くりおね

詩人。

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最近の記事

山は富士河は四万十旅五月  高木産風

光に満ち肌に心地よい風の吹く五月。20℃に解放された地域を旅したくなる。日本を象徴する富士山は、新幹線や飛行機の窓から見るだけでなく一度は登ってみたくなる。一筋縄ではいかない険しさがある。川と言えば、四万十川である。高知県高岡郡津野町の不入山を源流とする河川で、日本最後の清流として知られる。水質が非常によく、川底までが透けて見える。生命力あふれる自然の美しさに触れ、自然の力で魂を純化させたい。

    • 四月尽ふり向かざるに樹が匂ふ    神尾久美子

      雨がよく降る。日射しも強くなり、草木の成長ぶりがおびただしい。四月に噴き出した芽が立派に葉を広げ、幾何級数的に葉の数を増やし、日ごと膨張する。植物の生育ぶりを身近に観察したいので、気に入った草木が植えられている。庭を散歩して、その育ち具合を愛でる。手の届く範囲で管理したいのに、その境界を越えてくるので、敏感にならざるを得ない。知覚が反応しているときに、嗅覚が刺激された。刺激の強い四月がもう終わる。

      • みどりの日昭和一桁老いにけり     稲畑廣太郎

        平成元年(1989)昭和天皇の崩御に伴い、それまでの天皇誕生日を改称。「自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心を育む」として「みどりの日」が制定された。この時季、自然は生き生きとして大地は緑に覆われ、日に日に緑を濃くし空を覆い尽くす。昭和元年は1926年なので、昭和一桁となれば100に近い。よく寝てよく食べよく動けば、老いるほどに世界は美しくなる。自然を満喫し感動の日々を送れば精神は青春。

        • 字は動き絵は静まれり夏隣  丸山海道

          20℃を越えてきた。花粉の季節が終わりを告げようとしている。代わりに熱中症の警告をしはじめた。世はゴールデンウィークを迎え、行楽地が賑わい、老若男女、スマホを片手に観光地を歩き回る。現在地を確かめたり、グルメ情報を検索したり、スマホが大活躍している。人類最高の発明品である文字は、自由に動き回り、想像力や好奇心を掻きたてる。一方、空っぽの家に飾られた絵はひっそり静まり返って、家族の帰りを待っている。

        山は富士河は四万十旅五月  高木産風

          勿忘草その色の眼の帰化楽士     鳥越やすこ

          中世ドイツの悲恋伝説に因み、vergiss-mein-nichtがforget-me-notとなり、勿忘草となった。ドナウ川の岸辺に咲くこの花を恋人のために摘もうとして川に溺れ、この言葉を残した。滔々と流れる川に小さな五弁の青い花を群れ咲かせる勿忘草は、清楚で可憐である。日本を愛するゆえに帰化した音楽家は、勿忘草と同じ目の色をしていた。真っ直ぐに私を見つめる瞳は、純粋で透きとおり、ヨハン・シュトラウスの美しく青きドナウの曲が流れる。

          勿忘草その色の眼の帰化楽士     鳥越やすこ

          鉄線の初花雨にあそぶなり 飴山實

          つる性の草花は、風にゆらゆらゆれながら、手探りで、巻きひげの触れる何かを求め、重力に逆らいながら空をめざす。か弱そうでありながら名の通り茎は細く堅く、鉄の針金のように強い。葉桜になったころ、木漏れ日の当たる茂みに鮮やかな花を咲かせる。いつのまに蕾を付けていたのだろう。ある日突然注目を浴びる。桜や花水木を見上げていたころ、人知れず日夜地道に蕾を膨らませていた姿が、自由を求め生きる人には魅力的に映る。

          鉄線の初花雨にあそぶなり 飴山實

          さやゑんどう毎日つむに花ざかり   木津柳芽

          鞘豌豆を畑だけでなく、庭の果樹の根元にも蒔いてみた。それから塀のまわりの花壇にも、適当に。窒素を含む根粒細菌が、土に栄養を行き渡らせるはず。草にまみれて目立たなかった巻きひげがアンテナを伸ばし、空をめざして上ってきた。スイートピーほど華々しくはないが、淋しかった空間を楽しませてくれる。ぐんぐん伸びて可愛らしい花とともに、人差し指ほどの実をつけはじめた。若々しい丸い葉に花と実が風にゆれて清々しい。

          さやゑんどう毎日つむに花ざかり   木津柳芽

          大でまり雨の日射しとみて仰ぐ    手塚美佐

          花が咲く前のオオデマリとスノーボールが園芸店に並べて売られていた。花の付き方や葉の形が違っていた。もっと詳しく知りたくなった。私はどちらが好みだろう。その数日後、手鞠の白い花をたわわにつけた樹を見つけた。これがオオデマリか。ちょうど樹の根もとで草をひいている女性がいたので声をかけてみた。すると、この花が好きで私が植えました。オオデマリです、ということだった。紫陽花を手毬にした白い花で、雨が似合う。

          大でまり雨の日射しとみて仰ぐ    手塚美佐

          葱坊主初心はとうに忘れけり 西村勝美

          食べきれずに畑に残された葱は、球状の花の塊を作る。それを薄い皮が包む。葉の先に超然と花をいただくとはなんとけったいな。畑の葱坊主はありふれた光景ではあるが、花の在り方としては珍しく心になんとなくひっかかる。そういえば、新しく誓った志をすっかり忘れてしまっていたことにふと気づく。それを潔く認め、反省する。ここで再び初心に返ることもできる。葱坊主を取り、再び植えれば葱はまた再生するのである。

          葱坊主初心はとうに忘れけり 西村勝美

          朝採りのアスパラガスのふぞろひに   増田みな子

          アスパラガスは、筍のように毎年若芽が出て、同じ株から10~15年も収穫でき栄養価も高いので家庭菜園には重宝する。筍が採れるようになるとアスパラガスも勢いを増し、毎日数本収穫できるようになる。採りそこなうと翌日には枝を広げるほどに育ってしまう。掌サイズの芽は柔らかく、簡単に手でポキンと折れる。すぐに両手いっぱいになる。みると太さや丈も違ってふぞろいである。朝の採りたてのアスパラガスはみずみずしい。

          朝採りのアスパラガスのふぞろひに   増田みな子

          花種を蒔き常の日を新たにす 岡本眸

          種を蒔けば必ず芽を出す。生命の神秘である。先ずもって雄蘂と雌蘂と分かれているところから奇跡である。そのおかげで多種多様な新しい生命が生まれる。一粒の種はやがて数えきれないほどの種を作る。この循環によって命は受け継がれていく。その循環に自分の手が加わる。その意識が、日常生活に潤いをもたらす。命の誕生に手を貸す自分の行為が、まるで神の手のように見えてくる。花の一生を夢見る宇宙が豊かな暮らしを育む。

          花種を蒔き常の日を新たにす 岡本眸

          花水木咲き新しき街生まる 小宮和子 

          あちこちに新しい街が生まれる。染井吉野の次は花水木である。人は華やかなものに目が移る。その下にはツツジが蕾を膨らませ、長い冬が終わったかと思うと雪崩を打ったように次々といろいろな種類の花が咲き始め、いつの間にか夏へと突入する。生まれ変わったように華やかになり、街にあふれる陽光に肌がゆるみ笑顔がこぼれる。街に活気が溢れ、人々の動きも軽やかになる。なにひとつ永遠というものはなく神秘のベールに包まれる。

          花水木咲き新しき街生まる 小宮和子 

          葉ざくらの中の無数の空さわぐ 篠原梵

          桜蘂が残る枝に、待ちきれない勢いで若々しい葉が顔をのぞかせる。赤みを帯びた桜蘂と若々しい葉桜の饗宴。艶やかな桜蘂は残り、日に日に成長する葉の陰に隠れて目立たなくなっていく。それもつかの間、一刻も早くこの世に出現したいという勢いに噴出する爆発的な葉のエネルギーに、すき間だらけの空間が瞬く間に埋め尽くされていく。風にゆれ、数えきれない葉のざわめきが聞こえる。葉の隙間からこぼれる空が騒がしい。

          葉ざくらの中の無数の空さわぐ 篠原梵

          たんぽぽは地の糧詩人は不遜でよし  寺山修司

          大地の恵みとして、どこにでも生える逞しく明るいたんぽぽを挙げる。詩人も、自然の恵みをたっぷりと吸収して逞しく明るく生きるべしと鼓舞する。文明の築き上げた善悪と生命そのものの発露としての情熱との均衡の微妙なバランスが崩れたとき、どちらに傾くか。最先端の感覚を研ぎ澄ませた先には不遜とも思えることばとなって湧きいづるものである。新しい感覚の最先端には、斬新なイデアの扉が開かれ、眩しく光り輝いている。

          たんぽぽは地の糧詩人は不遜でよし  寺山修司

          出逢はねばよかつた桜蘂降る夜    谷中隆子

          花びらが散ったあとの蘂の姿をどのように捉えるのか、という美意識が問われる。誰もが絶賛する満開の桜は、散る姿さえも美しい。素晴らしいからこそ、そののちの姿に哀れや祭りの後の虚しさが漂う。年を重ねてくると、見方が少しずつ変わってくる。纏った花びらを脱ぎ捨てたのちの赤みを帯びた妖艶な姿にもまた違った魅力を発見する。軽やかな淡いベールのもとに隠されていた素顔に触れ、離れがたい魔力に取り憑かれてしまう。

          出逢はねばよかつた桜蘂降る夜    谷中隆子

          起りたる花吹雪のとどまらず 橋本多佳子

          机に向かって仕事をしていたときにふと気づく、窓の外の異変に。思わず声に出してしまった。「あっ、雪」次の瞬間、雪とは違う違和感があった。牡丹雪のようだが軽い。斜めに流れている。密度が濃い。そこで閃いた。これが花吹雪なんだあ・・。これまで張りつめていた神経の糸がぷっつり切れたように、潔くこの世とのお別れ。散りはじめたらすっからかんになるまでノンストップ。あっけないくらい。それゆえに豪華絢爛見事である。

          起りたる花吹雪のとどまらず 橋本多佳子