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飢餓の村で考えたこと 65.66
注意:ここに書いている体験は76年77年のことです。日本でいうと戦後すぐの時代を書いたようなもので現在のバングラデシュとは全く状況が違います。
交渉した人から買うべし
日本では値札があるので値段と品物の必要を考えて購入していた。しかしバングラではどのようにしたらいいのか分からない。そこで初めの頃は例えばきゅうりを買うんだったら4~5人から値段を聞いて回って、一番安い人に最後の値段交渉をし
飢餓の村で考えたこと63.64
買い物
買い物はどうするのか。日々の食材はアハモッド君が近くのバザーで買ってきていた。それ以外の買い物は週1回のギオールのバザーで購入する。買い物で日本と決定的に違うところは、どの品物にも定価が付いていないことだ。
だから全て交渉で値段を決めることになる。相場を知らないと不当に高く売りつけられるかもしれない緊張感がある。それを防ぐルールがある。例えばゴザを買いたい場合、ギオールに着くまでにゴザ
鍵の村で考えたこと60.61.62
モノづくりの原点
私たちはシャプラ村事務所の書類を保管するための木製キャビネットを作ることにした。日本ではキャビネットはどこに行っても簡単に買えるがポイラ村ではそうはいかない。ポイラ村での一か月もかけた木製キャビネット作りをレポートしよう。
私たちはキャビネットを作れる村の大工さんを探し、どんな大きさの木が必要なのかを聞くところから始めた。そして両腕を回してぎりぎり手の届く位の大きさの立
飢餓の村で考えたこと 57.58.59
切り方を変えて
私はアハモッド君に一度だけ料理についてリクエストしたことがある。その頃は雨期だったので村で買える食材はごく限られていた。いつもなすびカレーしか出てこない。毎回調理法も同じのなすびカレーが出てくる。
私はこの村では食えるだけでも贅沢なのにと思いながら、思い切って料理方法の要望を言った。「輪切りのなすびカレーばかりではなく、たまにはなすびを縦切りにしてくれないかな」と。心でこ
飢餓の村で考えたこと 55.56
料理人アハモッド君
村には私ともう一人の日本人駐在員が生活していたが料理作りは村の人を雇っていた。その料理人アハモッド君の年齢は十代前半で、小児麻痺が原因で彼の足は片足が10㎝位短くそして細い。サムスール君が彼を紹介してくれた。
料理人の採用面接ではサムスール君たちも加わってくれた。料理人は毎日近くのバザーで買い出しをし、料理をする。週1回隣町ギオールの大きなバザーに買い出しに我々につい
飢餓の村で考えたこと 53.54
サムスール・ホック君
私がポイラ村に入る前から、シャプラは活動を進めるために村の青年たち(男性2名女性1名)を雇用していた。その中の一人が私よりも一才年上のサムスール君だ。
自分のNGO活動を振り返ってみると、自分がやれたことよりもNGO活動から私が得たものの方が圧倒的に大きいと感じる。特に人との出会いについては、もしNGOの活動をやっていなかったら出会うことがなかったであろう素晴らしい
飢餓の村で考えたこと 51.52
1976~77
まるで江戸時代?
ポイラ村で米を脱穀しているところを見た。庭の土は牛のふんと土を混ぜたもので塗ってある。表面は固くなり埃もしないできれいだ。お米の脱穀はまず刈り取ってきた稲穂を相撲の土俵のように円形に積む。
牛を2頭連れてきて稲穂の部分をぐるぐる回らせながら牛に踏みつけさせる。人はその牛を操って一緒にその土俵型の周りを回っていた。牛が踏みつけることによって脱穀するという
飢餓の村で考えたこと 49.50
学校に行ってないこと
バスの行先を訊ねて嘘をつかれたことで大変な目にあったことがある。当時いた日本人の殆どはこの経験をしていた。バングラでは見かけによって社会的地位を瞬時に判断する人が殆どだった。
男たちは自分が下に見られて不利益を被ることを恐れる。多くの貧しい人たちは家庭が貧しかったために学校に行けていなかった。それでバスの前に表示されている行先が読めない。しかし読めないことを知られた
飢餓の村で考えたこと 47.48
植民地の言語政策
イギリスのインドを含めた植民地の言語政策は次のようなものであった。官吏は英語試験に合格したものに限られた。したがって官吏を養成するために英語で教育を行う大学が作られた。イギリスが支配した地域は広大であったため、実際には数十種類の言語が使われていた。
200年弱も続いたイギリス植民地支配によりこの地域に住む高等教育を受けた人々の共通語は英語となった。支配されていたこの長い
飢餓の村で考えたこと 45.46
劇的効果の抗生物質軟膏とサルファ剤
私たちは病気の時に備えて抗生物質の軟膏とサルファ剤の錠剤をポイラ村に持って行っていた。ある時近所のお母さんが幼い娘の顔が大やけどしたと言ってきた。
事情を聴くと料理をしている時、つまずいた娘が煮えたぎった鍋の中に顔が入ってしまったとのことだった。娘は顔全体が焼けただれ、映画に出てくる四谷怪談のおゆわのような顔になっていた。
私たちは抗生物質の軟膏を患
飢餓の村で考えたこと 43.44
「ありがとう」の言葉
私たちがポイラ村にいた時期の村人は「ありがとう」(ベンガル語でドンノバットという)という言葉を使わなかった。初期の日本人駐在員はポイラ村で村人にドンノバットを連発したので、日本人駐在員のあだ名が「ドンノバット」となってしまっていた。
村の子供たちは私たちをよく「ドンノバット」と呼んだ。ポイラ村での1年以上の滞在中に「ありがとう」の意味でドンノバットを私に使った村人は一人も
飢餓の村で考えたこと 41.42
植民地とは?
私たちの住まいから200m位の近くにイギリス植民地時代の徴税請負人(ベンガル語でザミンダールという)の家がある。村の建物としては異様に見える煉瓦造りの大きく強固な建物だ。そして私たちの住まいの前には道幅4m位の農道があった。この農道は約2㎞先にあるイギリス人の住まい跡と徴税請負人の家をつないでいた。植民地時代はイギリス人が馬でこの道を通って徴税請負人の所へ行っていたとのことだ。
飢餓の村で考えたこと 39.40
全ての栄養をご飯から
村人はどんな食生活をしていたのか。村で一番金がかからない食事とはどんなものか。満腹感が味わえて一番安い食事とは極力おかずを少なくしてごはんばかりを食べることだった。
お米に比べるとカレースパイス(スパイスは単品で買って各家で調合して使っていた)、ジャガイモ、玉ねぎ、しょうがなどはすべて割高だ。だからお金がない時は極限まで米の割合を増やす。
おかずがない場合はごはんと塩や