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今のところ分かっていることを全て書きます(哲学・心理学)

私はド文系かつ文系科目さえも浅学なので、何を言ってるんだと思うところがあるかもしれませんが、温かい目で読んでいただけたら嬉しいです。


まず、全てのことは仮説である。自然科学で仮説検証されてきたようなことも、かなり確度の高い「反証可能性」を持った仮説であるということを忘れてはいけない。もちろん、これから書いていく内容も全て仮説であって、それらはそれほど信ぴょう性のおけるものでは無いかもしれないが、疑ってかかるくらいでいいので見ていって欲しい。また、おかしいと思うところがあったらぜひ意見を聞かせて欲しい。

私たちが住んでいるこの世界についてのことだが、この世界では自然(物理)法則が働いている。リンゴを落とせば重力によって下に落ちるし、タンパク質は熱によって変性(立体構造が破壊される)し、その機能を失う。今までの私たちの経験からこのような自然法則が働いていることは実感としてわかる。

実感から外れたものとしては、アインシュタインの相対性理論(光速と時間のあれこれ)や、ミクロの世界を見つめた量子論(物質の一番小さいところまで観測しようとしたら不思議な性質が...)など、ニュートンから始まる現在の私たちの体感ではよく分からない話も物理学としては出てきている。体感でわかるようなニュートン力学と、不思議な量子力学を地続きに繋げられるようなものを考えられないかと、色々試行錯誤されている最中だ。

また、物理があって、化学があって、生物があって、また物理があってという感じで世界を理解しようとすることができると思う。この世界にはニュートンが見つけたような、物理法則が働いている。元素があって、物質があって、化学的な反応が起こり、色々変化を繰り返す。その中で生物が存在して、進化してきた中で人類が出てきた。


人類においては、戦争や経済的競争が行なわれていたり、様々な社会的現象が日々起こっている。複雑に入り組んだネットワークで人々は繋がり、高度化した文明と社会で町はごった返している。このあたりの話は置いておいて・・・

物理の教科書とかで、tという文字をよく使うと思う。例えばt(秒)時点からt+1(秒)時点への時間経過に伴ってボールが30cm進んだみたいな感じで。この使い方に、私たちは全く違和感を感じない。

そこで、もしこのような、「リンゴから手を離して、2秒後に地面にリンゴが落ちた」というような当たり前なことをそのまま認めるとしたら、私たちの意識はただ物理法則に従っているだけの(遺伝子と経験⸺記憶、身体の状況、現在の外部環境といった入力情報から、時間経過に伴って次の時点の脳のニューロン発火状態が決まるという単なる物質的な現象)ものと認めることになってしまう。

私たちの普段の生活を考えてみよう。まずは、行動を行為と思考、情動に分類してみる。このとき、例えば行為として、リンゴを食べるという行為があったり、思考としては冷蔵庫の中にリンゴがあと5個あったなと考えたり、情動としてはこのリンゴすごく美味しかったなと感じたりする。

諸仮説によると、これらの食べる、考える、感じるというような諸行動は、ただの物質的な現象に過ぎない。

これは哲学における一元論と言えるかもしれない。

心の哲学における二元論(dualism)とは、心と身体を別の存在として考える立場のことである。心身二元論ともいう。多元論(pluralism)の一種といえる。対立する立場は一元論である。

二元論の考えは紀元前から見られ、例えばプラトンは人間の精神というものは身体と同一ではありえないと主張している(霊肉二元論)。そして古代インドのサーンキヤ学派やヨーガ学派などにも同様の考えが見られる。

歴史上初めて心身二元論を今日まで続いているような形で定式化した人物は17世紀の哲学者ルネ・デカルトである。彼は空間を占める身体は物質的なものであり、精神は非空間的であるゆえ異なる実体だとした。これが実体二元論(Substance dualism)である。そして機械論的な存在である物質的肉体と、自由意志をもつ精神(魂)を対置し、両者は相互作用すると考えた。なお彼の哲学では各個人がそれぞれ「魂」のような「主体」を有していることが前提になっており・・・

・・・二元論を擁護する論証のうち最も大きなものは、哲学的なトレーニングを受けていない人々の大多数の人々の持つ常識的な直感――素朴実在論的な世界観に受け入れやすい、というものである。心とは何かという問題には、眼に見えない精神現象や魂といったものを連想する者が大半であり、心とは脳のことであるといった機械論的な唯物論を受け入れられる者は少ない。

二元論を擁護する論証のうち主要な第二のものは、心の特性と物理的身体の特性はひどく異なっており、両立し難い部分が沢山あるように見える、ということである。心的出来事は客観化できず、私秘的である。また必ずしも時間と空間に還元できない。「愛」や「美」といった観念に面積や時間は含有されていない。それに対して物理的な身体はデカルトが「延長」と呼んだように時空間に還元可能な性質をもつ。

心の哲学は、心的出来事の主観的側面を現象的意識、またはクオリアと呼ぶ。痛みを感じたときの「痛み」や、澄み渡った青空を見たときの「青い」や「澄んでいる」という感覚がそうであり、こうしたクオリアは物理学的に説明しがたい性質がある。

心の哲学wikiより引用


意識は脳の活動に遅れて付随するものだと分かる実験がある。ベンジャミン・リベットの実験や他の様々な実験において、人が行動するとき脳と意識はどちらが先に動くのかということが論点だった。実験結果として、意識が訪れる瞬間は、脳がニューロン発火とともに認識しているはずの瞬間よりも早かったり遅かったりすることがわかった。どうも、意識は時間の辻褄合わせをされているようだ。先に機械論的に脳が働くのだが、それを受けて後から意識(考えている自分・意思決定している自分)が決めたこと・認知したことだというふうに意味付けをし、そのストーリーが違和感なく納得できるように時間をずらしているという解釈になる。(前野隆司教授の上部に貼った動画を参照)

あとは、ラプラスの悪魔とかを調べてみると面白いかもしれない。

私たちの言動は、自然的な現象としてあらかじめプログラムされている。だから、何が起こるかはあらかじめ決定されている。・・・というのが決定論的な考え方だが、もうちょっと適切な言い方がありそうだ。決定されているというよりは、複雑な原因と結果の関係の無数の連続(因果関係は網目のように複雑に入り組んでいる)で、随時決定されていくという方が適切な気がする。随時現実というプログラムが組み立てられていくという感じがする。

*世界の複雑に入り組んだすべての状況(入力情報)を把握できるような主体がいるのだとしたら、その主体にとっては次の時点での状況は予測できて、決定されたものとして感じられるのかもしれない。対して、私たちは認知能力の限界から極めて予測不可能な世界を生きている。


また、意識と脳の問題、クオリア問題というものがある。これは先程の話と関連している。

クオリアというのは、客観的には観察できない意識の主観的な性質のことだ。例えば、リンゴを見ると、「目の前に赤い果物(リンゴ)がある」という感覚としてクオリアが表れる。この感覚が生まれていること自体が、私たちが生活しているこの物理的空間の中で極めて不思議・異質なことであるが、ルネ・デカルトが言ったように「考えている私」が存在していることは(実感として)疑いようがない気がする。


余談だが、哲学的ゾンビという思考実験では、目の前の人間がクオリアを持った人間なのかは自分からしたら分からないし、もしかしたら意識を持たずにただ決められた通り行動しているだけの存在かもしれないという話がある。

自然的・物理的な現象である現実の、次の状態・状況が随時決定される過程において、知・情・意の中の「知」や「意」、主体的な思考や自由意志の介入があるのだとしたら、それは一体どこから生まれていて、クオリアに関係あるものなのかどうか?もしかしたらクオリアの主体である自分そのものが存在して、その自分の意識というものがいまだ解明されていない物理法則の一部として、あるいは物理法則から外れたところ(心身二元論でいうところの身体に対する精神)で、思考・意志と結びついている(働きかけている)クオリアと結びついた主体が存在して、私たちの「もうそろそろリンゴを食べようかなっていう感じ」「リンゴが美味しいっていう感じ」「リンゴが冷蔵庫にあと5個あったなっていう感じ」といった世界を体験する活き活きとした感覚を主体的に経験している。私たちの不思議な実感としての感覚・「自分」として生きている感覚を肯定するなら、そのような認識を持つしかない。

*知=思考, 情=情動, 意=意志決定と行為実行

また、この「私」という現象が生み出された理由として、エピソード記憶があると考えられる。自分が一生物として、一個体(主体)としての立場を持ち、人生という一つのストーリーの主人公として記憶を紡ぐ。物語の一編として現実の現象を解釈し、その記憶を頼りにより効果的な行動がなされる。生存する過程で、そういうストーリーが必要となったのだ。進化論的に考えた生物として、生き残る手段であった。

意志を介在せず世界は動いてるのかもしれないが、しかしながら実感として、私たちは、直感的には色々なことを選択して生きている。色々なことを自分自身で考えて生きている。この思考している私や意思決定している私を、実感として私が疑うことはできないだろう。だから、私を信じるならば、私という主体が私として自分の知・情・意に関与していると考えるほかない。というかそう思いたい。

ということで、先程のように決定論的な自然観が働いてるんじゃないかと思った上で、自分の主体的な知・情・意の存在も実感として信じてしまっているときに、矛盾は生じるかもしれないが、物理法則の上に何か「私」という意識の現象が乗っかっているとしか考えようがないだろう。そうしないと、日々の中で自分は無力になってしまう。自分から働きかけることができなければ、外部から入ってくる情報と、元々の脳の状態が入力されて、次の脳の状態へと時間経過と共に必然的に変化していき、私の行為や思考、感情という現象が付随して起こるということになってしまう。そして、外部環境と相互作用を繰り返し、ただ無意識的・自動的に様々な現象が生み出される。これじゃあ、ただ生まれたままの遺伝子に操られているだけのDNAの乗り物(緻密に性質を設計されている生物として)だし、外部環境から入力されてくる刺激に対してただあらかじめ書かれたプログラム(起こる現象を規定した記述)の命令で自動的に出力を返しているだけの関数・機械だ。

効力感もなければ、希望もない。この考えのおかげで楽になるという人も言うが、そんな人生面白くないと私は思う。(自分は選択しているという気がしているし、これからも行動を選択していきたい。一生懸命考えて、最善の選択を追い求めていきたい。)

だから、この実感としてここにある自分の意識を生きなければいけないと思う。この世界を決まりきったプログラムが動いているだけだとは思わずに(仮にそうだったとしても)、自分が主人公で(あるいは意志を持った登場人物で)これから物語を作り上げていくと思って楽しまなければいけないと思う。仮に決まりきった世界だとしても、活き活きとしたアトラクションだと思って乗っかっていかないといけない。変数が多すぎて思い通りにいかない世界でも、私たちはひとりひとりが主体的に働きかけて苦難を乗り越えていかないといけない。




以上のように、物理的な世界(そして精神的な意識)がこんなふうになってるんじゃないかということが、仮説としてだがある程度考えられた。(今後社会的な現象についても触れていきたい)

そして、下の記事のように人間に対するイメージも深まりつつある。

世界理解、人間理解を進めてきたが、次は「自己理解」として、「主体的に」自分と向き合って、人生に向き合っていく考え方を紹介したい。


自分の内面の深いところを知って、自分の人生をより意味あるものにしていく。そして、他者の価値観を理解し、想像と共感に裏付けられた豊かな人間関係を築いていく。そのような効果性を志す生き方をしていくようにしたいと思う。

そのために、以下から始まるシリーズの記事を参照されたい。


ここまで読んでいただきありがとうございました!!😊

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