47:死にたいと言う人は死なない?
「死にたい」
そう強く思う時が、私にはよくあります。
でも、簡単に口にはできません。なぜなら、世の中には「死にたいと口にする人は死なない」や「意を決した人は黙って行動する」や「死にたいと言う人はかまってちゃん」と言う人が多くいたりしますし、そういった表現に対して、我が意を得たりと多くの"いいね"がついていたりもするからです。
真意を勝手に決めつけられて、
吐き出したくても吐き出せない
といった状況があるからです。もちろん、前提として当人の考え方を否定もしないですし、あくまでも個人的なためらいでしかないんですけどね。ただ「死にたい」というテーマに関係なく他の事柄でもそうですが、命に直結しかねない持論を展開する時に、不必要に
断言
しているのは、少し怖いなと感じてしまうんですよね。
今回は、死にたいと口にする時の気持ちについても触れながら「命を左右する持論で断言する怖さ」を、軽く掘り下げたいなと思います。
毎度しつこく言っていますが、以下は私個人が思う事であって、これが正解とは謳いません。否定や攻撃の意味合いも含みませんし、言葉を選びに選んだ文章にしているつもりです。むしろ、回りくどいほど。
雑記:私の言葉が回りくどい理由|エトナシサラ(にゃんひー作者)|note
そこを了承してくれた方のみ、続きをどうぞ。
01.本当に人生を終わらせていた
命を左右する持論というのは、先ほども言ったような「死にたいと言う人は死なない」といったものの他にも、
などもあると思います。
絶対的な言い方で鵜呑みを誘い、場合によっては取り返しのつかない結果を生み出してしまうような言葉たちです。
「絶対に」という決めつけ。
「悪い」という断定。
「必ず」という無根拠。
「間違いなく」という誇張。
こういう文言が入っている事が少なくないんですよね。
たしかに、説得力は高まりやすい気もしますし、時にはそれくらい強い言葉が必要なシーン「も」あると思います。
ただ、それは万能ではないんですよね。決して、誰にでも言っていいものではない。(ここで「ない」と断言するのは、実際に私自身が言われて傷ついたひとりだからです)
命を左右しかねない持論なら余計に、
軽々しくと思えるほどぽんぽんと
「必ず」「絶対」「断定形」で語っているのが怖いんですよ。どういう根拠でそれを言っているのか、と。
「経験してきたから」というのも「あなたはそうだったかもしれないけど他人は違うかもしれない」わけですからね。
経験則は一例であって、誰もに当てはまるわけではありませんし。統計は統計であって、全員にぴったりではありませんし。
なのに「我は人の心を熟知している」とばかりに断言されると、信じてしまう人も出てきやすいわけで。それが命を左右するものだと、
違って傷つけた時の責任はどう取るのか?
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