キリコは、自らのスタイルを形而上絵画と呼んだが、シュルレアリスムと誤解されることが多く、彼自身も生涯悩まされた。
ここでは、デ・キリコとアンドレ・ブルトン(1896-1966)ないしシュルレアリス
フランク・ロイド・ライトのジャポニスム【アートのさんぽ】 #04 フランク・ロイド・ライト
近代建築の三大巨匠というと、ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエ、フランク・ロイド・ライト(1867―1959)のことを指す。そのなかで日本にもっとも縁の深い建築家は、100年前に帝国ホテルを建てたライトであろう。
ライトといえば、世界遺産であるロビー邸や落水荘を思い浮かべるが、その不動の地位を勝ちとるのにとても苦労してきた建築家である。とくにチェニー邸の完成以後の1905年頃から
【アートのさんぽ】#01 四谷シモン
四谷シモンの機械仕掛の少年をめぐって下瀬美術館で2023年10月1日から「四谷シモンと金子國義」展が開催され、その初日に四谷シモンのギャラリートークが行われた。全国から大勢のファンが広島県の片田舎に詰めかけ開演前から長い列をつくっていた。79歳となった四谷だが、その衰えない人気ぶりには驚かされた。
四谷の話が始まると、百人以上の観客が静まり返った。四谷はゆっくり間を置きながら、天国の澁澤龍彦や金