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ストリートファイター6が生み出した「スポーツ漫画」の物語が大好きだ
最近、ストリートファイター6にメロメロになっている。
その理由なのだが、ゲームが面白いというより、ゲームが作り出している物語が面白いと感じるのだ。
まずCRカップなどと言ったゲームの大会、これがまずプロット的に面白い。
複数人のプレイヤーが集まり、修行の後に本番が始まり、先鋒。中堅。大将など、全ての勝敗が「チームの勝利」へと集約されていく。
だから先鋒戦こそ面白い。先鋒戦が一番盛り上がると
絵と音楽はコラムに比べて「矛盾していない」事が妬ましくてしょうがない
最近絵が描ける人が羨ましくてしょうがない。
その原因について色々考えたけれど、1つこれだなと思う事があった。
それは絵には矛盾が存在しないという事である。
僕はずっと文字を書いてきている。
けれど、言語化にも絶対的な限界がある。正直。
世の中には「ヤバい」や「エモい」と言うだけの人を言語化できない人間として小馬鹿にするケースがある。
でも、そういう人たちと僕は根本的に同じだと考える。
映画で悪役や主人公がバイクを奪って一般人が「あ、俺のバイク!」ってなるシーンでバイクを奪われた人の気持ちを15分ずっと考えて映画の内容を忘れてる
映画とかで、主人公や悪役がバイクとかに乗って「あ、俺のバイク!」ってなるシーンあるじゃないですか。
主人公や悪役が逃げたり追いかける時に、他人の乗り物を勝手に奪うあのシーンです。
特にこのシーンがよくあったのが1980年代のハリウッド映画。この時期は本当にかわいそうなシーンが多くて、当時の警察官モノは「警察だ!」って言って手帳を見せて車を奪うシーン→車がオシャカになる展開が本当に多かった。
「初心者はwikiを読まないとトロール扱いになる対人・協力ゲーム」が苦手
僕は対人ゲームや協力ゲームにおいて「wikiを読まないとトロール扱いになるゲーム」が凄く苦手だ。
wikiを読まないとトロール扱いになるゲームっていうのはだいたい「チュートリアルが基本のゲームシステムの説明だけで駆け引きの説明が全く無い」モノが多い。
駆け引きの説明とは、例えばオーバーウォッチで言うと「キャラクターのアンチピックを使った後出しジャンケンしながらウルトっていうリソースで戦うゲーム
創作するっていう行為自体が呼び込む躁鬱ってあるよね
僕は躁鬱の気がある。
でも、色んな躁鬱のエピソードを読む内に「そうだね」と思うポイントもあれば「そうでもないかな・・・」と思う場面もあった。
それで、僕が色々考えてたどり着いたのが「僕は創作躁鬱」なんじゃないか?という話だった。
「創作躁鬱」って何だよ。って思うので、こっから説明していく。
まず、僕は躁鬱っていう精神体質以前に「創作という行為自体が呼び込む躁鬱」があると思う。
バズるとい
妄想までしかできずアウトプットできねえオタクが負けってこたねえだろ
僕は妄想している。
それは10代の頃からそうだっし、今でもずっと妄想している。
音楽を聴いたら幻覚を見る。幻覚と言っても実際に浮き上がるそれではない。視覚に反映されずマインドのビジョンとして浮き上がる映像。その映像の方に意識を向ける。そういう幻覚。
僕が音楽の評論を諦めているのは、実は音楽って結局自分のビジュアルの妄想がみんな最優先なんでしょ?って思ってたりするのが原因。
みんな結局音楽を
「自分は素晴らしい存在だ」から始まる自己肯定感の罠
自己肯定感という言葉がある。
この言葉は日本では価値がある。人間なら持たねばならぬ財産であると重宝されている。
・・・が、実際にはこの自己肯定感はかなり危うい片足立ちのバランスで成立している事に気をつけなければならない。
例えば「自分は素晴らしい存在だ」という自己肯定感があったとする。
「自分は素晴らしい存在だ」で止まるなら問題は無い。だが、人間は思考を次へ次へと派生する本能を持つ生き物で
キャラクターに説明セリフを言わせつつキャラの生の台詞を引き出すのが異様に上手い「ZONE OF THE ENDERS ANUBIS」の話
最近、PS2ゲームであるANUBISのムービーをよく見る。
まぁ~上手いのだ。説明セリフがとにかく上手い。
僕も短編小説を書いていた時期があるが、この説明セリフというのはとにかく厄介。
観客に情報を伝達する以上、どうしても説明はしなきゃいけんのだが、説明をすると当然ながら不自然になる。
例えば僕なら
バーのシーンで旧友2人が会話をするシーンで「俺達、高校時代はサッカー部でいいトコまで行っ
「できるなら、人はそれをやる」という事を早いタイミングで受け入れるとラクになる
最近「やってしまう他人」への怒りを読む機会が多い。
転売。インプレ稼ぎ。炎上商法。
何にしても「どうしてそんな事をするんだ!」と怒る人は多い。
で、僕が提案したいのは「できるなら、人はそれをやる」という事を早いタイミングで受け入れたほうが良いんじゃないかな。という事です。
人は基本的に、やるべきやらないべきなどは関係なくできるならやります。
犯罪も不適切も、できるなら人はそれを選択してし
10代の僕をたらふく釣ってくれたVIPの人たちありがとう
最近、誹謗中傷とか、開示請求とかなりすましとか、いわゆるインターネットの「やっちまった人」の話をよく聴く。
あれ、毎回ニュースで見るたびに僕が1993年生まれで本当に良かったと思う。
もし僕が2007年生まれだったら、書類送検や開示請求されている自信がある。
恐れがあるとかじゃない。自信がある。
インターネットには「自分にはパワーがある」という意識を持たせやすい。
10代の持つ感情のエネ
僕は「矛盾に殺されないため」に本を読んでいる
この国の教育は諦めない事の美しさの神話性が強い。
少年よ大志を抱けというフレーズにもある通り、若い人間は理想を追いかけて、妥協せずに諦めない事への美しさをとにかく大人から説かれる。
でも、大人というステージに移行すると、今度は真逆の事を言われる。
大人になりなよ。というフレーズは、本質を言えばつまり「妥協で世界を捉えよ」という言葉に置き換える事ができる。
子供の頃はあんなに「諦めるな!」「
体調が悪い時、好きなコンテンツを否定する情報を見ただけで「この情報は私の尊厳を否定した!」と思ってしまう
今の情報社会を生き抜くためには「どの情報を無視して、どの情報を無視しないか」が大事だと思う。
気にするべき事は気にする。気にするべきでない事は気にしない。この立ち回りにこそ人格が現れるし「どの情報に引っかかるか」は人格評価に密接に関わる。
例えば生配信者にしても「そんなコメント拾わなくても・・・」みたいなコメントを拾って不健全状態に陥る配信者の評判は下がる。
情報を無視する事は、ある種の”大