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【分野別音楽史】#03-3「ミュージカル史」

『分野別音楽史』のシリーズです。
良ければ是非シリーズ通してお読みください。

本シリーズのここまでの記事

#01-1「クラシック史」 (基本編)
#01-2「クラシック史」 (捉えなおし・前編)
#01-3「クラシック史」 (捉えなおし・中編)
#01-4「クラシック史」 (捉えなおし・後編)
#01-5 クラシックと関連したヨーロッパ音楽のもう1つの系譜
#02 「吹奏楽史」
#03-1 イギリスの大衆音楽史・ミュージックホールの系譜
#03-2 アメリカ民謡と劇場音楽・ミンストレルショーの系譜

今回は「ミュージカル史」です。ミュージカルと近いイメージのある音楽劇として「オペラ」が挙げられますが、「オペラ」がクラシック音楽に分類される一方で、「ミュージカル」はクラシックの系譜には入れてもらえず、ポピュラー音楽として扱われます。

ところが、一般に「ポピュラー音楽史」というとロック中心の物語で語られてしまうため、ミュージカルはクラシック史からもポピュラー史からも締め出され、記述されにくい状況となってしまっているのです。ミュージカルの分野は現在まで残る数多くの名曲・スタンダード曲を生みだしているにもかかわらず、従来の音楽史を追うだけでは見えてこない分野なのです。

こういった部分をクラシック史やロック史と並列させてピックアップしていくことが、当noteのスタンスになっています。従来の「クラシック史」のストーリーと照らし合わせながら、視点の移動を体感してもらえれば嬉しいです。


過去記事には クラシック史とポピュラー史を一つにつなげた図解年表をPDFで配布していたり、ジャンルごとではなくジャンルを横断して同時代ごとに記事を書いた「メタ音楽史」の記事シリーズなどもあるので、そちらも良ければチェックしてみてくださいね。



◉ミュージカルにつながる先行芸能

冒頭でミュージカルと近い分野にオペラが挙げられると書きましたが、そもそもミュージカルの源流がオペラにあります。成立は

オペラ → オペレッタ → ミュージカル

という順の流れになります。オペラというのはクラシック音楽に分類されているだけあって、高貴で格式高いイメージが付き纏っていました。そこで、庶民にも気楽に楽しめるように娯楽化していったのが、オペレッタやミュージカルということになります。

ここで、ミュージカルに繋がるまでのいくつかの先行芸能を見ていきます。



・バラッドオペラ

クラシック史で触れたように、オペラは1600年頃にイタリアで誕生した音楽劇で、クラシック音楽史の時代区分で「バロック期」の始まりです。17世紀のあいだに形式が固まっていきますが、従来のオペラというのは王侯や貴族のために作られた贅沢な娯楽でした。18世紀に入ると、従来のバロックオペラよりも市民的な題材を扱ったオペラブッファというスタイルがイタリアから広まり、オペラの新たな主流の形式となります。

同じころイギリスでも、それまで流行っていたイタリアオペラの貴族趣味に対する反動として、イギリスの民謡・流行歌である「バラッド」の題材を基にオペラの形式を皮肉って庶民の群像を戯曲化した風刺劇「バラッド・オペラ」が産まれ、広まっていきました。

ジョン・ゲイ(1685~1732)作のバラッド・オペラ『乞食オペラ(The Beggar's Opera)が1728年にロンドンで初演され、民衆に支持されました。

バラッドオペラは、俗謡のバラッドをもとにしていたため、イタリアオペラ特有の「レチタティーヴォ(説明のための歌)」の部分が無く、代わりに膨大なセリフが存在しました。その点で、こちらがよりミュージカルに近いスタイルだということができます。

これがドイツやオーストリアにも伝わり、「ジングシュピール(歌入り芝居)」として流行します。モーツァルトの『魔笛』は歌とセリフによって構成され、庶民を対象に上演された点で、これもこんにちのミュージカルに近い形式だといえるのですが、これが正当なオペラとして分類されているのは、作曲者がモーツァルトだから、ということでしかないようです。ジングシュピールはオペラの仲間なのかどうか、意見の分かれる部分であるのは、美学的見地において芸術と大衆音楽を分けたがる西洋音楽史において「ドイツの偉大なる古典派の偉人」を格式高く位置付けたい風潮の故の摩擦だといえるのではないでしょうか。




・オペレッタとサヴォイ・オペラ

こちらもクラシック史で触れているように、19世紀後半にパリで発生したオペレッタ。「軽歌劇、小さいオペラ」という意味で、喜劇中心のオペラをより庶民的に楽しめるようにしたものになります。オッフェンバック作曲の「地獄のオルフェ(天国と地獄)」が1858年に初演され、初の本格的オペレッタだとされています。(この作品中の「フレンチ・カンカン」が有名です。)

さらに、オッフェンバックの「美しきエレーヌ(1864)」の大成功によってオペレッタ人気が定着。すぐにオーストリアのウィーンにも伝播し、半世紀にわたり流行します。スッペによる「美しきガラテア(1865)」や「軽騎兵(1866)」、ヨハン・シュトラウスⅡ世による「こうもり(1874)」といった作品のヒットへ続きます。

これがイギリスに渡り、イギリスでは「サヴォイ・オペラ」が流行します。オペラ台本作家のW・S・ギルバートと作曲家のアーサー・サリヴァンとのタッグ「ギルバート&サリヴァン」の作品が代表的なもので、彼らのヒットを受けてロンドンに建設されたサヴォイ劇場で上演されるようになったことから、サヴォイオペラと呼ばれるようになります。彼らの作品がニューヨークへも伝播し、ミュージカルの誕生に大きな影響を与えたと言われています。

もともと、格式高い劇や文学を皮肉って滑稽化したパロディ劇(乞食オペラやオペレッタのこと)を指して「バーレスク」と呼ばれていたそうです。それが19世紀後半にイギリスからアメリカへと伝わり、その文学性を失って、笑いやセクシーなショーとして、卑俗な大人の娯楽と化したものが「バーレスク」の意味となりました。



・ミンストレル・ショーやミュージックホールの系譜

このようなヨーロッパ大陸発祥のオペラ的演劇とは別に、19世紀はイギリスの大衆娯楽場「ミュージックホール」や、アメリカ独自の芸能「ミンストレルショー」が人気を集めたようすを、前々回前回の記事で書きました。

これらが1880年代以降、演し物が多様化し、手品や奇術、腹話術、パントマイム、アクロバットなどの個人芸の集積と化していったのが、イギリスのヴァラエティー・ショーやアメリカのヴォードビルとなります。

ヴォードビルの父と呼ばれるトニー・パスターが1881年にニューヨークに劇場を開き、大当たりしたことを皮切りに、ヴォードビルは1890~1920年頃にかけて最も人気の高い大衆演芸となりました。

初期のミュージカルにはヴォードビルの出身俳優が多数出演していることからもわかるように、ニューヨークでのヴォードビルの隆盛はブロードウェイミュージカルの誕生の重要な基盤となっていたのです。



・レヴュー

フランスでは19世紀後半、レヴューというショーが生まれていました。これはもともと、年の終わりに一年の出来事を回顧レヴューする時事的な風刺劇を指していましたが、やがて歌とダンス、コントなどを組み合わせ、豪華な装置や艶やかな衣装などの多彩な演出で観客を楽しませるショーの意味に転じていきました。20世紀初頭のパリのレヴューは、日本の宝塚歌劇団の生成に影響を与えています。

この「レヴュー」がブロードウェイに渡ったのが1894年で、ヴォードビルと並んで人気になったのですが、ヴォードビルと異なるレヴューの特徴として、「全体を統べるコンセプト」の存在が挙げられます。ここに、雑多な個人芸の寄せ集めから、統一されたスタイルへと変容する兆しが見られます。




◉世紀転換期~ NYのブロードウェイの発達

・オペレッタから初期「ミュージカルコメディ」へ

ニューヨーク市の中心部マンハッタンは、南北がアヴェニュー(番街)、東西がストリート(丁目)と名付けられており、7番街と42丁目の交差点で斜めに交わる通りがブロードウェイです。現在劇場が集中する42丁目から北側には19世紀末は劇場はなく、42丁目より南側でミンストレルショー、ヴォードビル、オペレッタが連日、客を集めていました。42丁目界隈は「テンダーロイン」と呼ばれ、猥雑なショーを見せる一大歓楽街を形成していました。

20世紀に入るとブロードウェイには白熱電球による看板が掲げられます。1898年のボストンに次いでアメリカで二番目の地下鉄がニューヨークに1904年に開業、1910年には現劇場街にも地下鉄が通り、大きく発展します。同1904年、7番街と42丁目の交差点に、ニューヨーク・タイムズ新聞社本社ビルが移転してきたことから、交点の広場が「タイムズ・スクエア」と名付けられ、ブロードウェイの中心地として賑わうようになりました。

さて、19世紀末~20世紀初頭にかけて、ヨーロッパから数多くのオペレッタがブロードウェイへ輸入されています(「フロロドーラ」「メリー・ウィドウ」「チョコレート兵士」など)。

こうした輸入オペレッタと並行して、アメリカ・オリジナルの創作オペレッタ(ライトオペラ)も作られるようになっていき、それらを担ったのがヴィクター・ハーバート(1859~1924)、ルドルフ・フリムル(1879~1972)、シグマンド・ロンバーグ(1887~1951)の3大オペレッタ作曲家でした。3人ともヨーロッパ出身で、クラシック音楽の基礎を学んだあとアメリカに渡って大成しました。


◆アイルランド出身のヴィクター・ハーバートは、ウィーンで“ワルツの王” ヨハン・シュトラウスⅡ世の楽団員を経て、1886年に渡米。メトロポリタン歌劇場管弦楽団の首席チェリストとなった一方、1892年にはギルモアの後を受けてニューヨークの軍楽隊の指揮者となったり、1898年から1902年までピッツバーグ交響楽団の音楽監督に就任したり、1907年には自前のオーケストラを設立するなど、精力的にアメリカの諸楽団の発展に貢献しました。

作品としては、『占い師(1898)』の劇中歌『ジプシーのラブソング』や、『おもちゃの国の子供たち(1903)』の中の『おもちゃの行進曲』が有名です。



◆ルドルフ・フリムルは、プラハでドヴォルザークに師事していました。同地でしばらく演奏家として活動した後、アメリカへと渡って作曲家となります。『蛍(1912)』で成功し、その後『ローズ・マリー(1924)』の『インディアン・ラヴ・コール』などがポピュラーソングとしても世界的ヒットとなりました。

『放浪の王者(1925)』の『バガボンドの唄』は、日本では日本語の歌詞が付けられ『蒲田行進曲』として知られています。

『Song of the Vagabonds = 蒲田行進曲』。クラシカルなオペラとして聴こうと思えばそう聴こえるし、近代的なアメリカンポップス・ジャズと聴こうと思えばそう聴こえるし、昭和臭が漂う田舎臭い歌謡曲として聴こうと思えばそう聴こえる、というところが非常に興味深いと思います。クラシックの系譜であり、アメリカンポップスであり、昭和の歌謡曲であるという、ジャンルの分岐点の直前状態が見えてくる気がします。


◆シグマンド・ロンバーグは、ハンガリー出身で、ウィーンで作曲を学んだ後、アメリカに渡米します。のちのミュージカルの先駆をなす彼の曲は、「ロンバーグ・メロディ」として親しまれました。特に、『ニュー・ムーン』の挿入歌『朝日のごとくさわやかに』『恋人よ我に帰れ』は、ジャズのスタンダード・ナンバーとなって良く知られています。


こうした、ヨーロッパのクラシックルーツのポピュラーオペラの流れに加え、ヴォードビルサイドでは、ヨーロッパ的なオペレッタがアメリカらしいスピード感ある口語的な音楽劇へとシフトしていった傾向がわかる存在として、ジョージ・M・コーハンが登場しました。彼は、歌って踊れる俳優として、さらに作詞・作曲・脚本・演出・興行師としても一人ですべてこなす才能として活躍しました。「ブロードウェイの父」と呼ばれ、タイムズ・スクエアに銅像が立っています。

このころ、コミカルな音楽劇に対して「ミュージカル・コメディ」という言い方が登場したといいます。その後、コメディの枠組みに収まらないものは「ミュージカル・プレイ」と呼んだり、総称して「ミュージカル・シアター」という言い方も出現し、こんにちの「ミュージカル」の語源になったとされます(諸説あり)。



・ティンパンアレーの成立

19世紀後半、ブルジョワ階級の一般家庭にピアノがだんだんと普及していっており、憧れ・ステータスとなっていました。ミンストレルショウの段階から、その上演曲や民衆のヒットソングは家庭で気軽に演奏できる形での「シート・ミュージック」として出版されており、世紀転換期になるとシートミュージックに特化した音楽出版社が数多く誕生します。劇場や娯楽施設で歌われる楽曲を「商品」として管理する新しい形態は、都市の音楽的需要にあわせて勃興した、まったく新しい産業でした。

はじめは各所に乱立していた音楽出版社ですが、次第に一つの地区に場所が集中するようになります。各出版社は自社の楽譜を売り込むため、ドアを開け放ち、朝から晩までピアノでプレゼンテーションをし続けていました。この激しい宣伝合戦は音の洪水を呼び、まるで鍋釜でも叩いているような賑やかな状態を揶揄して、この地域のことを人々は 「ティン・パン・アレー」と呼ぶようになります。いつしか、この地域で誕生するポピュラー音楽そのもののことが「ティン・パン・アレー」と呼ばれるようになりました。

多くの人々に受け入れやすいフォーマットが定まり、工場のように楽曲が大量生産されていく中で、現在までアメリカ国民に唄い継がれる親しみやすい「スタンダード曲」が産まれていった点が、同時代のヨーロッパのクラシック芸術と異なる、この時代のアメリカ大衆音楽の特徴です。

ヨーロッパ音楽の輸入商売であった時代には著作権に無関心だったのが、このような自国のポップソング産業の発達に伴って、著作権法が制定され、1914年にASCAP (American Society of Composers, Authors and Publishers) という著作権管理団体が設立されます。権利的に保護されたビジネスとしてティンパンアレーはますます発達し、ブロードウェイの劇場やハリウッドの映画へとたくさんの音楽が供給されていきました。

ちなみに、先述したライトオペラ作家のヴィクター・ハーバートも、ASCAPの創設メンバーの1人なのでした。



◉第一次大戦後~ ミュージカルの誕生

第一次世界大戦を経て、ヨーロッパは悲惨な状況となってしまいました。クラシック音楽文化を支えてきたヨーロッパのブルジョワ階級は崩壊しました。ヨーロッパで学問的に音楽を追求するエリートたちは「現代音楽」として難解な音楽への進化を進め、聴衆を相手にしなくなってしまいます。

一方で、疲弊したヨーロッパを尻目に漁夫の利を占めた形でアメリカは一気に地位を向上させ、政治的にも経済的にも大発展し、世界の強国と変貌を遂げます。1920年代空前の好景気に見舞われ、社会、芸術、ファッション、花開いた文化の力強さを強調する言葉として「ローリングトゥエンティーズ(狂騒の20年代)」と呼ばれるようになりました。

1920年に施行された禁酒法は、むしろモグリの酒場の繁昌を助長してしまい、劇場街42~55丁目には3200軒もの闇酒場があったとされます。法や言論に対する不信感が高まった一方で、人間の感性が解き放たれた時代、ダンスパーティーが流行し、ナイトクラブが競って作られました。

さて、1910~20年代にかけて、初期ミュージカル界を牽引することとなる、ティンパンアレーの五大作曲家が出揃います。

①アーヴィング・バーリン(1888~1989)
ジェローム・カーン(1885~1945)
ジョージ・ガーシュウィン(1898~1937)
リチャード・ロジャース(1902~1979)
コール・ポーター(1891~1964)

彼らが生産していった、この時代のポピュラーソングは、オペレッタなどのヨーロッパのクラシック的な土台がありながらも、当時アメリカ南部から台頭してきた新しいリズムの要素も取り入れられるようになります。


◆ラグタイム


◆当時のジャズ


◆当時のブルース


19世紀末からアメリカ南部で黒人音楽として発展していったラグタイム~ブルース~ジャズといった音楽は、まだその境界線が未分化の状態でしたが、ティンパンアレーの作家たちは、オペラやオペレッタ、劇場音楽にそれを取り入れながら新ジャンルのポピュラーソングとして流行させたことで、本来の黒人音楽とは違った形ながらも「ジャズ」「ブルース」「ラグタイム」が急速に市民権を得るようになったのです。


①アーヴィング・バーリン

アーヴィング・バーリンは、1911に作曲した『アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド』という楽曲が大流行します。その後、レヴュー『足元にご注意(1914)』でラグタイムを導入したほか、多くのレヴューに楽曲を提供しました。さらに、世界初の長編トーキー映画『ジャズ・シンガー(1927)』の音楽も担当し、大成功しています。



②ジェローム・カーン

ジェローム・カーンは、ニューヨーク生まれのドイツ系移民の家庭でした。ドイツやロンドンで音楽を学び、ヨーロッパの音楽劇から多くの養分を吸収しました。これにより、オペレッタとジャズのテイストのミックスが特徴となります。多くのヒット作を生産していきましたが、ついに、1927年 世界初の“ミュージカル” とされる『ショー・ボート』が上演され、この作品がミュージカル史における「金字塔」となります。厳密には同時期のオペレッタ作品と区別するのは困難だとされますが、ここからが現代ミュージカル史のスタートとなりました。



③ジョージ・ガーシュウィン

ジョージ・ガーシュウィンは、十代後半から楽譜出版社が軒を連ねるティンパンアレーで、新曲をピアノでデモ演奏するソング・プラッガーとして働き、やがて作曲家として頭角を現していきました。『スワニー(1920)』が出世作となり、大ヒットします。当初、ガーシュウィンはアーヴィング・バーリンと同様にもっぱらレビューに楽曲を寄せていましたが、兄の作詞家アイラ・ガーシュウィンと手を組んで、リズミカルなジャズサウンドで彩るミュージカルのスタイルを固めました。特に、『ガール・クレイジー(1930)』では、「アイ・ガット・リズム」「バット・ノット・フォー・ミー」など、多くのスタンダードナンバーを生みました。現在まで、数えきれないほどのジャズミュージシャンやセッションでも演奏されている楽曲です。

ちなみに、そんなガーシュウィンが「ジャズ風の交響曲を書いて欲しい」という依頼を受けて生み出したのが「ラプソディー・イン・ブルー」であり、この楽曲の成功によってクラシック音楽論壇からも評価を受け、西洋音楽史にも名前が残ることとなります。

さらにガーシュウィンはよりクラシカルなオペラを志すようにもなりますが、やはりこの段階のオペラ~オペレッタ~ミュージカルはまだまだ境界線が不確定な状態であり、オペラ『ポーギーとベス』の「サマータイム」もまた、ジャズやポップスのスタンダード曲として残っています。


④リチャード・ロジャース

リチャード・ロジャースは、作詞家のロレンツ・ハートとタッグを組んでヒット曲を量産しました。『最愛の敵(1925)』や『コネチカット・ヤンキー(1927)』などが知られています。(後ほど触れる系譜になりますが、戦後はオスカー・ハマスタインと組んで作風が変化し、さらに『マイ・ファニー・ヴァレンタイン』『サウンド・オブ・ミュージック』『ドレミの歌』などの有名曲を生みだします。)

ロジャースは舞台のトニー賞、映画のアカデミー賞、音楽のグラミー賞、テレビのエミー賞の全てを受賞した最初の人物であり、その頭文字を採ったEGOTの称号を与えられました。さらにピュリツァー賞を受賞し、5賞すべてを受賞した数少ない人物のうちの1人となっています。


⑤コール・ポーター

コール・ポーターは、『パリ(1928)』で頭角を現したのち、ミュージカルや映画音楽の分野でヒット曲を量産し、現在のジャズミュージシャンにもセッションで頻繁に演奏されている、非常に多くのスタンダード・ナンバーを残しました。その一例は、「Night and Day」「All of You」「Love for Sale」「You'd be so nice to come home to」「Begin the Beguine」など多数。


※その他

この時期最も有名とされたミュージカルとしては、ヴィンセント・ユーマンズ作曲の『ノー、ノー、ナネット』が挙げられます。この作品からは、「二人でお茶を」などの楽曲がスタンダード曲になりました。



◉戦後~

・まだまだ続くミュージカル繁栄期

著作権管理団体ASCAPは、ティンパンアレーを中心に当時のヒット曲の周辺を管理していましたが、その徴収方法などから反発が起き、BMIという代替の管理団体が登場します。BMIでは、ASCAPが対象外としていた土着の黒人音楽などを管理することで存在感をあらわしました。

1941年、アメリカでは本格的なテレビ放送が開始され、中産階級の白人ブルジョワ層らのラジオ離れが進みました。1940年代に入り、こうした文化的な分断が加速する一方で、第二次世界大戦終戦後は放送に対する統制も緩まり、独立系のローカル放送局も多く生まれていきました。これによって「ラジオでの音楽文化」の種類が大幅に変わり、これがブルースやカントリーの発達、そしてその後のロックンロール誕生の土台となっていったのでした。

しかし、何も別に突然ブロードウェイの劇場が滅びたわけではもちろん無く、ポピュラー音楽史のトピックとしては疎外されることとなっても、「ミュージカル」としては継続して独自発展していきます。

その中心作家としてはまず、オスカー・ハマスタインレナード・バーンスタインフレデリック・ロウなどが挙げられます。

こういった場で生み出された音楽は、それまでと同じくスタンダード曲としても残っていき、セッション曲の題材としても引用されていきました。また、映画界でも「ミュージカル映画」は一つの人気ジャンルとして継続していきました。

1947年には、演劇界最大の栄誉となる「トニー賞」がスタートし、文化的な地位も高まっていきました。


・1950年代~ 現在まで人気の大ヒット作の登場

50年代に突入すると、正統なクラシック史としてはジョン・ケージの『4分33秒』を筆頭に「音楽そのものの存在を問う前衛表現」の時代となり、一方ではポピュラー音楽史としていよいよ、リズム&ブルースやロックンロールの台頭が一大トピックになります。

このような音楽史に目を向けられがちですが、ミュージカル界でも1950年代には重要な有名作が誕生しています。『マイ・フェア・レディ(1956)』『ウエスト・サイド・ストーリー(1957)』『サウンド・オブ・ミュージック(1959)』などです。これら3作は現在でも人気top3といわれる名作ミュージカルとして歴史に残りました。これらはすぐこのあとに映画化もされ、全世界へ広まっていきました。

さらに、1964年はミュージカルの当たり年とされ、『ファニー・ガール』『ハロー、ドーリー!』『屋根の上のバイオリン弾き』などがヒットしました。



・1960年代末~ ロックミュージカルの登場から転換期へ

60年代に入ると、テレビドラマや映画音楽などもいよいよロックを経た新たな形の「ポップス化」が起こる中、ミュージカル界においても、60年代末に大きな方向性の転換が起こります。ブロードウェイにもロックが持ち込まれたのです。オペレッタをルーツとした従来の「声楽的ミュージカル」に対して、「ロック・ミュージカル」と呼ばれました。1968年の『ヘア』という作品がそのはじまりだとされています。ベトナム戦争やヒッピー文化、反戦などのテーマを扱った作品でした。

その後、『ジーザス・クライスト・スーパースター』などにも引き継がれ、ロックミュージカルが発展していきました。

さて、70年代になると、スティーヴン・シュワルツによる『ゴッド・スペル(1971)』『ピピン(1972)』『マジック・ショー(1974)などが成功しました。また、後に“ブロードウェイの巨匠”と呼ばれるスティーヴン・ソンドハイムの快進撃も始まりました。『カンパニー(1970)』『フォリーズ(1971)』『リトル・ナイト・ミュージック(1973)などのヒット作を放ちました。

その他、『アニー(1977)』の成功と、その劇中歌「トゥモロー」のヒットも70年代のトピックとして挙げられるでしょう。




・80年代、ロンドンミュージカルの席巻

1980年代のミュージカルの情勢として取り上げるべきは、ロンドン・ミュージカルがブロードウェイを席巻したことです。『エヴィータ』を皮切りに、『キャッツ』『スターライト・エクスプレス』『ミー・アンド・マイ・ガール』など、ロンドンで上演されたのちにブロードウェイに輸入された作品が大成功します。さらに、『レ・ミゼラブル』が世界各地で大当たりとなりました。そして、『オペラ座の怪人』『ミス・サイゴン』『サンセット大通り』などもすべて大成功となりました。



・90年代、ディズニーの参入

1966年にウォルト・ディズニーが死去して以来、長い模索期に入っていたディズニー映画ですが、1990年代に、華麗な復活を遂げることとなりました。『リトル・マーメイド(1989)』『美女と野獣(1991)』『アラジン(1992)』『ライオン・キング(1994)』などで、音楽で新しさをアピールすることで人気を取り戻し、新時代を迎えることとなったのです。

そして、ディズニー資本は舞台へも衝撃参入します。『美女と野獣(1994)』『ライオン・キング(1997)』『アイーダ(2000)』などで好調となったのでした。



・2000年代、ジュークボックスミュージカルの流行

00年代に突入すると、特定のアーティストのヒット曲で構成した「ジュークボックス・ミュージカル」が登場し人気を博しました。代表例としては、ABBAの音楽を取り上げた『マンマ・ミーア!』が挙げられます。


・2010年代、ミュージカル映画のヒット

10年代後半に『ララランド』('16)や『グレイテスト・ショーマン』('18)といったミュージカル映画がヒットしたことで、ミュージカルという分野にも再び注目が集まるようになってきました。


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