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正論にこだわると苦しくなる

おはこんにちばんは!
のんです。



本日も早速
ふと思ったことを綴っていきます。


「正論にこだわると苦しくなる」
とは、どういうことか?



ここは大きく分けて
2パターンの人がいると考えられます。



・正論にこだわることで苦しくなる人
・正論にこだわる人と関わることで苦しくなる人

 (本人が気づいていない場合も含む)



まず、
正論にこだわることで苦しくなる人の場合
何か課題に直面した際に
正しい回答を求めようとし過ぎてしまい



時間が足りないことや
知識が足りないこと
腑に落ちないこと


あらゆる「ない」に苦労してしまう
可能性があると考えました。


また、自分の意見が正論と思っている場合は
意見が通らなかった(否定された)際
苦しくなるかもしれませんね。



このパターンに陥りやすい人は
正論という「正解」があると思っているので
そこに辿り着くまで探し続けたり
ときには否定したり、もがくと思うのです。



話し合いの場や課題解決に向けて議論することは
誰しもが一度は経験することだと思いますが



そもそも「正解」かどうかは
それぞれ(個人)が決めることですよね。
(仕事やディベートにおいても)


そう考えると、正論にこだわるよりも
自分が納得のいく範囲で決着を
つけられるようになった方が
楽に生きられそうだなよなと感じています。


仮にディベートなどで多数決を取り
自分の意見が通らなかったとしても
判決としては認められなかったけれど
自分はこの意見が正解だと思っているからいい
やり切った!くらいのスタンスで入れると
いいのかなと思いました。


何かにこだわることは素敵なことですが
ワクワクからくるこだわりか



「〜しなければいけない」みたいな
不安や義務感からくる「執着」か
といったところも
自分自身と向き合う上で
私は大切にしていきたいと感じています。


手放したい例)
これまで論破してきたから論破しないと気が済まない!
教科書に載せられるくらい立派なことを言わなきゃ!
など…



そして、
正論にこだわる人と関わることで苦しくなる人の場合


正論にこだわる人に意見を否定されたり
柔軟な対応が取れずに
苦しむ可能性があると考えました。


と言いましても、
それはあくまで相手の意見なので

「あなたはそう思っているんだね」

くらいに考えて
自分の意見は自分が大切にすればいい
という考えもあります。


ただ、
ディベートや裁判などのように
相手を否定して意見を伝えなければいけない場合以外で


不意に否定的な意見を聞くことは
悲しくなったり、切なくなったり
人によっては自己否定に走ってしまったり
するのではないでしょうか。


大前提として人の意見を
「その意見もいいね」
「でも私はこう思うよ」
の体制が整っていればいいのですが



否定批判や正論の押し付け合い
正論探しが始まってしまうと
なんとももどかしい生きづらさが生じる可能性もあります。



自分が考える思考の中だけにしても
同じです。(過去の私)



一度きりの人生ですから
「自分が幸せになる」
ことはもちろん



誰かを否定したり落とし入れることで
幸せにを感じるのではなく



誰も傷つけずにそれぞれが幸せを掴む。
そんな社会が当たり前であって欲しいなと願っています。





これも、
私個人のふと思ったことなので
正論でもなければただの意見に過ぎません。





エンタメとしてであれば
正論を追求し合うディベートも面白いかと思います。




ただ、日常は
それぞれを尊重しあって生きたい。
そんな気持ちで綴ってみました。





最後までお読みいただき、
ありがとうございました!



今日も
素敵な一日になりますように☀
お疲れ様でした☾



のん


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