ねみむん

普段考えていることや怒っていること、読んだ本や観た映画のこと、脳裏に浮かんだことや現実…

ねみむん

普段考えていることや怒っていること、読んだ本や観た映画のこと、脳裏に浮かんだことや現実に加筆した夢想の置き場。

最近の記事

ジョン・ウィリアムズ『ストーナー』を読んだ

誰の人生にでも起こりうる、その後の人生を変えてしまうような、大きな選択。ストーナーは自分がしたその選択の理由を事細かに説明することはできないかもしれないけど、それでもきっと、無意識の領域で自分が直感的に下した判断がきっと自分にとって正しく最良だと信じている。わたしも。 第5章を読み終わって、一旦本を閉じた。 ベッドの上でぼんやりわたしの在り方を想っていると、急に涙が出て止まらなくなった。 人と長い時間いると疲れ切ってしまうし、誰かと話すと自分が間違っているような気がして、

    • リルケ『若き詩人への手紙 若き女性への手紙』

      以下引用 内面的孤独への導き。因習や、ある時点における強い孤独に惑わされることへの非難。職業は硬化してもはや生命とは結ばれていない。献身的に従事する姿勢は自己と社会の境界などなく融合できる大多数が得意とする芸当。 人々とのあいだに共通に生きる余地がないとしたら、事物に近くあるように試みる。そこには夜があり、風があり、動物がある。子供たちもまた、私が子供だった時のままで、悲しくもまた幸福でいる。幼年時代に馳せればいい。大人は何ものでもありません、彼らの尊厳は少しも価値があり

      • カミュ『シーシュポスの神話』を読んだ

        以下引用 存在することに付随する習慣(数多の面倒事)への疑問が浮かび、倦怠が沸き起こり、頭を占める不快な持続。そのはじまりが迎える最期は自殺にも自己再建にもなり得る。どちらにせよ、精神に潜む悪い虫が、内部に少しずつ穴を穿っていき、一度は大部分失わねばならない。 世界も自己も、起こった一つ一つの事象を描き出すことはできる。しかしその相貌の総和を掴むことは叶わない。理性で割り切れない世界と、人が渇望する明晰性が相対する状態が不条理と言える。人間関係において、憎悪が人を密着させ

        • オーレ・トシュテンセン『あるノルウェーの大工の日記』

          以下引用 手を動かす仕事よりもアイデアの方が価値が高いことは、抽象的な理論や理屈を重視する社会では当然の結果だろう。現場での作業が埃っぽくて混沌としているいっぽう、アイデアは純粋で汚れのない感じがする。 以前は許されたことが、今の社会では問題視される。合理化は人々の心に不寛容をもたらし、ルールや権力による圧迫を生む。その結果、皆が70%の能力では足りず100%の能力を発揮することを求められ、労働市場から多くの人がこぼれ落ちていく。個人の能力は千差万別なのだが、それがほとん

        ジョン・ウィリアムズ『ストーナー』を読んだ

          ラース・フォン・トリアー『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を観た

          胸糞映画とか鬱映画とか、そんな言葉で片付けられる映画ではない気がする。先天的な身体の不具合も、あんなこと言わなければ良かったという後悔も、お金さえあればなんてことなかった問題も、通常起こり得ること。その全てが悪い方向に噛み合って進むことも。 自分の身体のことすらままならないのに、利己的な他人や社会規範とも共存しなければならず、その衝突から生じる理不尽にも対応しなければならない。その時に何を守るかを自分で決められることは強さかもしれない。 自分の判断でその後に周囲の人間がど

          ラース・フォン・トリアー『ダンサー・イン・ザ・ダーク』を観た

          スザンヌ・オサリバン『眠りつづける少女たち』を読んだ

          特定の地域で限定的な条件下に置かれている人々に現れる眠り病や発作の症例から、最終的には私たちにも馴染みのあるうつ病やADHDなどの病へと話が展開していく。 生物的に判断可能な疾患とは異なる、数多の身体的不調は、社会と自身の不調和を、他人にも明らかな形で表現する言語かもしれない。生まれてから今日に至る経験や思考の蓄積をすべて把握してくれる人がいれば言葉は額面通り伝わるかもしれないが、もちろんそんなことは不可能で。 自分より他人の苦痛を軽んじることだって仕方がない。私は痛みを

          スザンヌ・オサリバン『眠りつづける少女たち』を読んだ

          ラース・フォン・トリアー『メランコリア』を観た

          1部と2部で対照的な構成。結婚式と世界の終わり。きっとみんな姉と妹のどちらかに感情移入して、感情移入できなかった方に対しては全然理解できないのではと思ったりする。 豪勢なパーティとか他者からの祝福とか、社会的に幸福とされる状況に対して価値を見いだせない人間に結婚式の主役が務まる訳もないし、居場所も見当たらなくて息苦しくて、何かにつけて逃亡してしまう気持ちがなんとなく分かる。 自分と社会の在り方に乖離があって、日々マイナスを積み重ねながらなんとか生き続けるくらいなら、世界が

          ラース・フォン・トリアー『メランコリア』を観た

          原田マハ『ジヴェルニーの食卓』を読んだ

          これまで美術へ興味を持つきっかけがなく生きてきたけど、ホロライブのらでんちゃんの配信で、愛情深く作品に接し、本当に生き生きと楽しそうに美術について語っているのを見て羨ましくなって、少しずつ美術館に足を運ぶようになった。 大阪中之島美術館でモネ展をやっているそうで、せっかくなら少しでも知識を入れてから行った方が楽しいのではないかと思い、手に取ったのが『ジヴェルニーの食卓』。 私の中で今まで天才画家と人間が結びついておらず、天啓みたいに降りてきたものを、天才たちが描いていた、

          原田マハ『ジヴェルニーの食卓』を読んだ

          展示『円空-旅して、彫って、祈って-』

          私はここ半年以上、謎の湿疹に悩まされている。血液検査をでもアレルギー検査でも原因が分からず、先生もお手上げのご様子。 とりあえず、腕の内側から手の甲、ふくらはぎ、胸に背中に腰、全身に広がった赤い湿疹を鎮めてその状態を維持できるように、とのことでステロイドの内服治療をすることになった。 4錠から始めて、1週間ごとに3錠、2錠と減薬していき、内服をやめても皮膚の異常がなくなった状態を維持できれば万々歳。 祈る気持ちで内服を続けるものの、2錠にたどり着いた時点でまた湿疹が復活してし

          展示『円空-旅して、彫って、祈って-』

          対かゆみ

          体調がよくないから皮膚が大騒ぎするのか、皮膚が大騒ぎするから体調もよくなくなるのか。 時折、汗疱(?)が手足に大量発生し、すさまじいかゆみに悩まされる。私の場合は足にできた場合のかゆみが特に耐え難い。 一日の終わり、やっとベッドまでたどり着いて、ふかふかの毛布に潜り込み、抱き枕を抱きしめてまるまる。冷えた足先は冷たい。おとなしくじっとまるまっていると、次第にあたたかさが体の芯からじわっと広がって、足先に到達する。全身のぬくもりは毛布へも伝わり、至高の空間へと到達する。

          川野芽生『Blue』を読んだ

          演劇部に所属するメンバーとの会話、舞台で披露する「人魚姫」の物語、演劇部に所属していたメンバーとの会話でお話が進んでいく。するする読んでしまった。 女の子でありながら男の子の身体で生まれた真砂は、高校生までは女の子として生きていたけど、その後、心に反して身体はみるみる男性に変わっていった。取り巻く状況的にそうならざるを得なかった。 真砂に葉月が必要だったという気付きにはっとした。身体はどうしようもなく男性になってしまって、仕事面や社会の中で生き延びるためにはきっと男性とし

          川野芽生『Blue』を読んだ

          二階堂奥歯『八本脚の蝶』を読んだ

          何度か目にしたことがあって、気になっていたけど今ではないかと後回しにしていた本。先日読んだ、山尾悠子の『迷宮遊覧飛行』に奥歯さんがちらりと出てきて、今だという感じがしたので購入した。 読む前に見た表紙は、漠然と青い蝶にしか見えなかったのに、読み終わってみると、文字の書かれた紙片の蝶に本棚、幻想文学、球体関節人形にぬいぐるみ、形見箱で構成されていてすごい。奥歯さんだ。『八本脚の蝶』という題は「東大寺大仏殿にある花挿しについている青銅の揚羽蝶」に由来しているとのことなので、表紙

          二階堂奥歯『八本脚の蝶』を読んだ

          山尾悠子『飛ぶ孔雀』を読んだ

          山、川、橋、街、人、犬、蛇、孔雀 見覚えのあるものたちなのに、山尾悠子の世界の中だと不思議と現実離れして見える。 叔母に追われるおかっぱの少女、宴と日を運ぶ女子高生と禁忌、山奥のラボに地下温水プール... 各所で各々が存在していて、小さな事件とも言えるような出来事が起こるのを断片的に垣間見ている心地良さと、自らの想像力が追いつかず頭の中で景色を構築できないときの心地悪さがたのしい。小鳥にでもなって生活を覗き見しているようだった。小鳥たちに出てくるような儚く美しい小鳥ではな

          山尾悠子『飛ぶ孔雀』を読んだ

          山尾悠子『迷宮遊覧飛行』を読んだ

          好きな人の好きなものは私もきっと好きなので、知ると触れたくなる性があるものの、あまりに多くのきらきらした宝箱を見せてくださるので目移りに次ぐ目移りで、私にとってはまさに迷宮だった。初めて聞く名前も多く、自分の無知と教養の無さを思い知るばかり。今の積読解消後、読みたい最低限のメモ。山尾悠子の文章は小説しか読んだことがなかったので、読書遍歴や等身大のエッセイを読めるのが珍しく、同じ世界で生きてるんだと実感できる瞬間が不思議で楽しく読んだ。 倉橋由美子『聖少女』 金井美恵子『兎』

          山尾悠子『迷宮遊覧飛行』を読んだ

          夜中のこと

          4時頃にぱっと目が覚めたのは、外から聞こえた大声のせいだろう。 またしても嫌な夢を見ていた。悪夢というほどてはない、嫌な夢。過去に出会った人達が近代的なビルの内部に集められて、歩きに歩いてなにかの講演を聞かされるのだが、周りについて進んでいたのに、私は途中で道を間違えたようで100階から階段を降り続ける羽目になり、やっとの思いで地上に辿り着いたところだった。 夢かと安堵したのも束の間、外から聞こえる怒鳴り声。男女の痴話喧嘩のようだった。女性のことが好きすぎるあまり男性が怒

          夢のこと

          夢を見ればそれは決まって嫌な夢であり、楽しく幸福な夢を見ることはない。 嫌な夢のバリエーションとしては、仕事のこと、遅刻や目的地にいつまでも辿り着けない、虫の発生、あとは疎遠になった人との邂逅。 今日の夢は一番最後のパターンだった。私は高校時代テニス部に所属しており、そこでは男子テニス部と女子テニス部の距離が近く、仲良くしていた。極度の内向型(当時はそんな言葉知らなかった)である私は、遠出とか旅行をぽんぽんと企画するアクティブな彼らについていけず、欠席することも多々あった