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日曜深夜の奇跡。 『夜の虹を架ける 四天王プロレス リングに捧げた過剰な純真』市瀬英俊・著

私は建築家であるが、プロレスも大得意である。

一度皆様に私のプロレスを観せてあげたい、ホントに上手い笑。

さて、まず話はジャンボ鶴田から始めたい。

私ほどのレジェンド・クラスのプロレス・ファンにとって、
ジャンボ鶴田は「ショッパイのシンボル」であった。
因みに、「塩っぱい」という角界→プロレス用語を一般社会に初御披露目したのは、かのナンシー関先生である。

話題は鶴田に戻り。

入団時から全くプロレスを分かっていない鶴田が、

「アレ?やっとプロレスが出来る様になったぞ!」

と、刮目させたのが、

「後の四天王」との抗争である。

三沢、川田、小橋、田上を「コテンパンにやっつける」鶴田は、やっとプロレスになっていた。

かつて「善戦マン」と呼ばれいたころの昭和の鶴田は、昭和のプロレスファンからは全く相手にされていなかった。

が、しかし、四天王を相手に拷問しまくる鶴田は光輝いていた。

つまり、鶴田はベイビーフェイスではなく、ヒールが彼の本質だったのである。

そこに辿り着くまで20年かかった、プロレスの奥深さである。

私は嬉しかった、昭和のプロレスファンとして、
「やっと鶴田が出来上がった!プロレスラーのピークは40代!」と、
心から嬉しかったのである。

そこへ、「鶴田、肝炎!休養へ!」の報。

私は神を呪った。

話を端折るが、鶴田は肝移植手術の為にフィリピンに行き、そこで客死した。

私は絶望した、神も仏も無いのか!と。

しかし、運命とは不可解なものであり、
結果、鶴田の死が「四天王プロレス」を生んだのである。

「四天王プロレス」とは、一言で言えば「笑いながら泣く」プロレスである(竹中直人の「笑いながら怒る人」のサンプリング)。

「あー!死んだ!(花道からタイガースープレックス)」

「あー!おネムむだよ!(川田、場外でマジ失神)」

「あー!マジ怒らせたー!(ハンセンに顔面キック)」

「ぎゃはははは~~!!!(遂にハンセンの居合抜きラリアットが川田に炸裂)」

と、ゲラゲラ笑いながら、我々の眼には熱いものが溢れているのである。

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そんな1990年代後半から2000年代初頭、
「四天王」も「私」も必死に時代を駆け抜けていた(コバケンは同学年)。

建築家として独立してから数年間のこの時代、
平日も休みも関係なく働き続け、
日曜日の夜中まで図面を描き、
やっと仕事を終えるとくたくたになりながらテレビをつける。

そこでは「何故そこまでやる!?」というほど、
常軌を逸した「四天王プロレス」が繰り広げられていた。

口をあんぐりと開けたまま、茫然とテレビ画面に見入る。

しかし、見ているうちに自分の内側からむくむくと力が漲ってくるのが分かった。

「今、この瞬間に命を燃やし尽くす」という壮絶な凄味。

「よし!明日も頑張ろう!」
と、自分自身に語りかける。

そして放送が終わると「本日の放送は終了しました」とテロップが流れ、
ホワイト・ノイズが流れる。

ゆっくりと立ち上がり、テレビを消すと静寂が部屋を支配する。

すでに日付は月曜日に替わっている。

日曜の夜の帳の静けさに、まるで川の流れに河口当たりで少しづつ海水が混ざってくるように少しづつ月曜日の喧騒が混じってくる。

そんな時間が大好きであった。

沖縄は読谷村の隠れ家居酒屋「マジュンリッカ」のカウンターにて







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