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『 カルテット 8話 』
坂元裕二作品をこよなく愛する僕ですが、その中でも、ドラマ「カルテット」が大のお気に入り。
Amazon prime に入っていることもあり、控えめに言っても、軽く30回以上は観ているだろう。
どのシーンの、どの科白も好きだが、
最初に言っておきたいのが、エンディングの
「おとなの掟」である。
椎名林檎の作品だが、ドラマのメンバーが
それを歌っている。
映像も、衣装も素敵で、これだけでも素
『 雇われマスターから、経営者へ 』
順調に、お客さんも戻り、同時に新規のお客さんも増えて
二年の月日が経った。
ここで、また新たな展開が始まる。
オーナーからの提案で
bar Come Onを自分で経営してほしいとのこと。
専門用語でいうと、独立採算というのだが
お店そのものを、僕自身が借りて
家賃、店舗賃料、光熱費等々、すべてを僕が払い、
給料を貰うのではなく、経営者として
独立するのだ。
一日、考える時間をも
『 わずか30分で仕事が決まった 』
母が退院して、一週間ほどが経った。
特に問題もなく、日常生活を送った。
母はすっかり、入院生活のリズムに身体がなっていたので
夜9時になると眠った。
さて、自分はどうしようか?
自分の古巣の、Le JAZZに飲みに行こうとしたが
いろいろ話を聞かれて、それに答えたりするのも面倒なのでやめた。
こういうときは、あまり関わりのないお店がいい。
と、いうわけで、市内のあるビアホールに行っ
『 こんなときに… 』
本来ならば、母の二回目のオペの話を書くところだが
スピンオフとして、そのときにあった
別の話を書くこととする。
その頃、僕には4年半付き合っていた彼女がいた。
そして、彼女は母の入院している病院の看護師でもあった。
彼女(仮名 エミとしておく)の所属先はICUだった。
その、二年前には僕が入院していた場所である。
母の容態がいつ急変するかわからなかったので
病院近くにアパートを借り
『 こんなところで会わなくてもいいのに… やれやれ 』
母が一般病棟に移ってから、また血管造影の検査をした。
今回、強行でオペした箇所は、クリップが不十分なので
もう一度、アタマを開くオペをすることになった。
それから、未破裂の脳動脈瘤がいくつかあって
それも同時にやることが決まった。
母には、もう嘘はつけないので
本当はくも膜下出血だと言うことを伝えた。
「私はもう死ぬの?」と母が言うので
「大丈夫。もう、一度目の手術が無事に済んだの
『 予期せぬ出来事 』
少しづつ、身体も心も回復し
順調に、着実に、いい方に向かっていた。
スタッフとも、阿吽の呼吸で仕事が出来るようにもなっていった。
余談になるが、その頃の僕は(JAZZ BARで働いてからのこと)
女性客から、かなりの人気があった。
(現在とは大違いである)
同時の写真が見つかったので載せてみる。
一年、二年と時は経ち
Le Jazzでのやることは、やり切った。
そんな思いが芽生え
『 将来の目標は、自分のbarを持つこと 』
日々、店長としての業務をこなし、
スタッフに仕事を教えながら営業する。
その頃思ったのが
いづれ、近い将来 自分のお店を持とう
という、新たな目標ができた。
お店の営業も順調で、評判もかなり良かったと思う。
人気店での成功は、確実な自信へと繋がった。
少しづつ貯金をし、やっと三桁を越え
あと2年後くらいには、銀行の借り入れを合わせて
自分のBARを始めよう。そんなふうに考えていた
『 bar 店長の始まり 』
店長になること自体は、特に抵抗もなく
やり方等々もわかっていたので問題はなかったが
それが、ちょうど三月で、他のスタッフが
学校の卒業や、転職などで
誰もいない状態になってしまった。
オーナーと相談をして、系列店の喫茶からひとり
あと、ふたりを募集するところから始まった。
前々から、お客さんで来ていて
働きたいと言っていた21歳男性と、
前スタッフの知人が働くこととなった。
三
『 人気店への移籍 』
前回までは、僕が30歳のときに起こった病気のことについて書いたが
今回は、少し遡って、27歳の頃の話になります。
君津駅前の、bar stair way から、
木更津駅東口 駅前にある
木曜舎 Le Jazz
という、ジャズバーに移籍をした。
木曜舎というのは、木更津界隈に数店ある
喫茶、雑貨のお店なのだが、その一つが
ジャズバーだった。
このお店は、とても人気で、週末は必ずと
『 一般病棟は、全力でリハビリを 』
一般病棟に移ってからは、できるだけ
身体を起こしてもらうようにした。(もちろんベッドごと)
何故かわからないけど、ずっと身体がゆっくりと
ぐるぐる回っているような感覚だった。
何もできない自分に、腹立たしさを
感じる。
いや、違う 何かやるべきことはあるはずだ。
そうだ。起きてる時間はすべて
指でも、首でも、腕でも、足でも、
どこかしら動くよう頑張ってみよう。
そんなことを考えながら
『 ICUから一般病棟へ 』
前回の続きである。
1998年3月12日に、ある病院で点滴を受けた。
いつもと同じ点滴なのに、その時だけ
アナフィラキシー反応なんてあり得ないだろうが、その病院からはそう言われたらしい。
だが、99% 点滴の中身を誤ったとしか考えられない。
不運な医療事故だ。(もちろん、それを証明することは不可能である)
だが、これによって、僕の人生が
まったく別の方に変わってしまったという事実だけは