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16歳の自分が30歳の自分に書いた恥ずかしい手紙
昨日は母校に行って高校1年生のときのクラスメイトと会い、「30歳の自分へ」というタイムカプセルのような手紙を回収してきた。母校へ向かう電車の中では、一刻も早く葬り去りたい気持ちをそのままnoteに書いた。
学校で受け取ったその“手紙”は、ルーズリーフの1ページを半分に切り取り、封筒風に折り畳んだものだった。友達に見られるのが恥ずかしくて怖くて、その場では開けられなかった。
ようやく手紙を読んだ
書くに値すると信じる気持ち
自分が好きな文章の要素のひとつに、「“書くに値する”という気持ちで書けているか」というのがあると、最近気づいた。
書くに値するという気持ちで書かれた文章からは、書き手の熱と思いが伝わってくる。たとえば、誰かの人生経験についてや愛してやまないものに関する文章を読んだとき。それに心を動かされるのは、「書くに値することなんだ」という、書き手の信念のようなものがあるからじゃなかろうか。
意識的な信念で
大人数よりもふたりで行くご飯が好きなのは
「この人は自分に興味がないんだな」というのが、嫌でもわかってしまう瞬間がある。初めてそれを強く感じたのは、大学生1年生のときだったと思う。入学したての頃、新入生と先輩たちと男女5〜6人で行ったファミレス。目の前に座った男性の先輩は、わたしの隣に座る女性にばかり話しかけ、質問し、その場は盛り上がっていた。自分がいなくても変わらないだろう空気感が悲しくて、存在感を出そうと合いの手をうったり、うまいこと
もっとみるマルイ、OIOI、おいおい
日曜日のお昼すぎ、歩行者天国で賑わう新宿。ぎらぎらと暑い日だった。その日わたしは東京にきて1年経つという友達とランチを食べ終え、マルイを目指していた。
慣れない新宿を頼りない足取りできょろきょろしながら歩く。しばらくして、遠くのビルにマルイの看板ロゴを見つけた。
「あ、あった!」と声を上げるも、友達は「ん?」とまだ見つけられていない様子。「あれ、あの看板の先!」と指差すと、友達が「……おいおい
別々に過ごしてきた時間を経て思い出すあの頃
久しぶりに会った人がお酒を飲んでごきげんに洋楽を口ずさむのを見て、「この人はわたしの知らないところで、わたしの知らない時間を過ごしてきたんだなあ」としみじみ思った。聴いたことのない曲。昔は邦楽ロックの話ばかりしていたのに、いつのまに洋楽を歌えるようになったんだろう。
たまに会う友人とか、知ってると思ってた人が全然知らない人に思える瞬間がたまにあって、そのたびに驚かされる。
人見知りの人は、誰か
ろくでもなくて憎めないひとを思い出した父の日
昨日は父の日だったらしい。スーパーのポップだとか、ニュースで見かけて知った。わたしは父も祖父も亡くなってしまったから、「いつもありがとう」という人もいなくて、自分には関係ないんだなあと、他人事みたいに思った。
でも考えてみたら、生きていたときは生きていたときで「父に感謝なんかできるかよ」という関係性だったから、父の日にはあまり縁がない人生。小学校低学年くらいまでは、「おとうさんいつもありがとう」
もしお金があったら費やしたいと願うなにか
社会人になって迎えた4月から5月にかけての2ヵ月間、わたしはとにかく金欠で、初の給料日となる5月末を心待ちにしていた。
新卒で4月に入社したときのわたしは、なぜか4月末にはお給料をもらえるものと思い込んでいた。でも、実際の給料日は2ヵ月後。つまり、5月末の給料日までの2ヵ月間を、手持ちのお金で過ごす必要に迫られたのだった。
入社前の3月頃、残り少ないバイト代は、大学生最後の春休みを満喫するとい
自分から不幸貯金していくスタンス
特別不幸なことがあったわけではないけれど、前に読んだ「大泉エッセイ」に出てきた“不幸貯金”の話を思い出した。
不幸貯金というのは、いいことのために、よくない出来事を貯金するようなもの。
俳優の大泉洋さんいわく、良いことと悪いことは同じだけあって、だからツイてないことが起きたときは、不幸貯金ができたと思ってニヤリとするらしい。たとえば、行きたいお店がやってなかった、なんてときもそう。不幸貯金がで
主食がたべっ子どうぶつでも愛せる?
味も量も見た目のたのしさも含めて、たべっ子どうぶつが好きだ。数年前だったか、一時期思い出したかのようにたべっ子どうぶつを食べ出してからというもの、定期的にファミリーパックを買っては食べている。
今日の夕ご飯は、玄米ご飯と納豆とスーパーで買ったお刺身にした。お味噌汁もあった方がいいけど、めんどくさがって省略してしまった。いい加減に力を抜いているところが、一人暮らしの夕飯って感じだ。
テレビ番組を
綺麗な部分を描きつつも、他をなかったことにしない文章を
物事の捉え方は、そのひと次第。だから同じ世界を生きているはずなのに、自分じゃない誰かは全く違う側面を見ていることもある。たとえば、いいところに目を向けるのか、悪いところに目を向けるのか。意識の向け方によって、見える世界は大きく違ってくる。
そしてそれは、書く文章にも表れる気がしている。たとえば、この世界の美しさを見せてくれるような文章を「書ける」のは、その美しさに「気づける」から。物事のいやな部
変わり続ける自分を書き残す
過去の自分が書いた文章を読んで前向きになれる日もあれば、「これだから書き残すのは嫌なんだよなあ」とネガティブに思う日もある。
なかでも、いまの自分はこう考えているとか、こう思っているという内容を書いた文章については特にそう。今日、ほんの数日前に書いた文章を読み返したときに受けた印象はネガティブ寄りだった。
「この書き方だと本当に言いたかったこととズレがあるな」と後悔したり、拙い文章に気恥ずかし
好きな人と観た、それだけで高評価
映画のレビューサイトを眺めていたら、ある作品のレビューに「自分はあまりハマらなかったけど、好きな人と観に行けたから高評価です」という内容のコメントを見つけた。映画ってそんな見方もあるのかと、ちょっとした新発見だった。
考えてみれば、映画館で映画を観るということは、上映中以外のあれこれも含んでいる。たとえば、映画館に行くまでの時間や、映画館の座席に座り本編の上映を待つ時間、作品を観終わって非現実か