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ゲルハルト・リヒター//絵画の終決者Ⅹ絵画の黙示録//〈積層流体色彩論序説〉のための短いメモ書き/〈泥の光の色彩Ⅹ色彩の光の泥〉のランドスケープ

ゲルハルト・リヒター(Gerhard Richter)の絵画

ゲルハルト・リヒターのそれは絵画ではない。何度でも繰り返さなければならない。ゲルハルト・リヒターのそれは絵画のようなものですらない。ゲルハルト・リヒターの絵画は絵画ではない。それは絵画の終焉の向こう側に存在する燃え上がり燃焼した後の絵画の灰の塊りであり、絵画がわたしたちと離別するその最後の瞬間にわたしたちに見せることになるその後ろ姿だ。わたしたち人間はゲルハルト・リヒターの絵画を前にして絵画と決別することになる。ゲルハルト・リヒターは絵画を終了させた最後にして唯一の画家なのだ。彼以後、世界に画家は存在しない。ゲルハルト・リヒターの絵画以後絵画は世界に存在しない。仮にそこに絵画のようなものが存在していたとすれば、それはゲルハルト・リヒターの絵画以前に作製されるべきものが遅刻して誤って生まれることになってしまった時間錯誤の絵画でしかない。

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No.1:〈ビルケナウ〉以後、絵画は存在することができない/絵画の終決者(Closer)ゲルハルト・リヒターによる絵画の黙示録

ビルケナウその1

彼が迂回を重ねながら避け難く辿り着くことになったあの場所、ビルケナウで、彼は戦慄と伴に気付くことになる。絵画は終わらなければならない。この場所、ビルケナウで、絵画の終わりのピリオドを打たなければならない。ゲルハルト・リヒターは自身が絵画の終決者であることを悟り、絵画への希望と絶望が沈黙の言葉として放たれる。ゲルハルト・リヒターの絵画について語ることそれが何であるのか語ること、それは〈絵画の黙示録〉を語ることになる。黙示録(Apocalypse)。終わりの記録/記憶。絵画の終わりの記録/記憶。絵画は永遠にクローズされる。ビルケナウ以後、絵画は存在しない

ビルケナウその2

長大にして厖大なる絵画の生成の歴史、その終了のピリオド。ゲルハルト・リヒターがそのピリオドを刻印する。わたしたちは以後、時間錯誤を繰り返しながらそのピリオドの前の時間に立ち戻り絵画を生成させることになる。

ビルケナウその3

〈ビルケナウ〉とは全ての絵画の収斂点であり終着地であり、その墓標だ。

絵画の終決者(Closer)ゲルハルト・リヒターによる絵画の黙示録が静謐の時間の中で沈黙の言葉で語られる。〈ビルケナウ〉へ向かうゲルハルト・リヒターの長い旅。わたし/わたしたちもまたその旅を彼と伴に行くことになる

ビルケナウその4

Gerhard Richter

No.2:〈ビルケナウ〉へ向かうゲルハルト・リヒターの長い旅/彼のその旅をわたし/わたしたちも行わなければならない、あるいは、ゲルハルト・リヒターの孤独を分かち合うために。

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以下、幾つかの裁断的否定と肯定が行われる。ゲルハルト・リヒターを巡る固定化された既存の枠組みと評価と意味は無効化され、彼の全ての思考/行為/作品/表現は解体され再構築される。それらは彼の沈黙の言葉を読み解くために必要なこととして実行される。正確に慎重に躊躇うことなく。結果として、それは神話を破壊するものであり、彼を現代美術のアイコンとする者たちへの打撃でもある。ゲルハルト・リヒターを現代美術の巨人と崇める者たちにはそれは耐え難いものなのかもしれない。周到な用意も準備も戦略も戦術も知識もない無力で非力な私が行う巨人との戦いが静かに開始される。

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その傲慢なる戦いは軽蔑に値するのかもしれない。しかしそれはゲルハルト・リヒターを侮辱し愚弄するものではないと断言しておく。決してそうではない。決して。またそれは「物語として」「わたしの物語として」ゲルハルト・リヒターを語るための作為でもない。私がここで試みようとしている事柄は、わたしの物語の中にわたしの論理の中に、ゲルハルト・リヒターを閉じ込めることではない。その真逆だ。私はゲルハルト・リヒターを解放したいのだ。「現代美術の巨人」という滑稽にして侮蔑的なる氾濫する欲望にまみれ汚された呼称から解き放ち、その〈art〉の真の力を解放したいのだ。

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ゲルハルト・リヒターというひとりの孤独なる芸術家。その姿を刳り貫き、その沈黙の声に耳を澄ませ目を凝らし、彼と伴にその希望と絶望の言葉を私のこころの奥に迎い入れるためにその孤独を分かち合うために、それは必要なことなんだ。ゲルハルト・リヒターの孤独をそのままにしてはいけない。それを封じ込めてはいけない。彼が見つけたその希望と絶望をわたしたちは分かち合わなければいけない。その希望と絶望はわたし/わたしたちのもの。

ゲルハルト・リヒターよ、その深き孤独/深き魂をわれらに分け与えたまえ。

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Gerhard Richter

No.3:絵画の誕生について、あるいは、巨大な砦・ゲルハルト・リヒターの本丸へと侵入する。絵画の終決者(Closer)の姿を見定めるために

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ゲルハルト・リヒターの巨大な思考/行為であるその作品群を読み解くために多くの前哨戦的前置きを必要とすることになる。難攻不落のその砦を攻略するためには片付けておかなければいけない複数の大小の事柄が存在している。そのひとつひとつが深く広大で繊細で複雑な事柄であることは承知している。だがそれらの細部に拘泥してしまうとゲルハルト・リヒターに辿り着くことは困難となる。細部を棄て浮遊する足場を軽く蹴って漂うようにして前へ進もう。論理の階段の堅牢さよりそれを踏み込むステップが響かせるその足音の軽やかさを頼りに砦・ゲルハルト・リヒターの本丸へと侵入することにしよう。絵画の終決者(Closer)の真の姿を見定めるために。

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砦・ゲルハルト・リヒターの本丸への道筋はかなり難解だ。絵画原論とゲルハルト・リヒターの旅の記録/記憶を同時並行的に進行させつつ、ゲルハルト・リヒターの〈絵画の終焉した後の絵画/燃焼後の灰としての絵画〉について語らなければならない。「絵画原論と記録/記憶と絵画ならざる絵画」三つの話が互いに絡み合うジグザグの行きつ戻りつする屈折したものとなる。

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全文字数:約15000文字の長い長いものになってしまった。うん、それでも凄く駆け足で重要な事を幾つかすっ飛ばした、穴だらけのスポンジ状の感想/論考でしかない。これを書くために想像以上の多くの時間が必要だったけどでもまあこんなものしかとりあえず今の私には書くことができない。無様で無用な能書きと言いわけはこれくらいにしてさっさと始めることにしよう。

さて、話は絵画の誕生を巡る想像力と言葉と欲望と像/イメージ(image)、そして鳴り響く愛と暴力の物語からはじまることになる。絵画が持つことになる持たざるを得ないその光と闇が暴き出される。画家であることの光と影

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Gerhard Richter

No.4:想像力/欲望/像/イメージ(image)////、そして、奏でられる愛と暴力の人間の物語

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Gerhard Richter

想像力/像/イメージ(image)                    想像力とは人間が思考したその思考を描写しそれにかたちを与える力のことである。想像力は人間の思考にかたちをもたらす。いろとかたちとしくみを所有した人間の思考としての像/イメージ(image)。人は想像力なしにその感じたこと思ったこと考えたことに構造/機構/仕掛けを見出すことはできない。具象であろうが抽象であろうが想像力以外の力によって世界にかたちを見つけることはできない。想像力が思考にかたちを与え思考を駆動する。

言葉/〈意味物質Ⅹ像/イメージ(image)〉像/イメージ(image)
言葉とは〈意味✕物質✕像/イメージ(image)〉意味を担うものである言葉言葉とは意味の入っている容器にしてヴィークルのことだ。意味の入っている容器を作り出しているものとしての物質✕像/イメージ(image)。音/光/声/信号/記号/文字が、内的な像/イメージ(image)、あるいは、外的な像/イメージ(image)として言葉の容器/ヴィークルとなり意味を担い、それが言葉となる。人間が何かを思いその思いの意味/無意味を見出し意味/無意味を保存し運ぶための容器/ヴィークルが必要となり、そこに物質✕像/イメージ(image)が用意され、言葉が誕生した。想像力が思考にかたちを与える必然としての言葉が生まれ、知性を獲得した人間が思考する生命として出現する。物質から生命へ、生命から知性へ。物質でありながら物質を超越する

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Gerhard Richter

具象と抽象/像/イメージ(image)                  無数の具象から濾過し取り出し抽出した無数の骨格/仕組み/構造/論理を重ね合わせ溶け合わせられ具象の彼方に出現する透明なるものとしての抽象。その透明なる抽象の中で無数の具象の残像が揺らめき生成/消滅する。ひとつ/複数の抽象の流れに捻じれが生じ渦となり透明なる抽象が色彩を帯びた濁流となり構造/論理に肉体がまとわれる。具象の生誕。具象が抽象から抽出される。具象は抽象から絶えず生成され、抽象は具象から常に引き出される。

具象の中に抽象を観ることと、具象の中に抽象を観ること。人の中で世界は透明なるものと透明ならざるものの入れ子細工のように変転する。だから、人は忽然として目の前に現れる宙に舞い散る一片の花びらに永遠なるものを見出し、本の中で偶然に遭遇したひとつの言葉/センテンスにあの日の手触りのある記憶を呼び起こすことができるのだ。具象/抽象の中の抽象/具象。

像/イメージ(image)は具象/抽象として現れる。それが人間の思考のすべてにかたちを与える力を持つことになる。すべてだ。例外は存在しない。その圧倒的構築力と破壊力。想像力とは人間の知性の根源に君臨する皇帝だ。

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Gerhard Richter

欲望/像/イメージ(image)                     かたちを与えられた人間の思考が像/イメージ(image)としてわたしたちの前に顕れる。否応なくわたしたちを誘惑する像/イメージ(image)。それはわたしたちが失ったものたちわたしたちに欠けているものたちの姿を痛みと伴に教える。像/イメージ(image)が欲望を喚起し欲望が像/イメージを上書きする。欲望と像/イメージ(image)の無限的連鎖反応的反響の中で人間は欲望の囚われ人となる。欲望の中で像/イメージ(image)が錬成され喪失の物語が欲望の物語へと変貌する。欲望とは像/イメージ(image)の父にして母でありその子供たちだ。像/イメージ(image)が欲望の震源となる。

愛と暴力的なるもの/像/イメージ(image)
それは愛と暴力にかたちを与える。想像力が愛にかたちを与え、同時に、暴力にかたちを与える。わたしたち人間は想像力の限りを尽しその力が虚空に出現させるいろとかたちの限りを尽して、人間を愛し人間を殺戮する。愛と暴力の物語が想像力によって奏でられる。人類の歴史を溺れるほどに埋め尽くす透明にして至高なる愛の悲劇/喜劇と無数の戦争の奇怪なまでの華麗なる凄惨さ、それらは全て想像力が産出したものだ。考えることしかできなく像/イメージ(image)を描出することができなかったとしたら、それらの物語もこれほどまでに複雑な形状と色彩の満ち溢れたものにならなかっただろう。愛と暴力的なるものを生み出す像/イメージ(image)。想像力が形成する像/イメージ(image)が愛と暴力的なるものの根源として世界を支配する

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Gerhard Richter

絵画/〈絵画図鑑〉/欲望の図鑑/像/イメージ(image)          絵画を「一定の領域を占領する有限の平面の上の表面に、作者が身体/道具を用いて〈何かしらのもの〉によって、像/イメージ(image)を物質化し固定化した/されたもの」と仮定/規定してみる。像/イメージ(image)の平面的なるものへの物質化としての絵画。像/イメージ(image)の内容を問わずに

さらに、その有限の平面のありよう、作者の絵画を形成する中での身体の身振りのありよう、用いられる〈何かしらのもの〉のありよう、その物質化された像/イメージ(image)の具象/抽象のありよう、を絵画の形式として区分してみる。そうすると絵画は標本箱の中の標本のように整然と秩序立てられ〈絵画図鑑〉が出来上がる。人間の生み出した像/イメージ(image)図鑑としての完全なる〈絵画図鑑〉。あらゆる絵画の記録としての〈絵画図鑑〉

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Gerhard Richter

幾つかの絵画が具象を外的世界から内的世界へと深化させ(シュルレアリスム等々)、幾つかの絵画が具象でありながら具象を超越し具象と抽象を混沌とさせ(クロード・モネの睡蓮、ポール・セザンヌの林檎、サント・ヴィクトワール山、パブロ・ピカソ、フランシス・ベーコン、デイヴィッド・ホックニー等々)、幾つかの絵画が有限の平面の上の表面であることから逸脱し(ルーチョ・フォンタナ、フランク・ステラ等々)、幾つかの絵画が像/イメージ(image)を物質化する方法として写真術を取り込み越境し作者の身体の身振りを抹消し(スーパーリアリズム等々)、幾つかの絵画が・・幾つかの絵画が・・と延々と終わることなく絵画の革命は継続され変転を重ねる。

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Gerhard Richter

しかし、絵画がどれほど変転したとしても世界に存在する全ての絵画はその〈絵画図鑑〉の細分化されたいずれかの区分/枠組みの中に入ることになる。全ての絵画がその中に収められる。新しい絵画が誕生し区分/枠組みは更新され図鑑は更新される。絵画は無限の広がりを持ちながらも有限の図鑑の中の一頁として差し込まれる。絵画が絵画であろうとすれば、その絵画は必ず図鑑の中の秩序に回収されることになる。絵画の全きの革命が蜂起されたとしても、絵画は〈絵画図鑑〉の中の一頁として吸い込まれて行くことになる。

そして、像/イメージ(image)が人間の欲望の顕れであるならば〈絵画図鑑〉は人間の欲望の図鑑となる。必然として。如何に美しく華麗で醜悪でグロテスクであろうとも、絵画は人間の欲望の全部を描き尽くすことになる。

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Gerhard Richter

No.5:絵画という装置/機械によって像/イメージ(image)の中に閉じ込められているわたしたち

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像/イメージ(image)の平面的なるものへの物質化としての絵画。転倒させてその事態を言い表せば、絵画という平面的なるものの中に物質の衣を着た永遠の像/イメージ(image)が安息の場所としてそこに存在している。絵画は像/イメージ(image)を物質化し保護し永遠とする装置/機械なのだ。

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そのようにしてあらためて絵画を観てみれば、わたしたちは像/イメージ(image)を絵画の中に封じ込めたつもりが、そうではなく、像/イメージ(image)を生き延びさせるために絵画が存在していることに気付くことになる。その絵画の中の像/イメージ(image)はいつでもその外に出ることができるのだ。閉じ込められているのは像/イメージ(image)ではない。わたしたちだ。わたしたちは絵画という装置/機械に取り囲まれ、像/イメージの中に閉じ込められ封じ込められ囚われている。像/イメージ(image)の囚人としてのわたしたちと像/イメージ(image)の門番/守護者としての絵画。

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絵画の可能性と不可能性。ここに来てようやく絵画の終決者(Closer)ゲルハルト・リヒターについて語ることができることになる。この地点からゲルハルト・リヒターの旅について語ることを始めよう。この語りの終わりにおいて、絵画の終決者(Closer)ゲルハルト・リヒターとは何者であり何をしようとしたのか何をしたのかが明らかになる。鍵となるのは前哨戦として私が解き明かした次の事柄である。再度、書き出し留意することとしよう。

「像/イメージ(image)が欲望を喚起し欲望が像/イメージ(image)を上書きする。欲望とは像/イメージ(image)の父にして母でありその子供たちだ。像/イメージ(image)が欲望の震源となる。愛と暴力的なるものにかたちといろを与え生み出す像/イメージ(image)。想像力が形成する像/イメージ(image)が愛と暴力的なるものの根源として世界を支配する。わたしたちは絵画という装置/機械に取り囲まれ像/イメージ(image)の中に閉じ込められ封じ込められ囚われているのだ。像/イメージ(image)の囚人の私と像/イメージ(image)の門番/守護者としての絵画」        (本記事「No.4:想像力/欲望/像/イメージ(image)////、そして、奏でられる愛と暴力の人間の物語」より引用)

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尚、本記事の構成は以下、「No.6:〈ビルケナウ〉その場所で決断する。絵画を終わらせなければならない。欲望の装置/機械であり像/イメージの永遠化のための道具(ツール)である絵画を終焉させること」と「No.7:ゲルハルト・リヒターのアブストラクト・ペインティング:〈泥の光の色彩✕色彩の光の泥〉のランドスケープ/地景(Landscape)、あるいは、〈積層流体色彩論序説〉」にて、一旦、閉じられることになります。

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但し、そのNo.7の後に補遺として(1)から(5)(連番のNo.8〜No.12)が追記されます。ゲルハルト・リヒターの旅の記録/記憶についての私の考察であり、彼が何者であり何を行ったのかについて彼の全貌を見出すために書かれたものです。補遺と記されていますが補った内容ではなく、同時並行的に進行していた事柄を記述したものです。本来であれば同時並行的に配置されるべき言葉ですが、編集上の煩雑さを回避するために、時系列を前後させて集約的に配置したものです。ゲルハルト・リヒターの全貌を見出すために。

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本記事は冒頭のプロローグから本文のNo.1〜No.7、補遺(1)〜(5)(連番のNo.8〜No.12)、そして、あとがきの全部までを含んで一体と成すものです。すべての章が必要不可欠なものであり部分は部分でしかなく単独では機能しないとあらかじめ明記しておきます。部分だけでは意味を失います。

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Gerhard Richter

No.6:〈ビルケナウ〉その場所で決断する。絵画を終わらせなければならない。欲望の装置/機械であり像/イメージ(image)の永遠化のための道具(ツール)である絵画を終焉させること。

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〈ビルケナウ〉。ゲルハルト・リヒターは何度も制作しようとし何度も中断された。幾度も中断せざるを得なかった。鮮烈な理由。逡巡と疾走。悔恨と決断。〈ビルケナウ〉、ゲルハルト・リヒターの長い長い旅の終着地。

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ゲルハルト・リヒターは〈ビルケナウ〉に於いて自身の宿命に覚醒することになる。想像力こそが、愛、そして、暴力を生み出す根源であることに。像/イメージ(image)こそが愛と暴力の根源であることに。彼はその厳粛にして残酷なる世界の成り立ちのありように戦慄しその場所で立ち尽くすことになる。彼は〈ビルケナウ〉のその場所で像/イメージ(image)を物質化するという、画家が絵画を作ることの持つ本当の意味と向き合うことになる。

絵画とは〈欲望されたもの=像/イメージ(image)〉の物質化/固定であること。欲望を永遠とする装置/機械としての絵画。ゲルハルト・リヒターは自身が何をしているのか自身が何者なのか知ることになる。絵画とは欲望であり像/イメージ(image)とは愛と暴力の根源であること。画家とは絵画という欲望の装置/機械をその手で作り上げる者なのだと。絵画/画家は欲望だ。

ゲルハルト・リヒターは〈ビルケナウ〉の場所で決断する。絵画を終わらせなければならない。欲望の装置/機械であり、像/イメージ(image)の永遠化の道具(ツール)である絵画を終焉させること。ゲルハルト・リヒターはただひとり深遠なる孤独の中で決断する。〈ビルケナウ〉を最後の絵画とすること。〈ビルケナウ〉以後、絵画が生まれることはない。絵画の終決者(Closer)による絵画の黙示録。ゲルハルト・リヒターが絵画を終わらせる

ビルケナウその1

ビルケナウその2

ビルケナウその3

ビルケナウその4

Gerhard Richter

No.7:ゲルハルト・リヒターのアブストラクト・ペインティング〈泥の光の色彩Ⅹ色彩の光の泥〉のランドスケープ/地景(Landscape)あるいは、〈積層流体色彩論序説〉

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ゲルハルト・リヒターのアブストラクト・ペインティング/〈泥Ⅹ光Ⅹ色彩〉

/それを語るために〈流体色彩〉の物理学が必要となる。/
無数の色彩を内包し光として放つ粘度を有した物質、発光する物質/流動体/粘土/土/地/泥/。光が泥となり色彩となる。流動する色彩の光の泥。泥の光/光の泥、流体の色彩/色彩の流体。色彩をまとったひかりが泥のように氾濫する。光としての泥、色彩としての泥。泥の光と色彩の融合と錯綜と分裂。そこに存在してものは絵の具でありながらその平面の上で絵の具とは全く異なったものたちへ変容する。描くためのものでも塗るためのものでもない。それを正確に言い当てる適切な言葉は既存の辞書の中には存在しない。ひかりであり色彩であり物質/流動体である〈泥の光の色彩色✕彩の光の泥〉あるいは、〈流体色彩〉。その流体的色彩光〈流体色彩〉について語るためには〈流体色彩〉の物理学が必要となる。これまでの美学/美術は無効となる。

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ゲルハルト・リヒターのアブストラクト・ペインティング/その生誕の瞬間

/板切れで掬い取られその泥は平面の表面を行き交う/擦り通過する泥の光/
〈泥の光の色彩✕色彩の光の泥〉の垂直に立てられた平面の表面で繰り広げられる混沌の劇。泥の光/色彩が泥としてその表面を滴り落ちながら色彩/光の泥はその平面を往復する。描写のためでも塗り込めるためでもなく。何度も何度も。ゲルハルト・リヒターのスキージ(板切れ)がその泥の光を漆喰の鏝のように掬い取りその平面を往復し行き交う。一定の色彩がその平面を染め上げ占有することなく一定の光がその平面にかたちを描くことなく。その泥はその平面を埋めるために用意されたものではない。その泥はその平面の何かしらの場所を到着地とすることなくひたすらその平面の上を通過する擦り付けながら平面の表面を通過する〈泥の光の色彩色✕彩の光の泥〉。

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/固まりつつ溶け合い溶け合いつつ固まり合い重ね合わされる泥の光の波/
ひかりといろの流動体が絵画という平面の上で波となる。その波は立体を形成することなく平面の表層の中で溶け合う。厚みを持った平面の上の表層、その無数の表層の重ね合わされた多層の中で生誕し死滅する〈泥の光の色彩✕色彩の光の泥〉の融合と離別の時間が俯瞰される。泥は固まりつつ溶け合い溶け合いつつ固まり合う。刻々とその粘度を変更するその泥。剥ぎ取られ塗り込まれ塗り込まれ剥ぎ取られ重ね合わされる光の泥の波。波はやがて固まりひかりといろの層となって平面を覆い尽くすことになる。色彩と光の層

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/流体色彩=〈泥の光の色彩Ⅹ色彩の光の泥〉の積層体/物質性の光の積層/
〈流体色彩〉が有限の平面の表面を覆い尽くし塗り込められ剥ぎ取られ、その上に再び、〈流体色彩〉が津波のように押し寄せその前の流体を巻き込み混融し、表面を塗り潰し新たな平面が生み出される。積層の〈流体色彩〉。重ね合わされ層を形成する光の泥。波が何度も繰り返し寄せるように光は泥として幾重にもその場所で積層して行く。泥の光/光の泥はその混沌の中でさらに混沌と秩序の色彩の泥となり、有限の平面の中に無限の光を内包させる積層された物質性の光。〈泥の光の色彩色✕彩の光の泥〉がそれを可能とする。絵画という形式の中に封印された泥である光の〈流体色彩〉の積層体。

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ゲルハルト・リヒターのアブストラクト・ペインティング/ランドスケープ

/〈泥の光の色彩Ⅹ色彩の光の泥〉のランドスケープ/地景(Landscape)/
〈泥の光の色彩色✕彩の光の泥〉のランドスケープ/地景(Landscape)がそこに出現する。風の景色/風景でもなく光の景色/光景でもなく地の景色/地景。積層流体色彩体の織り成すランドスケープ。偶然と必然が組み合わせられ発生した流体色彩の成す地形。そのランドスケープを語る言葉は〈泥の光の色彩✕色彩の光の泥〉の地形地質学、流体色彩物理学、流体色彩光学、あるいは、流体色彩論となる。記述は連立微分方程式を含むものとならざるを得ない。ゲルハルト・リヒターのアブストラクト・ペインティングは流体の物理的事象であり色彩の光学的事象であり、そこに存在しているのは刻々と変容する事象の姿を切り取った無数のショットである。ショットはひとつの断面でしかない。泥の物理学を語ること、それ以外にそれを語る方法はない

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このランドスケープを語る上で戒めるべき行ってはいけないこと。それはただひとつのことだ。細部と部分と全体に像/イメージ(image)を読み取り、そこに物語の断片を見つけること。〈泥の光の色彩Ⅹ色彩の光の泥〉のランドスケープは絵画ではない。具象画でもなければ抽象画でもない。それは〈泥の光の色彩Ⅹ色彩の光の泥〉が作り出す〈積層流体色彩体〉でしかないすでにゲルハルト・リヒターのその手によって絵画は終了しているのだから

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補遺(1)No.8:包囲されるゲルハルト・リヒター20世紀の終わりから21世紀の始まりの時間の中で

ゲルハルト・リヒターはその時ひとりだった。

ゲルハルト・リヒターは包囲される。同時代の偉大なる画家/芸術家たち、ヨーゼフ・ボイス、クリスチャン・ボルタンスキー、ジャクソン・ポロック、サム・フランシス、フランシス・ベーコン、デイヴィッド・ホックニー、等々によって。ヨーゼフ・ボイスに概念/言葉で包囲され、クリスチャン・ボルタンスキーに装置/記憶で包囲され、ジャクソン・ポロックに抽象と行為で包囲され、サム・フランシスに抽象/色彩で包囲され、フランシス・ベーコンに表象/物語で包囲され、デイヴィッド・ホックニーに具象/描写で包囲される。彼の場所は何処にもなかった。ゲルハルト・リヒターの創造はその包囲戦の中で誕生する。彼はその包囲戦を生き延びるために孤独の中で戦う。

ゲルハルト・リヒターはその四面を包囲された中で自身のオリジンを発見する長い旅を始めることになる。思考/行為が試行され継続される。何度も何度も。迂回と往復と前進と後退の繰り返しのジグザグした前後し錯綜する試行的な思考/行為。同時にそれが〈art〉の根源を発見する旅であることは言うまでもない。ゲルハルト・リヒターは20世紀の終わりから21世紀の始まりのアートの動向と密接に関わった存在であり、彼は時代の申し子でもある。

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補遺(2):No.9:ゲルハルト・リヒターの孤独、あるいは、彼の思考/行為のひとつながりのひとつの巨大な過程の記録/記憶

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その旅の途上で「フォット・ぺインティング」、「グレイ・ペインティング」、「ガラスと鏡」、「古典的な主題の具象画としての静物画、風景画」、「アブストラクト・ぺインティング」、「オイル・オン・フォト」、「アラジン(ガラス絵)」、「カラー・チャート」、「ストリップ(デジタルプリント)」「ドローイング(ぼかし、線、面、余白)」等々が試行される。ゲルハルト・リヒター自身の場所を見出すための可能なことが全て試される一見多様に見える無数の試行。

見掛け上表面的にはそれらは独立した表現形式として見える、彼の「多彩な創造活動の一端」として捉えられてしまうのかもしれない。しかしそうではない。それらは全部繋がっている。それはひとつのものでしかない。それは彼の長い旅路を記録したその日記なのだ。季節と天候が日々刻々と変化するようにその日その日を書き記した記録/記憶。ゲルハルト・リヒターの思考/行為の記録。ひとつながりのひとつの巨大な過程の精密で詳細な記録/記憶。

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ゲルハルト・リヒターが何者であり、その作品が如何なるものなのか、それを知るためにはそれらの創作がひとつの巨大な過程の記録/記憶の一項目であることを認識しなければならない。「多彩な創造/作品/表現」ではなく「複雑に絡み合った複数の記録/記憶の頁」として。〈art〉の根源を発見するための、そして、彼の内的世界の内奥へ向かう旅の軌跡が描出された記録/記憶

その複雑に入り組んだ長大な軌跡をあらためて見渡すと、彼の深淵のような苦悩と強靭な不屈の意志に私は引き裂かれそうな痛みに襲われる。彼は同時代の偉大なる画家、芸術家たちより遅れ劣っていたのではない。彼は自身の溢れ出る才能に溺れることのない大人であり他の誰よりも成熟し聡明だった。包囲されていることさえ分からない愚か者たちと一緒に紛れ込むようにしてその包囲する壁の一部になることを彼は拒否し、彼はひとり旅に出発することを選ぶ。ゲルハルト・リヒターの終わることのない孤高の旅が始まる

補遺(3):No.10:ゲルハルト・リヒターの旅の記録/記憶、あるいは、私はゲルハルト・リヒターの絵画が何であるのか解き明かすために、幾つかの彼の作品群を部分的に否定しなければならない

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ゲルハルト・リヒターの旅の記録/記憶としてその作品群

ゲルハルト・リヒターの旅の記録/記憶としてその作品群を読み解くこと。私にできること私が行わなければならないことはそれだけだ。しかし、結果的にそれは或る意味に於いてゲルハルト・リヒターの作品群を部分的に否定することになる。その作品群をひとつながりのひとつの巨大な思考/行為の過程の記録/記憶として捉えることが必然として導くことになる作品群の否定。

そのゲルハルト・リヒターの作品群を部分的に否定する論理性を語る前に、幾つかの事柄(三つのこと)を示さなければならない。

補遺(4):No.11:ゲルハルト・リヒターの旅の記録/記憶としての作品群を構成する三つのもの、到着地点と途上と句読点について

/一つ目のこと/旅の記録/記憶を構成する二つのもの/
旅の記録/記憶を構成する二つのもの。「思考/行為」と「思考/行為のために欠くことのできない途上と分節点」。「思考/行為」とは到着地点のことであり創造/作品/表現の本体のことである。「思考/行為のために欠くことのできない途上と分節点」とは到着地点へ創造者が到着するための過程であり創造/作品/表現のための息継ぎでありステップであり踊り場であり中継のこと。

ゲルハルト・リヒターの旅の記録/記憶としてその作品群はその二つのものからかたち作られている。その双方が見掛け上表面的には表現として作品群として、わたしたちに提示されている。彼の旅を語る困難さの理由がそこに存在している。彼の記録/記憶のすべてが表現として作品として現れてしまっているのだ。彼がそのことに自覚的であるのかそうではないのかは分からない。創造の只中にある創造者たちにそれを問うことは意味のないことでしかない。彼ら/彼女ら創造者たちはそれでしか創造/表現する他なかったのだ。

/二つ目のこと/途上と分節点としての句読点/
途上と分節点。それは異物でも不要なものでもない。また空虚でもない。それは思考/行為の旅の中で必要不可欠な空白である。その空白が存在しなければ、何かしらのものことを作ることはできない。表現を行うための踏み台としての空白。エスキースとしての途上としての時間と空間の空白/余白。

途上のこと。旅には必ず途上が存在する。そこへ辿り着く途中が必ずある。それがなければその場所には到着することができないその途上。その途上のありようがその到着地の場所を決定してしまうことさえある。試行錯誤としての途上。試みとしての途中。暗闇の中で霧が立ち込めるような場所でその先が見渡せない時の手探りの指さきに触れるもの、その感覚。その感覚が次の方向を定めることになる。到達地点で忘れ去られることになるのかもしれない途上。だがそれがなければそこには誰も辿り着くことはできない。

分節点としての句読点のこと。記録/記憶には必ず分節点としての句読点が設けられる。句読点は記録/記憶にとって必要不可欠なものなのだ。いかなる記録/記憶にとっても。それは構造/仕組みを成す全てのものが複数の分節したもので成り立っていることを理由にして必ず句読点を持つことになる。「。」句点と「、」読点。強い分節点と弱い分節点。分節点それ自体には内容はない。その点はひとつながりのひとつを、ひとつとしてつなげるために設けられた途上の地点であり分節のための地点、記憶の中の複数の句読点。

/三つ目のこと/ゲルハルト・リヒターにとって必要不可欠なもの
ゲルハルト・リヒターにとってそれらは必要不可欠なものだ。だがそれらはそうした意味以上はほとんど何もない。彼以外の者たちがそこに何かしらの作品/創造/表現を見出し意味を付与することを全面的に否定するつもりは私にはない。しかし、そうしたからといってそこに過剰な意味を与えたとしても、それがゲルハルト・リヒターの思考/行為の記録/記憶の途上と句読点を、途上と句読点以上のものに変更させるわけではない。そのことを厳密に受けいれるべきだと私は思う。何処までも途上であり句読点でしかない。

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補遺(5)No.12:複数の途上と句読点、あるいはフォト・ペインティングと風景画と静物画とガラスと鏡とカラー・チャートとその他

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ゲルハルト・リヒターの「アブストラクト・ぺインティング」を除くその他の作品群、「フォット・ぺインティング」、「グレイ・ぺインティング」、「ガラスと鏡」、「静物画、風景画」、「カラー・チャート」、「ストリップ(デジタルプリント)」等々について。

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/「フォット・ぺインティング」「静物画、風景画」「カラー・チャート」/
今一度、その「作品/表現(のようなものたち)」を全ての先入観を排除して正確に凝視しなければならない。不穏な気配を漂わせた風景/光景に幾ばくかの記憶を揺らし波立てるものが存在していること、あるいは、その清明なる色彩が組み立てる混沌の中にメロディが宿っていることは認めよう。またそこに何かしらのオリジナリティも存在しているのかもしれない。ゲルハルト・リヒターの思考/行為の記録/記憶/物語の痕跡を示すものであることは確かだ。しかしそこまでだ。それ以上のものは何もない。それらが自律して自身に内在する普遍性を力強くわたしたちに語り掛けることはない。それらは彼の記録/記憶/物語の中でしか存在し得ない「作品/表現(のようなものたち)」であり、彼の記録/記憶/物語から独立した「作品/表現」ではない。それらの「作品/表現(のようなものたち)」はゲルハルト・リヒターでなければ成し得ないものではない。〈ゲルハルト・リヒター印〉はない。今一度、それらを裸眼で観るべきだ。ゲルハルト・リヒターの作品であることを忘れて、一切の前提を棄て、再度、観なければいけない。正確に判断するために

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/「ガラスと鏡」/                          そこにあるのは何枚かの透明なガラス板、あるいは、鏡だ。それ以上のものはそこにはない。彼はそこに自身の記録/記憶/物語の句読点を観るのかもしれないが、その句読点を他の者たちが観ることはできない(だろう。)その場所はゲルハルト・リヒターによるゲルハルト・リヒターのためのゲルハルト・リヒターの場所だ。そこに意味/無意味を見つけることができる者は彼以外には存在しない。わたし/わたしたちがその場所でできることは、彼の沈黙の言葉その深き孤独を知ることだけだ。それ以外にできることは何もない。

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繰り返すがそれらはゲルハルト・リヒターの思考/行為の記録/記憶/物語の途上として句読点として極めて重要なものたちだ。それらを無視して彼の思考/行為を理解することはできない。しかし、何度も言うようにそれらは記録/記憶/物語の途上であり句読点にすぎない。それ以上でも以下でもない。

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あとがき/「オラファー・エリアソン ときに川は橋となる(Sometimes the river is the bridge」も「ピーター・ドイグ(Peter Doig)展」も観に行くことができなかった2020、あるいは、〈art〉の物質性は直接体験するしかない。遭遇の場所が生き延びるために

東京国立近代美術館でゲルハルト・リヒター展(2022年6月7日〜10月2日)ぼんやりしていて危うく観逃してしまうところだった。日々のあれこれに流されていて気が付いたら時間が過ぎていて季節が移ろっていた。日々のあれこれのことは大切で大事なことだけど、それでも時には少しの時間立ち止まって深呼吸をしないといけないと思った。歩いて走って、時折り、立ち止まって深呼吸して。少しの間立ち止まって流れる時間の川を眺めること。

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2020はいろいろな理由があって「オラファー・エリアソン ときに川は橋となる(Sometimes the river is the bridge)」も「ピーター・ドイグ(Peter Doig)展」も観ること/観に行くことができなかった。時間を戻すことはできないのでそれはもうそれでしかない。2020、それを忘れることはできない

展覧会に行って実物の作品を観ること/触れること/出会うこと/体感することこれは凄く大事な必要なことだと私は思っている。メディアを通して作品を知ることはできるけど、それでは伝わっていないこと/時には誤って伝わってしまっていることがある。だからもし可能であればその機会があれば、作品には直接出会った方がいい。と思う。その物質性は体験するしかない。

ゲルハルト・リヒター展。〈ビルケナウ〉を観ること。それだけだ。他に何も言うことはない。そこに置かれている透明なガラス板と鏡の意味。それはその場を後にした時間の中でゆっくりと内省の時間で記憶として反芻される

〈art〉のその物質性に直接触れることができる洗礼と遭遇、遊戯、そして、戦慄と酩酊の場所。美術館はその特別な場所として存在している。いくつかの出来事がわたし/わたしたちから美術館を奪ってしまったけれど、美術館は現在も存在している。美術館は生きている。それはわたし/わたしたちになくてはならないものとして生き延びている。ありがとう、〈art〉、ありがとう

(了)

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