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最近話題の古典廃止論について~高校生の現状に立って考える~

 毎年入試シーズンになってくると必ず上がってくる「古典廃止論」。古典に実用性がない、文法の習得が大変などの理由だそうだ。一方で反対する人々は教養が身についたり、先人たちの考えを理解できるからという意見を述べているそうだ。「古典廃止論」は数年前、いや数十年前から現れてきている論ですが、最近は特にその風当たりが強いでしょう。今回の記事では、私の意見を述べながらそれぞれの主張について見ていきます。
 今回の記事は私が初めて書いたものであり、少々見にくいところや日本語がおかしいところがあります。また、「古文」と「古典」をなるべく区別して文章を書いているつもりですが、所々ごちゃ混ぜになってしまっているかもしれません。どうかご了承ください。
なお、本記事の第4セクションを随時更新しています。時間があれば定期的に見返してくれると嬉しいです。(最終更新: 2024/3/28)


0.私の率直な考え

 語弊を恐れずにはっきり言います。私は古典は削減すべきだと思っています。廃止まで行くにはまだ早いと思いますが、少なくとも現段階の古典教育はやりすぎだと思います。「古典廃止論」に反対する人々の意見を尊重しながら詳しく述べていきます。賛否両論の意見で、ひたすら賛成意見を投げかけてもなにも解決しないので。
 なお、この記事は文字数が29000字程度とかなり頭おかしいことになっていますので、時間がない人は上の目次のセクション番号2番から気になるところだけ読んでもらえたらなと思います。また、気になるとこや意見等ありましたら、コメントしていただけると幸いです。もしかしたらノートに追記するかもしれません。(「♡」ボタンも押してくれると嬉しいです)

1.文部科学省の考え

 まず前提として、私は今、理系の高校二年生です。こう言うと「古典が苦手だから古典を廃止にしたいんだ」とかという意見が上がりますが、そんなことはありません。むしろ共テ模試で漢文満点、古文1ミスとかという高得点を叩き出せているので、その逆と言ってもいいでしょう。古典をしっかりと対策する人が少ないので、その分コスパが良くて助かったりしています。
 話は戻ります。実は、我々の代から「現代文」「古典」という名前の科目が廃止され、代わりに「現代の国語」「言語文化」が導入されるのです。(というかされました)
 「現代の国語」はもちろん現代文学について学びますが、本題の「言語文化」で何を学ぶのだろうか?文部科学省の内容をすこし引用して解説していきます。引用した後はツッコミが入ります。

(1)生涯にわたる社会生活に必要な国語の知識や技能を身に付けるとともに,我が国の言語文化に対する理解を深めることができるようにする。
(2)論理的に考える力や深く共感したり豊かに想像したりする力を伸ばし,他者との関わりの中で伝え合う力を高め,自分の思いや考えを広げたり深めたりすることができるようにする。
(3)言葉がもつ価値への認識を深めるとともに,生涯にわたって読書に親しみ自己を向上させ,我が国の言語文化の担い手としての自覚をもち,言葉を通して他者や社会に関わろうとする態度を養う。

【付録4】【国語編】高等学校学習指導要領(平成30年告示)解説の表より一部加工https://www.mext.go.jp/content/1407196_23_1.pdf

社会生活に必要な知識を身につけられるのか

 文部科学省はあくまでも綺麗事を言っているだけです。
 古典が社会生活に必要になる場合ってどういう場合でしょうか?
大人たちが紫式部について熱談したりするからちゃんと理解できるようにしとけということなのでしょうか?それか仕事のメールで古文が送られてくるからそれに対処できるようにしとけということなのでしょうか?言語文化について理解を深められるのはまだわかりますが、社会での実用性はほとんど皆無なのは間違いないでしょう。
 こんなことを言うと、古文で教養が身につくとか学問は不要でも学ぶべきだと言う人もいると思いますが、その話に対してはまた後で述べようと思っております。

論理的に考える力を養えるのか

 二つ目の意見に関してはどの科目にも言えることですが、古文だけで論理的に考える力を養おうとするのはあまりにも非効率的である気がします。例えば、数学も論理的思考力を養うためのものであり、なんなら現代文や英語もそんな感じでしょう。古典はなんとなく読めるからわからない単語を論理関係から推測したりすることで論理力が鍛えられるという意見も出てくると思いますが、ぶっちゃけ現代文も数学も英語もそうです。↓
 現代文はパズルで、様々なところに散らばっている情報をかき集めて立体的に組み立てて回答を作っています。どこに組み立てるのかについてはまさに因果関係の元となるところでもあり、当然時系列や列挙も入ってきます。これのどこに論理的思考力が鍛えられない要素があるのでしょうか?
 数学は「A=B、B=C、だからA=C」というスタンスを取っていきます。そして何も見えない迷路を自分で松明を作りながらたまにズルして進んでいくものです。入口と出口の場所が分かれば、あとはどこでどの方向に進むのかや、どこでズルをして出口にたどりつくのか、を考えていくだけです。
 英語は古典と同じく文法の習得から始めています。(文部科学省の指示で文法を教えられなくなったという話をたまに聞きますが、大学入試の方向性が変わってないので学校では相変わらず文法をがっつり教えられます。他の学校もそんな感じででしょう)唯一古典と違うところはレベルに合った教材が配られるということですかね…?英語は教材などが他の科目に比べて圧倒的に多いのでちゃんと段階を踏まえて学習していけます。そういった面では古典のほうが優れていることでしょう。けれど、大学入試になると話は別。早慶の入試問題を見てみればわかりますが、知らない単語ばっかりです。早慶に限らずとも、国立や私立の入試問題では必ずと言っていいほど知らない単語やディスコースマーカーが出てきたりします。その部分に限って下線部が引かれてあったり、穴埋め問題とかとしても出てくるので、前後から推測していかなければならない時も多いでしょう。そういった面では、前後から単語や論理関係を推測する能力が鍛えられつつあると私は思います。(そもそも言葉は多義に捉えられる場合が多いので、その都度文脈から読解していくケースがほとんどとなります。)
 ここまで語ってまで古典のほうがより論理力がつくと思っている人がいるのであればそれはそれで構いません。しかし、私は論理力について古典は他の科目でも十分に代用できると思います。だって今の高3は受験勉強で忙しくて古典を勉強する時間がとれないのですから。
 ちなみに引用文の後半についてですが、例えば雑談のネタとして他者に和歌の構造について語るのはさすがに空気を読めてません。歴史とかならまだしも、急に相手に古文を送ったりすることはないでしょう。そんな暇があれば英語の勉強をして日本語の数十倍の情報を収集したり、外国語話者と意見を共有し合ったほうが明らかに有意義です。(教養とかについての話はまた後で触れます)

言葉が持つ価値についての理解を深められるのか

 言葉が持つ価値についての理解を深められるということについてですが、これは当たり前の意見だと私は思っております。「ありがたい」という言葉は「滅多にない」という意味から来ているというのを知っていると、かなりの知識人だと思われるでしょう。ただ、唯一の欠点に関しては、実用性があまりにもなさすぎるということです。今私は高校生ですが、そんな知識を言ったって誰も興味を持ってくれません。ただの雑学マニア、言い換えるとクイズ大会に向いている人のことでしょう。大人の世界はわかりませんが、少なくともそれを知らなかったからといって面接で落とされることはないですし、そもそも知識というのはみんなが知らないからアピールできるものであるので、言葉が持つ価値について理解を深めたから何か素晴らしい事が起きるのかと言うとそうではない気がします。
 そんな中、現代人は読解力に欠けるとよく言われています。(詳しくは第3セクション参考)記述の文章をうまく書けないという人もいます。そんな中で古文単語帳を見て単語を詰め込んでも全く意味がありません。「なかなかなり」という言葉がなぜ「中途半端だ」「かえってよくない」という意味になるのかを知らない方も多いとは思います。「はしたなし」も一緒です。言葉が持つ価値についての理解を本当に深めたいのであれば、まずは現段階の教育の方針から変えてみてはいかがでしょうか?私的には、古典教育を通じて言葉についての理解が深まったというよりかは、古典教育を通して古文単語が頭に詰め込まれてるようになっただけな気がします。
 ちなみに現代人は現代文の読書なんか滅多にしませんし、ましてや古文・漢文を読むわけがありません。せめて現代語訳を読むことになると思いますが、それは古文ではなく現代文を読んでいることになるでしょう。もし古典の内容が素晴らしいと言うのであれば、現代語訳を読んでも良いはずです。それでも、古典教育を通じることによって古文をそのまま読めるから素晴らしいと言いたい人は、ツイッター(X)とかで見かけた古文・漢文の現代語訳・要約Ver.を原文で読むことを強くおすすめします。

言語文化の担い手になれるのか

 先ほどの引用文の(3)についての見解の続きです。言語文化の担い手としての自覚を持つとは言いますが、先人たちの考えを理解するのはまだしも、古典文法についての勉強がメインが現状なのはさすがに趣旨がズレていると思います。そういう授業(勉強)になっているのは、大学入試でそういった文法が聞かれるからです。
 そもそも言語文化の担い手という表現が曖昧でしょう。言語文化の担い手とは何か。我々は先人たちの考えを参考にして、発展すべきなのは理解できます。しかし、わざわざ古文をそのまま読む必要まであるのでしょうか?そしていまこの記事を見ている人々がオリジナルの古文から学んだ教訓について説明できるのでしょうか?少なくとも学校で扱う古文にそんなものは少ないように思えます。受験で受験生を苦しめているくらいですから、むしろ言語文化というものが嫌いになっている可能性すらあります。
 日本人が日本文化を知ることで、日本人としての自覚を持つことができるでしょう。それはもちろん良いことですが、グローバル化の波に乗り遅れてはいけないと思います。外国の文化についての理解がないと、外国人観光客を受け入れることはできませんし、例えば、それにより得られる経済的効果が薄くなれば、デフレが再来する可能性が高いでしょう。(事実、観光客の受け入れが少ない中国では経済的利潤がそこまで多くないのが一因となり、失業率が絶望的で、恒大集団が倒産したりと、経済的に詰みかけていると言っても過言ではない)デフレが再来するから古人の教えを勉強して備えようという話なんか机上の空論にしか過ぎません。北朝鮮等の核保有国の脅威が迫っているから古人が何をしたのかについて勉強しようというのもおかしい話です。(繰り返しますが、教養が身につくという反論のお話はまた後でします)そういった面では、古代について学ぶよりかは現代について学んだほうがよっぽど価値があるでしょう。現代の学問は古代に基づいていますが、理数系において現代の学問を研究するうえで、古文そのままを参考にできたという話は聞いたことがありません。当時の科学者たちにとっての錬金術は、現代社会のものの一つとなっていたでしょう。
 最後に聞きます。日本の言語文化と現代の国際情勢のうち、今の日本にとっていちばん重要なのはどれなのだろうか?多分、この答えが将来の教育の重要な鍵になると思います。
 とはいえ、文部科学省は、綺麗事を言って、(オブラートに包んで言うと)巧みな理由を使って学生に古文を課しているだけだと私は思います。



2.古典必要論者の意見

 先程前置きとして文部科学省の文章を使って解説をしましたが、我々一般人がどう思っているのかについてはまた違います。ネット上で見られる、古典廃止論含めた各々の意見を以下箇条書きにしてわかりやすくまとめてみました。

古典廃止論者の主張

  1. 社会にとっての利益がない。

  2. 古典以外に重要な科目がある。

  3. 内容以外の文法を学ぶことに意義がない。

  4. 原文をそのまま読めるようになる必要はない。

古典必要論者の主張

  1. 大学で百年以上前の文章を読むときに使う。

  2. 教養を身につくことができる。

  3. 古典文法も日本語の文化の一部である

  4. 日本人としてのアイデンティティが確立される。

 双方とも理解できる意見があります。上記以外にも古典文学は学校で強制しないとやらないから必修にすべきだと言う人がいます。確かに私も学校でやっていなければ一生オリジナルの古文を読む機会がなかったかもしれません。 そんなことはさておき、正直言って、どちらかの意見が完全に合っていて、または完全に間違っているようなことはないと思います。現在の古典廃止論や古典必要論全てに通用する話ですが、どの意見も筋が通っています。だから私は、双方の意見を天秤にかけて述べていこうと思います。ここからが本題です。


教養を身につけられる

 「古典廃止論」に対する反論の代表例としてこれ(↑)が有名だろう。確かに「ありがたい」の由来を知っていればその分トリビアが一つ増えることになるだろう。もっと一般化して語弊を恐れずに言うのであれば、古文に生きる際の教訓が乗っているから、それを参考にすれば良いということでしょう。何か困難があれば、先人たちの教えが役に立つかもしれない、ということでもあります。
 ところで、古典を他人と話していて楽しいなと思うことは滅多にありません。紫式部について熱く語ることはあるのでしょうか?古典の助詞の働きなんか言うまでもないです。つまり、他人とのコミュニケーションではあまり役に立たないだろうと私は思います。もしかしたらダジャレとかを言う時に使えるかもしれませんが、その場合、相手がある程度古典を理解しているという前提が必要となります。もし話のネタを作りたいのであれば、相手も理解できるような日常の出来事のほうが良いでしょう。古典である必要性があまりわかりません。

 そもそも「教養」とは何でしょうか?「教養」という言葉はあまりにも万能です。「やばい」「すごい」並みとは行かなくでも、学校でなんらかの科目を廃止しようと言う意見を反論するときによく見かけます。「教養」という言葉を見かけるたびにその人に意味や身近な具体例を聞きたいくらいです。ですので、「教養」という言葉を広辞苑で引いてみました。

(1)教え育てること
(2)単なる学殖・多識とは異なり、一定の文化理想を体得し、それによって個人が身につけた創造的な理解力や知識。その内容は時代や民族の文化理念の変遷に応じて異なる。

広辞苑より

 めっちゃわかりにくい!と思ったそこのあなた。"現代の国語"を抜き出しているだけですよ。
 
1番の説明があまりにも抽象的でストレートすぎるので、2番を見ていきましょう。ある程度噛み砕いて説明するとこうなります。

 「普通の勉強ではなく、ある程度現在の環境(その環境の背景含む)に似合った『活用可能な知識』を理解する能力、およびその知識そのもの。」

 ネット上の教養についての記事をまとめて大雑把に言えば、「現代の日本文化を含めた、自分が何か考えるときに役に立つもの」のことでしょう。

少々長いですが、教養の例についてだいぶわかりやすいものがあったので引用しておきます。

しかし歴史の教養は、そこからもう一歩踏み込んだところにあります。そのできごとが世の中をどう変えたのか、歴史の教訓を後世にどう生かすのか。そんなふうに考えを深めていくことで、教養が身につくのです。

○○戦争が起きたのは××年という知識から踏み込んで、「なぜ戦争が起きるのか」「戦争をなくすための取り組みはどうなっているのか」を考える。国連ではこういう決まりを作ったらしい、など。

日本が戦争に巻き込まれることはないのだろうか。沖縄にたくさんアメリカ軍基地があるのはなぜだろう? テレビで言ってる北方領土って何だ? いろいろなことがつながり、知りたいことが増えてきます。

差別はいけないと誰もが思っているけれど、差別はなくならない。なぜなんだろう。考えを深める中で、差別が生まれた経緯を知り、人間の愚かさ・未熟さに気づくこともあるでしょう。そうした発見は、自身が差別をしない、他の人を大切に扱うふるまいに通じるはずです。

歴史を深く掘り下げていくと、「今」は「過去」のできごとの上に成り立っていることがわかってきます。そして、自分もまた「今」をよりよくするための社会の一員だと理解する。それこそが教養だと思うのです。

池上彰さんが考える「教養」がある人とない人の差(東洋経済オンライン)
https://toyokeizai.net/articles/-/679806? (2024/3/16閲覧) 

 なるほど、確かに教養は重要だ。過去にこういう出来事があったから、このままではまずいなとか。こういうのを考えられる能力が教養だな。
 では質問です。古文から学べる教養とは何でしょうか?教養が文化や時代によって違うということは、おそらくTPO(時間、場所、場面)に基づいた、そのときその場所その状況に応じてすぐに活用できる知識のことでしょう。
 まず、古典を話のネタにするのは相手もある程度それを理解していなければなりません。つまり、お互いに教養のある状態です。しかしそのような状況を私は見かけたことがありません。ならば別の意味での教養でしょう。
 多くの人は多分これ(↓)を言いたいのだと思います。他の反論と意見が似ているので次の段落にまとめます。

古典は今生きる人の教訓(基盤)となる

「今起きている出来事で、古典をある程度参考にできるだろう。」
「今起きている出来事は、昔が原因となることもあるだろう。」

 古典を通すことによって教養が身につくと謳っている人にとっての"教養"はこれらの意味でしょうか?(違っていればすみません。)

 確かに古典は今生きる人の指針になります。古文ではないですが、私は図書館から「老子」と「孫子の兵法」を借りて読んだことがあります。確かに古典を読むことは勉強になったし、「孫子の兵法」については兵法について語りながら戦争があまりよろしくないということを強調している面白い本ですので、そういった意味では読む価値が十分にあるのは認めます。
 でも、原文で読む必要はあるのでしょうか?私はないと思います。効率化という面において最悪だからです。原文でなければありのままの意味が取れないと言う人もいますが、それはどうでしょうか?
 数学の歴史は数千年前まで遡ります。でもユークリッド幾何学の原文を読んだ方はこの中にいらっしゃいますでしょうか?世界史においてもそうでしょう。もし世界史を詳しく知りたければ古代英語を勉強すればいいと思います。日本史も同じです。794年に平安京に遷都されたのが書かれてある史料を読んだことはあるのか。だいぶ極端な例ですが、古文の原文を読まなくても(なんなら現代語訳すら読んでない)数学、世界史、日本史の知識が身につきます。○○について質問されたとき、その歴史的背景を他人に説明することも基本的にはできるでしょう。(詰め込み教育になるとまた別の話ですが、少なくとも外国人に日本の歴史を質問されたからといって原文を訳しながら説明する人はあまりいないと思います)
 この流れの中に古典勉強が入れる隙間はあるのでしょうか?いやほとんどの人、特に受験生とってそんな時間はないでしょう。(反語)だって、古典を勉強しなくてもそうなった歴史的背景は説明できるのですから。
 実際、私は「孫子の兵法」を原文と現代語訳を照らし合わせながら見ていました。もちろん原文には原文としての意味があるのでちゃんと見ていますが、原文は現代語訳の補助の役割にしか過ぎないと私は思っています。
 
原文のままの意味が取れないと意味がないと言う人は、今使っているスマホの機能や仕組みを十分に理解して活用してほしいなと思います。もしくは、いまこのnoteのページ情報(html)を同時に見たほうが良いでしょう。だって、どれが<h2>(見出し)でどれが<br>(改行)でどれが<b>(太字)なのかがよりわかりやすく表示されているので、このサイトの本当の意味がより捉えられやすくなるのですから。
 話が逸れましたが、古典をわざわざ勉強する必要性は薄いと思います。教養がどうとか言う人もいると思いますが、このまま論を展開していくと古典で学べる教養のほうが少ないということになります。個人的にはプログラミング的思考力(別の意味で言うと論理的思考力。今年から情報という教科が新設されたが、情報においてのプログラミングは暗記がメインではなく、どちらかというと論理的思考力のほうが重要。詳しくは試作問題(大学入試センター)を解いてみればわかります)のほうが大事だと思いますがいかがでしょうか?

 古典常識が現代人の基盤になっているという意見もありますが、これは間違いないと私は思います。先人たちに感謝しても良いレベルでしょう(?)ただ、わざわざ古典を読むことに関して私は納得いきません。もし古典を読むことを通して先人たち全員に感謝したいのであれば、平安時代から明治時代までの1200年以上の文章をまんべんなく読んでほしいくらいです。しかし、もちろんそんなに数多くの書物を幅広く読めるわけがありません。読むとしても自分の気になるところだけになるでしょうか。でもそうすると教養が偏ってしまいますね。どうしましょう。
 現代の社会の基盤を知ることは確かに大切です。どのような歴史があって今に至るのかを知ることで、同じ過ちを繰り返さないように、または同じ過ちをどう解決していくとかを探ることはできるでしょう。しかし、それは歴史という分野でよくないですか?先人たちがそれについてどう思ったとかも含めて歴史ですし、我々一般人がゼロから古文を学んでいく必要性はありません。文学部等に所属していれば古文の読解が必要となってくるかもしれませんが、それ以外の学部については別に古文の勉強はいらないと思います。そもそも歴史そのものが現代語訳ですし、我々は現代語訳を見て理解しています。ここに古典が入る隙間などないのです。
 こういうことを言うと、古典にしかない情報もあると言うような人もいますが、果たしてそのような情報はどのくらいあるのでしょうか?「老子」「孫氏の兵法」「源氏物語」「竹取物語」のような有名な本はすべて現代語訳されていて、古典原文そのものを読む必要はありません。むしろ、我々一般人は有名でない書物をあまり多く知らないはずです。我々が知っている本は基本的に有名なものですから。文学部とかであればもちろん話は別です。だが、一般の人が読みたいと思うような書物は大抵現代語訳されているのです。だから、古文を勉強する必要はあまりないと私は思います。
ここまでの2つのミニセクションをまとめるとこのようになります。

確かに古典の勉強で教養が身につくかもしれないが、それを原文のまま読む必要はない。原文をそのまま読むのは非効率的であり、そんな事を言ったら他の文学にも当てはまってきりがない。現代語訳だけで対応するのが精一杯だ。我々一般人の知るような古文は現代語訳されていて、ゼロから訳す必要はない。

Twitter(X)の文字数制限の140文字ぴったりで書いてみました。いかがでしょうか。

P.S. 古代の人の考えそのものが重要だと言っている人がいますが、そういった人に対しては具体的に説明してほしいなと思っております。当時の男女の立場の価値観、恋愛の価値観、なんなら摂関政治の価値観を現代に持ち込むのはさすがに…ですので、どの点が参考になるのかを教えてほしいなと思ってたりします…

原文のまま読まないと意味がない

 上に140文字で要約してある通り、先程のミニセクション(?)では、古文勉強を通して教養を身につけられることや、我々現代人は古人の教えに基づいているといった「古典廃止論」についての反論の反論を書きました。その際にまた新たな反論として原文のまま読まないと意味がない、あるいは意味が薄くなるといったのをついで取り上げましたが、果たしてどうでしょう。
 繰り返しになりますが、そう言っている人には今使っているスマホの機能や仕組みを十分に理解して活用してほしいなと思います。そうすれば、スマホの性能や理論上の限界についてもっと理解できるはずです。もしくは、いまこのnoteとそのページ情報(html)を同時に見たほうが良いでしょう。だって、どれが<h2>(見出し)でどれが<br>(改行)でどれが<b>なのかがよりわかりやすく表示されていて、このサイトの"本当の意味"というものがわかるのですから。
 (古典は日本人のアイデンティティの一部であるという意見もありますが、その意見は後で解説するので一旦置いておきます。)
 日本人は歴史から見るに、他の文化を改造して発展していった部分が大きいと言われています。インドにカレーライスはありませんし、中国のラーメンと日本のラーメンは異なります。歴史においてだと、京都の道路が碁盤みたいなのは、中国の都の長安をならったというのが有名ですね。では、みなさんは本場のカレーのあるインドの文学を読んだことはありますか?中国文学もそうです。当時のインドのカレーに関する考え方がわからないと、日本のカレーの改造について当時の人がどう思ったのかについてわかりません。中国が京都の道路についてどう思ったのかについて原文で読まないと意味がわからないと思います。ましてや世界史だってそうでしょう。当時のイギリスが産業革命を起こしたきっかけについて原文で読んだほうが科学の発展に繋がりますし、当時のユダヤ人がアラブ人についてどう思ったのかについて原文で読んだほうが現在のガザ紛争についての理解が深まるのではないでしょうか?
 このように、拡大解釈になってしまった部分もありますが、原文を読めというのであれば、すべて原文をよめばよいということにもなってきりがなくなるでしょう。皆さんの中に794年に平安京に遷都されたのが書かれてある史料を読んだことのある人はいるのか。百歩譲って、和歌みたいな原文でないと裏の意味が伝わらないものならまだわかりますが、普通の古文については原文を読む意味はあまりないと思われます。古文は完全削除とまで行かなくても、なんらかの方法で削減すべきでしょう。

古文は日本人のアイデンティティにもなる

 これについて第1セクションで少々触れましたが、もう少し具体的に説明していこうとおもいます。
 日本人が日本文化を知ることで、日本人としての自覚を持つことができるでしょう。それはもちろん良いことですが、私はグローバル化の波に乗り遅れてはいけないと思います。日本の文化はもちろん大切ですし、日本人という自覚を持てば、日本人としての誇りを持てるでしょう。しかし、グローバル化が進むに連れて、我々は取り残されつつあると思います。どういうことか。年功序列制を全て海外流の成果主義制にしろとは言いません。しかし、ところどころ成果主義制にしておかないと、窓際社員のように生産性が下がるのは目に見えているでしょう。外国の文化についての理解がないと、外国人観光客を受け入れることはできませんし、例えばそれにより得られる経済的効果が薄まれば、デフレが再来する可能性が高いでしょう。(事実、観光客の受け入れの少ない中国では経済的利潤がそこまで多くないのが一因となって、失業率が絶望的になり、恒大集団の倒産等で、経済的に詰みかけていると言っても過言ではない)
 「そんなことはどうでもいい。良くも悪くも日本の教育なので、自国民としてのアイデンティティを身につける必要がある」とおっしゃる方もいると思います。
 もっと言おう。我々受験生を苦しめているのは何か。入試ですね。日本の学生のおよそ半数が大学に行くと言われています。ではそんな受験生が一番苦戦するのは何か。学生全員にアンケートとってみればわかりますが、必ずと言っていいほど古文・漢文が上位に並びます。そうすると、自国の文化である古文・(漢文)が自国民を苦戦させているというおかしな構図ができるのです。そんな古典教育によって学生が日本好きになるはずがありません。ましてや日本人としてのアイデンティティを身につけることができるのでしょうか?残るのは日本の大学入試に対する恨みです。
 とはいえ、そんな恨みを言ってしまうと、日本の社会に対する恨みにもなるので同調圧力の強い社会ではそんなことを言えない人も多いと思います。でも、実際に日本の受験戦争に疲れて海外大受験をしようとする若者もたくさんでているのもデータに現れています。現段階の古典教育が日本人にとって有意義だといつから勘違いしているのでしょうか。(ただ、そのような人の殆どは課外活動や小論文等の面において不十分なので、有名な大学に行けないことが多かったりしますが…)
 では古文・漢文入試問題として出さなければ良いのか。それも解決案のうちの一つでしょう。入試以外の「古典」で挫折・留年する人はいるものの、少人数です。もし古文・漢文を学生に楽しく読ませたいのであれば、強制して読ませるのではなく、自ら探求して読み進ませる必要があるでしょう。今の学生の「古典嫌い」を排除していかなければ、解決の糸口が見えるはずもありません。
 
 頭の固い人もいらっしゃいますので、より極端な例で説明しましょう。
ー昔々、イスラエルという国が存在していました。イスラエルに住んでいたのはユダヤ人です。しかし、戦争によってユダヤ人はイスラエルの地から追い出されてしまいました。それから二千年もの間、ユダヤ人はそれぞれの土地で暮らし、虐殺を受けながらもイスラエルを再建したのであった。ー
 これだけ聞くと、素晴らしい話のように聞こえますが、果たしてそうでしょうか?
 極論を言っちゃいます。ユダヤ人やアラブ人という自覚が二千年後も続いているから、中東戦争やガザ紛争が起きているのでは無かろうか?
 我々は数ヶ月前の出来事でケンカしても、数十年も経てば殆ど忘れているはずです。今我々が二千年前のことで揉めているという事実が非常にバカバカしく思えてきます。
 今の世の中の紛争のおよそ9割は民族によるものです。イスラエルが核を作った(と言われている)のは、アラブ人に対抗するためでありますし、北朝鮮が核を作ったのは同じ民族の韓国と統一しようと思ったからでもあります。十字軍の派遣、ルワンダ内戦、スリランカ内戦。民族が原因で起こる紛争は今も多く、紛争のない地域では差別等を受けたりと、社会問題になっているのは間違いないでしょう。
 もちろん日本人としてのアイデンティティも必要ですが、これ以上戦争を繰り返さないためにも、他文化を理解できる力も我々に必要だと思います。民族をなくすのは無理に近いでしょう。民族が一つにまとまることも滅多にないです。国際平和を支えていくためにはやはり多様性を認める事が重要でしょう。
 そんなことなんか無理!と思うかもしれませんが、実はイスラエルで多民族共存がうまくいった時代があったのをご存知でしょうか?イギリスが、フランス・アラブ人・ユダヤ人に対して三枚舌外交をしたのは有名ですが、実は一時期だけイスラエル(パレスチナ)がフランス統治のもとで、アラブ人とユダヤ人が仲良く暮らしていたみたいです。しかし、ナチスドイツが行ったユダヤ人の集団虐殺(ジェノサイド/ホロ・コースト)によって、両民族の均衡が崩れてしまったようです。
 日本は島国なのでそういう概念が薄いと思いますが、グローバル化が進んでいる以上、外国人観光客や移民が多く来ております。YouTube登録者数1億人Pewdiepieさんも日本に移住してくるほどです。そして我々はGAFA(Google, Apple, Facebook, Amazon)といった海外のサービスを使っている以上、そしてデフレから脱却しなければいけない以上、外国人を全く受け入れない手段はありません。(もちろん全ての外国人を受け入れるべきとは言ってませんが)海外企業は他民族に冷たい国家に進出しようと思いませんから。
 さて、この中に他文化について理解できる人はどのくらいいるのでしょうか?この前、「こんな民族を日本に受け入れたくない」という内容でイスラム人が砂漠で体に砂を浴びてる動画を載せたツイートを見かけました。実はその動画はイスラム教での礼拝の前を撮ったもので、礼拝の前に身を水で清める必要があるのですが、砂漠地帯等で水がないときは清潔な砂を用いても良いとされているのです。日本で水が手に入らないことなんかめったにないので、イスラム人が日本に来てそういうことをする理由がありません。
 そういったツイートを見て、自分でその動画のきっかけを調べていかなければ、イスラム人に対するただの理不尽な差別になりませんか?
 他文化の"当たり前"と自文化の"当たり前"は違って当然なので、他文化を自分たちの価値観で否定するのは真の意味で教養が抜け落ちていると私は思います。(ここでの教養は、他人と違って当たり前だという知識を応用させるという意味です)
 もちろん、日本人としてのアイデンティティを程よく身につけるのは大事でしょう。集団に属することも大切です。しかし、他の集団が劣っているということはないはずです。古典教育で日本が素晴らしいと思うようになるのはいいことですが、そのせいで他文化が劣っているように見えてしまうのは違います。
 また、日本が素晴らしいと信じ込みすぎるのは危険だと思います。政府の政策を信じすぎてしまうと、異議を唱えることが難しくなり、結局独裁国家のようになるでしょう。事実、中国も古典教育に力を入れており、日本と同じように高考(共通テストのようなもの)を課しています。しかし、中国の政治体制はどうなんでしょうか???
 各々が意見を持ち、各々の意見を尊重し合うのが一番ベストだと思います。そういった意味では、古典教育以外にも力を入れていったほうが良いでしょう。

 追記:外国人に自国の文化を伝える際に日本人としてのアイデンティティが必要だと言う人もいます。確かにそうかも知れませんが、現在の古文教育はやりすぎだと私は思っています。外国人に、自国の歴史から学べない部分の書かれてある古文からエッセンスを抽出して、自国文化の素晴らしさを説明できるのは相当素晴らしいと思います。できるようになるのであればの話ですが。

大学で古文を使う場合もある

 まず、古文を扱うのはどの学部でしょうか?大学によって異なると思いますが、最近は教養学部にも古文という科目がないと聞きます。(選択科目としてあるかもしれない)主に古典を扱う学部はおそらく文学部くらいでしょう。もしそうであれば、理系のみが数IIIを習うように、文系のみが言語文化や古典探求といった科目を習えば良いと私は思っております。
 ところで、最近は大学に入ってもちゃんと勉強しないと卒業できなくなっているようです。特に理系はレポートの提出が多く、あまり遊べないという実情をよく聞きます。高校や大学での理系の負担を減らすためにも、高校で古文を削減し、必要な人は大学で学ぶようにすると文理のバランスが取れてくると思います。

学問は不要でも構わない

 古文は役に立たないとつぶやく人も多いが、その反論として学問は役に立っていなくても良いと言う人も多いだろう。
 僕は、そういう人にモールス信号を勉強させてもいいかなと思っている。どこで役に立つのかはわからないけど、英語で一番使われているアルファベットの「E」がモールス信号で「・」と表されているのはとにかく趣が深そうだ。しかも「・」と「ー」で表されているから、実質2進数だ。高校のプログラミングの勉強として全員モールス信号を暗記しておくべきだろう。
 エスペラント(語)もなかなか良い選択肢である。誰もが覚えやすいように作られた人工言語で、国際共通語の一候補となっていてもおかしくない。英語みたいに直接役には立たないけど、文法の勉強にもなるし、言語の例外性についても学べるようになるだろう。(モールス信号は学問かどうかといわれると微妙なので、代わりにエスペラントで説明してみました)

実際のモールス信号
Page 96 of Radio Receiving for Beginners. Rhey T. Snodgrass and Victor F. Camp (copyright 1922 by The MacMillan Company, New York) より

 多分、学問が不要でも構わない、いわゆる「学問不要論」を支持する人は、「学んだ学問がどこかで役に立つだろう」と思っているでしょう。「自分が何か考えるときに役に立つもの」という意味での教養と似ています。
 しかし、先程モールス信号とエスペラントの汎用性について熱く語りましたが、誰も勉強しようと思ってくれていません。おかしい。学んだ学問はどこかで役に立つはずなのに…。
 教養を学べるという反論については上のほうで意見を述べました。学問不要論の話になると、もう一つか二つ申し上げたいことがございます。

 教員の労働環境はブラックだと言われています。一方、学生も学生で受験に忙しいです。授業科目を増やせば、双方ともに仕事や勉強にやりがいを感じられるようになるのか。いやなるはずがない。労働環境を改善するためにも、授業効率を増やして代わりに授業数を減らしてもいいようにしたほうが良いと思います。
 また、ご存知の通り、日本の予算は限られています。予算を全額モールス信号に投入すれば何らかの利益が生まれることでしょう。…そんなわけはないですね。結局の所、学問が不要でも構わないと言う人は、社会の現状を見ていないと思います。モールス信号でなくても、学生全員にエスペラントを身に着けさせるのもなかなか予算がかかるでしょう。そんなことに我々の税金をかけたいと思える人は中々いません。

 ちなみに、学問不要論はいずれ学問"全部"不要になるという論もあります。要するに、「古典が役に立たないなら、数学も物理も歴史も役に立たないだろ!」ということですね。
 さきほど、そういう人にはモールス信号やエスペラントを勉強させるべきだと言いました。しかし、逆方向に行ってしまってもおかしいことになります。
 私的には、真ん中に舵を取るべきです。社会にとって有益だと言えるレベルの人材を育成することを目的とするのが学校ですから、育成する学生は利益を生み出すようにならなければなりません。(当たり前のことすぎて小泉構文になってしまいました)もっと基準をはっきりさせるのであれば、大学で追いついていける程度の学力があれば、それで十分だと私は思います。いや、なんなら研究機関で働けるような学力に最終的になってくれればそれでいいと思います。また、そのような学力まで身につかなくとも、思考力、判断力、表現力のような人間特有の力を身に着ければ少なくともAIには負けません。(『AI VS 教科書が読めない子どもたち』(荒井紀子著)参考)
 今、人によって違うものの、最終的なゴールだといえるものを置いてみました。大学でも4年間勉強ができるとして、全員が通う中学・高校の青春に費やすべき勉強は結局何になるのでしょうか?青春=毎日12時間勉強とかよくよく考えてみればおかしいことです。彼らは締切寸前のレポートを書いているのでしょうか?それとも、休日出勤が日常のブラック企業に勤めているのでしょうか?有休すら取らせてくれません。働き方改革の波とは何でしょうか?(←おかげさまで教員もブラック)自らの理想を置いてもらって議論してほしいものです。そういう議論ができるのが青春時代を過ごしてきた大人じゃないですか。

東京大学のHP

 そんなこんなで色々話しましたが、実は東京大学のHPにこのようなことが載ってありました。

国語の入試問題は、「自国の歴史や文化に深い理解を示す」人材の育成という東京大学の教育理念に基づいて、高等学校までに培った国語の総合力を測ることを目的とし、文系・理系を問わず、現代文・古文・漢文という三分野すべてから出題されます。本学の教育・研究のすべてにわたって国語の能力が基盤となっていることは言をまちませんが、特に古典を必須としているのは、日本文化の歴史的形成への自覚を促し、真の教養を涵養するには古典が不可欠であると考えるからです。このような観点から、問題文は論旨明快でありつつ、滋味深い、品格ある文章を厳選しています。学生が高等学校までの学習によって習得したものを基盤にしつつ、それに留まらず、自己の体験総体を媒介に考えることを求めているからです。本学に入学しようとする皆さんは、総合的な国語力を養うよう心掛けてください。

高等学校段階までの学習で身につけてほしいこと(東京大学HPより)
https://www.u-tokyo.ac.jp/ja/admissions/undergraduate/e01_01_18.html  (2024/3/16閲覧) 

「教養」。教養という言葉は本当にどこにでも使われています。非常に万能な言葉です。そして、教養は時代とともに変化するのは上でお伝えしたとおりです。古文を勉強すれば教養が身につくという意見に対しての反論も上の方に載せてあります。(上までスクロールして読むのがめんどくさい人向けの要約:古文で教養が身につくのかもしれないが、原文のまま読む必要があるのか。そして現代語訳だと読む価値が薄いと言う人もいますが、それを言い出したらきりがなくなるだろうという反論でした)
 そして次に目に止まったのが『「自国の歴史や文化に深い理解を示す」人材の育成』という部分です。これは東京大学のアドミッション・ポリシーの内容で、おそらく何らかの意図があってそう書いているでしょう。大学の入試問題は基本的にアドミッション・ポリシーを元に作ってあるので、古文・漢文を出すのは当然の流れでしょう。(東大の入試は幅広い分野の問題を出しながら情報処理能力の高い人、いわゆる何でもできる人を集める傾向にあるので、おそらくそういった意図もあるでしょう。)
 東京大学の国語の古典の配点がどうなのかはわかりませんが、ほとんどの予備校は現代文の配点を古典の配点と同じだと捉えているようです。もしそうであれば、東京大学にとって、現代文しかできない人は、古典しかできない人と同等くらいに重要なんでしょうか?
 現代の学生は読解力に欠けると言われています。そんな状況で古文を課してもなんの意義もないでしょう。確かに歴史に深い理解を示す人材は重要ですが、そのような人材の現状のレベルに合わせた入試問題を作っていかないと意味がありません。「古文・漢文ができるような人間がほしい」と言ってそのような人材を集められるのは東京大学くらいでしょう。他の大学が真似したら却って欲しい人材を集められなくなるかな〜という気がします。学問の頂点に立っているからこそ言えることでしょう。もし東京大学が現代文を全部廃止して古文にしたとしても、権威のおかげでなんでもできるような優秀な人材が集まってくるでしょう。学生に過大な期待を押し付けてはいけません。


3.私が思うには

 さて、ここまで色々話してきましたが、ここからがラストスパートです。ここまでの16000文字を2日間かけて書いてますので日本語の表記に誤りがあったらごめんなさい。
 日本人は慎重的だと言われています。日本人は某政治家が検討するかのように結構な数の検討をこなしています。今から古文廃止、あるいは削減しようと言っても形になるのはおそらく数年後のことになるでしょう。
 実際のところ、古文嫌いは日本のみに見られる現象ではないようです。中国にいる友人に聞いてみた所、やはり漢文は嫌われ者として登場するようです(笑)
 おそらく若者の古文嫌いを克服させるには、根本的な改革が必要でしょう。大人が後になって古文を学びたいと思うのと、若者が学校で古文を学ぶのとでは全く違います。学校ではもちろん現代文や数学、英語を学んだりするので、古文の重要性が必然的に薄れてきます。それに大人からの理不尽な要求に耐えなければなりません。だって、古文もできるようになれ。英語もできるようになれ。プログラミングもできるようになれ。と言っているような時代ですから。こんな状況では必ずと言っていいほど「捨て教科」が出てきます。そうすると、学生たちは大学を出てから使える等の実用性のある科目を勉強しようと思うのです。古文の勉強ができる暇なんかあるわけないでしょう。

高校生の読解力の現状

 今年度から共通テストの現代文の問題が2→3問に増え、現代文の配点が100→110点になりました。評論、小説、現代の文章の3つです。
 現代の若者は民法すら読めません。このnoteを見ているような読解力の高い人は読めて欲しいなとは思いますが、実際平均的な高校生でも読めるのかはかなり怪しいらしいです。我々知識人が高校生の現状を知らなければ、一生古典必要論が蔓延するでしょう。繰り返しになりますが、現代文で読めない文章を古文で読めるはずがないです。ガソリンの入ってない車で無理やり走らせようとするのと一緒です。成績の高い者が好き勝手に無理難題を押し付けているような気がします。理想だけの人で現実を見てないと思います。

私が主張する将来の古典像

 共通テストにおいて、古典の配点は現代文や情報とほぼ同じになっています。どう考えてもおかしいでしょう。現代文すらまともに取れないような若者が、古典を勉強するようになるのはおかしいとしか言えません。いつから古典が現代国語で使われるようになったのでしょうか?せめて古典は現代国語の応用的な立ち位置にすべきだと私は思います。だって現代文が読めるからこその古典ですから。
 以上より、私の描く将来の古典教育はこのようになります。

(i) 共通テストの古文・漢文をどちらか一方の選択制にする。もしくは廃止して代わりに現代語訳にできにくい和歌・漢詩等を出題する。
(ii) 中学・高校課程での古典の比重を減らす。代わりに、現代文の読解力を鍛えたり、古典の面白さを探求できるようなカリキュラムを設置する。
(iii) 一歩踏み込んだ古典の内容は歴史として組み入れる。または、理系の数IIIのように文系の専門科目の一つにする。

 いかがでしょうか?一方的に古典廃止論を唱えても何の解決にもならないので、古典必要論の意見も踏まえた改革案となっております。
 ところで現在、アクティブ・ラーニングが広く取り入れられるようになってきております。先生から一方的に教えられるよりかは、生徒たちが協力して一緒に教え合ったほうが良いという考えに基づくものです。現在のAIの発展が凄まじいので、仕方ない流れとも言えるでしょう。
 しかし、アクティブ・ラーニングをするには非常に時間がかかります。いわば毎日会議を開いている感じでしょう。しかし、古典の面白さを探求するためには、それくらいしなければいけないと私は思います。ただでさえ古典嫌いが広まっている中で、これ以上古典授業を増やしていっても焼け石に水でしょう。

何も知らない知識人が古典教育を唱えている

 タイトルが「何も知らない知識人」、と、かなり矛盾したような状態になっておりますが、いいえ、そんなことはありません。
 定期テストで高得点を取ったら「頭がいい」とよく言われますが、私は決してそうとは思っておりません。
 自慢話ではないですが、私は高校の定期テストで学年1位を取ったことがあります。ベネッセの全国模試では偏差値75を取ったことがあります。決して嫉妬してそう言っているわけではありません。
 我々が俗に言う「頭の良い」人、いわゆる定期テストの点数が高い人は、頭が決して良いわけではありません。確かに良い傾向にあるのはわかりますが、相関係数は多分0.4~0.6くらいでしょう。(意外と高いようで低いほう)だいたいそのようなテストの点数が高い人は、言ってしまえばプライドが高かったり、勉強しかできなかったり、他人に認めてもらわないと生きていけないという人が多いです。我々があまりにも「頭の良い」人というフレーズを使っていて、いつの間にかそういう人は万能でなんでもこなせるような人に頭の中で変換されてしまったのでしょう。
 私は代わりに「成績が良い」というフレーズを使います。頭の良さと成績の良さの間には大した相関がないからです。はっきり言います。成績が良い人のことを過信すると大変なことになります。「成績が良い」人は、なんでも理解できるわけではありません。たまに変なプライドを持ちますし、変な自信を持ったりして、対処に苦戦します。そういった人が「頭の良い」人なわけがないでしょう。(努力に関しては褒めてあげたい)
 しかし、我々は「成績が良い」人を採用したがる傾向にあります。これは社会の仕組み上仕方のないことですが、そのような人が社会の実権を握ったら大変なことになるでしょう。
 日本人に限ったことではないのですが、人をあまりにも「最終学歴」というもので判断しすぎだと私は思います。そういった「最終学歴」の高い者はしばしば「知識人」と言われているのですが、そんなはずがありません。
 学歴だけでフィルターをかけると、変な人が少なからず出てきます。東京大学の理科III類に面接を取り入れているのもこの理由だと言われています。そしてそういった「学歴」のある人は文部科学省に行ったり、あるいは何らかの権威のある職に行ったりするのです。

 そういった人が持つ理想と我々の現状が乖離しているのは至極当然でしょう。「学歴」のある彼らに当たり前のようにできたことを我々一般人が当たり前のようにこなせるはずがありません。
 なのに、この世の中はあまりにも「知識人」の言う事を信用しすぎています。東京大学のHPもそうですが、そんな要求は一部の人にしか通用しません。我々一般人に要求するのであれば、もう少し一般人のことを理解しなければなりません。
 私は田舎出身で、貧しい人が多くそこで暮らしていました。今は東京に住んでいますが、今でも貧しい人の気持ちを忘れずに生きています。もし一般人に何か要求するのであれば、まずはその人たちのことを理解すべきだと私は思います。
 では私はこの長ったらしい文章を通じて何を言いたかったのか。
 我々には、もちろん我々一般人の基準、「知識人」にはもちろん「知識人」の基準があります。「知識人」は万能で何もかもにおいて「頭が良い」はずがありません。むしろ、我々の現状を理解していない人も多いです。我々に「知識人」の基準を押し付けられても何もならないでしょう。私は、現在の古典教育のあり方や、古典必要論者に対してこの意見を投げかけているのです。

古典必要論者に文系が多い

 当たり前のことだと思いますが、古典必要論者は文系が多いです。理系もときたま見かけますが、そこまで多くないです。
 古典必要論を唱える人々の多くは、古典がそこそこ好きでしょう。しかし、彼らにとっての古典好きはその趣深さであって、古典嫌いな人に通用しない部分が多いと私は思います。そういった人が勝手に各々の基準を押し付けたとしても、多くの一般人に通用しないことは自明でしょう。
 たまに理系の古典必要論者も見かけます。事実、権威のある理系学者の大半は何でもできる人です。いわゆる地頭が良い人のことでしょう。
(前に話したことと矛盾しないように一応補足→ここでいう地頭が良い人のことはテスト等の成績ではなく、純粋にIQの数値が高い人だと思ってください。EQも含めるとややこしくなるので一旦外します。)
 地頭の良い人は何でもこなせます。もちろん彼らにとっての当たり前が我々にも通用するはずがありません。某物理学者が古文の一フレーズを使って論文を書いたから、我々も古典を勉強しよう!とはなりません。はっきり言います。スペック的に無理です。

4.面白い反論

 さて、この記事のメインディッシュとなる所も過ぎたので、ここからは「本編からはそれてしまったけど面白そうなのでぜひとも取り上げてみたい意見」について見ていこうと思います。いわゆるデザートでしょうか。順次追加予定です。

古典が苦手だから古典不要論を支持するのでは?

 結論がら言います。そうです。より厳密に言うのであればそのような傾向にあると言えます。しかし、そう言ったらキリがないということを押さえておくべきです。女性差別が嫌いだからそれに反対する。人種差別が嫌いだからそれに反対する。危ないことが嫌いだからそれに反対する。セクハラやパワハラが嫌いだからそれに反対する。そういった環境が苦手だから逃げる。
 以上のように、きりがないことがよくわかります。もちろん、嫌い/苦手だからといって何もかもから逃げてはいけないのは真っ当な意見ですが、逆に全ての出来事から逃げなくなってしまいますと、楽しく生きられなくなってきます。したがって、自分の嫌いなことははっきりと他人に伝えて、克服することで自分にメリットのありそうなものは克服していったほうが良いでしょう。
 ちなみに、何度も言いますが、私は古文は苦手ではありません。めちゃくちゃ嫌いというわけでもないですし、この前の共通テスト模試では、漢文満点、古文1ミスという客観的に見て優秀な成績を修めております。私をそのような理由でバッシングしてもノーダメージですよ。

古典教育があるのは就職の機会を確保したいからでは?

 これを見た時、確かに一理あるかもと思いました。経済学的に失業というのは2つの意味でまずいと言われています。森永卓郎さんという経済学者が「ゲームさんぽ」というタイトルのYouTube動画にてこう述べていました。

失業者っていうのは二重の意味で国にとって損失

まずその人が働いていないから
全員が働いていればその分だけ生産が増えるじゃないですか

もうひとつは
失業者が出ると失業者を食わせないといけない
食わすためには働いてる人から税金をとって配らないといけない

(ファミ通 北口:いわゆる年金とか失業保険とかそういうものが(必要になる))
それが働いてる人の所得を減らして不幸にする
だから失業した人も不幸なんだけど
(失業)してない人も失業率が上がると不幸になる

(ファミ通 北口:そのためには失業率を低く抑えて最終的には0%にするのが目標になってくるわけですね)

【ゲームさんぽ/トロピコ6】森永卓郎さんと考える独裁国家の経済戦略!(前編)
https://youtu.be/Iq-UBcx-ajw?si=V2A7UGZQTI6UMC8u (6:24~) (2024/3/16閲覧) 

 これを見た時、なるほどな〜と思いました。確かに、不景気で失業率が高い時は、国が公共事業としてダムを作らせたりしてましたし(ニューディール政策)、失業率の高さが国の経済と密接に関わってるのは間違いないでしょう。
 正直な感想としては、学校の教員の負担を減らすというのも悪くはないかな〜と私は思っております。つまり、学校の先生の効率化を図るための人材として利用するということです。教員は基本的にブラックなので、代わりに部活のお手伝いをしてもいいですし、テストの採点をしても良いと私は思っています。働きたいのかどうかはさておき、最近人材不足という言葉をよく耳にします。そういった所に人材をある程度回せるのではないかな〜と思っていたりして…

 なお、森永卓郎さんは現在ガンを患っており、闘病生活を続けているようです。森永卓郎さんの素早い回復を祈るばかりです。

↓引用元の動画(おすすめ)

国語の問題に古典がないと、理系にかなり不利になるのでは?

 たしかに、言われてみれば私も国語の中の古典を得点源としている人のうちの一人です。しかし、古典以外でも理系に有利な問題があるでしょう。
 中国やアメリカの大学入試問題(高考やSAT等)では、日本みたいに漢字の問題がない代わりに、文法問題が問われくるのです。
 文法問題はちゃんとやれば点が取れてくるものなので、めっちゃ勉強したのに現代文の点数が上がらない!ということが起こりにくくなっていそうです。
 日本もそうしろとは言いませんが、さすがに古典の有無だけで物事を決めるのは世界が狭いような気がするのです。

元古典教師・吉野敬介の考え

 2024/3/24に投稿されたこちらのツイート。
 記事の内容は確かに面白いなと思いました。みなさんもぜひ一度こちらのツイートの記事(←リンク)を読んでみてほしいです。

 さて、私のnoteをここまで読んできたみなさんなら私が何を反論するのかわかりますね?
 ツイートのほうの記事を何個も引用しまくるとただ論破しているように見えるので、必要な部分だけひろっていきます。出典はすべて上記のツイートの記事です。

だから古文は、俺たちのご先祖様の世界を見に行くようなものであって、そういった日本の伝統を学ぶからこそ、社会でも世界でも活躍できる。つまり古文は、日本人が身につける教養として大切なものなんだ。

 もう少し具体的に話してほしいものです。「(古文を用いて)日本の伝統を学べるからこそ、社会でも世界でも活躍できる。」はどういう因果関係なんでしょうか?もちろん、日本の歴史(具体的に言えば歴史、食文化、国民性等々)を知って外国人に話せば「二ホン、スゴイ!」と言われる場面はあるでしょう。ただ、古文を用いるというのはどういうことなのか。古文をそのまま英語に訳して外国人に話しかけるというシチュエーションは想像したことすらありません。というかそもそもそこまで細かいことは外国人も気にしてないんじゃないんですかね…?(日本人が他の国の歴史の、古文並みに細かいところまで気になりだすのは稀ですので)

 日本国外だけではなく、国内でも同じことが言えます。「古文を原文のまま読んでいたから、出世できた!」なんてこと、いつの時代でしょうか?どんな会社でそんなことが起こるんですか?某○○ゼミのセリフを思い出してしまうほどです。
 その観点からしたら、三角関数がまだましなように見えてしまいます。世の中の波は三角関数で表せますし、JPEG画像の圧縮も三角関数を使ってます。しかも、三角関数は習っている時間が短い。おそらく半年も授業があれば完璧にできるようになるんじゃないでしょうか?古典の6年間の授業とは段違いです。青春の1ページに代える代償が少ないという点で三角関数はまだまだ許せます。古典不要論のような学問不要論は、いずれ学問"全"不要論になるという反論もありますが、それは第2セクションの「学問は不要でも構わない」というところですでに述べています。(←2024/3/28に文章追加しておきました)

 そしてまた出ました。「教養」
 この記事のメインディッシュの第二セクションの最初の見出しが「教養」から始まり、そして最後は東京大学の言う「教養」で締めくくられるほど出てきます。それほど万能であるかのように使われます。"やばい"です。
 「教養」とは何かを説明してください。お願いします。もうここまで使われてくるとわからなくなってきます。おそらくここだと伝統を学べてそれを活用できるという意味ですが、それは第2セクションの内容でほぼほぼ否定できてしまうのです…教養のエッセンスは古文の原文だけから抽出されるものでしょうか…?

 まだまだいきます。

じゃあ仮に、古文や漢文をやめて、学校の授業で1時間目は金融、2時間目は不動産、3時間目は投資、4時間目は為替、なんてやっていたらどうなの? お金のことをそんなにたくさん学んだところで、元手がないとそんなに意味はないよ。

たとえば、渋谷区のここ10年間の土地の平均価格の変動を習ったとしよう。そんなの東京に住んでいるならまだしも、地方に住んでいたら、むなしくなるだけだよね。3年前の6月の日経平均株価は、いくらでしょうって空欄穴埋め問題。そんな中間テスト、嫌だよね?

 もちろん、金融以外にも役に立つような科目はいっぱいありますが、ここではあくまでも例えなので深く言わないでおきます。上の金融のみの時間割も例えなので同じくって言いたいですが、我慢できずに下の方で少し触れてしまいました。先生ほどではないものの、僕が古典を得意としながらもこの記事を書いているようにそちらには少し金融についての理解を深めてほしいものですが…
 さて、入試で古文が問われてきます。いい大学に行くには古文が必須になる場合も多い。いい大学に行けば年収が上がる可能性が高い。それで元手が手に入る。そういった意味では「元手がないとそんなに意味はないよ。」という部分は本当に的を得ています。どんなに理不尽だろうと、入試で問われている限りやる以外の選択肢はないのです。個人的な意見ですが、金融の勉強と入試の改革は同じくらい重要だと思っております。どちらも社会の変化に関するものですので。

 そのあとの例えは流石に大袈裟です。確かに、渋谷区のここ10年間の土地の平均価格の変動の勉強はむなしいかもしれませんが、経済を勉強していれば何かしらの形で役には立ちます。古文と違う点がそこです。(とはいえ渋谷区のここ10年間の土地の平均価格の変動は勉強する価値もない気がしますが…)
 定期テストの例ですが、面白いツイートがあったので貼っておきます。

  そこまで細かいことが聞かれるのは、早稲田大学で二・二六事件の時の積雪量を聞かれたときくらいでしょう。いわば捨て問です。
 ちなみに一応経済の研究をしているので一応ツッコミを入れておきます。興味のない方は飛ばしてください。全員が土地の価格の変動、日英の為替の変動のメカニズムを勉強していたら意味がなくなります。教養にはなるものの(?)、投資にもなるものの、投資の戦争としては破綻します。要するに、投資の戦争は心理戦になるということです。いわば相手の裏を読むだけの戦場になります。そして、学校はその戦争についての兵法書を全員に全く同じものとして配っているだけです。これ、おかしくないですか?確かに、世界中の株価はブレがあるものの毎日上がっていると言われているので分散投資すれば期待値は0以上になります。これが一応本物の投資です。(厳密には違う) 全員が投資の戦争の兵法書を勉強しても「本物の投資」そのものの仕組みは変わらないだろうと思ってはいますが、投資の戦略の話となるとなかなかピンと来ません。日本人が米資本で投資をして日本円に換算すれば意外と国の利益になったり…?と思ってはいますが果たしてどうなんでしょう…?正直言って、投資家は様々な戦略を使って投資戦争をしているので、学生たちに広く広まっているような兵法書の戦略では作戦がバレバレになってしまいます。(学生のほとんどがサボって兵法書を習わなかったとしたらまだ望みはありますが、実際にやってみないとどうなるのかはわかりません)したがって、学生が兵法書を使って安全に投資戦争をすることはできないでしょう。ただ、普通の「本物の投資」はできますのでそこらへんを重点的に勉強してほしいなあと思ってます。

 金融教育で本当に勉強すべきものとして例を挙げるとすれば、リボ払いみたいなカードの支払方法、銀行の金利とインフレ率の違い、FXのリスクやレバレッジ等々でしょう。普通では考えないようなものや、知らなければソシャゲでの大量課金みたいに大損して泣き寝入りするものなどです。あとは、詐欺の見分け方でしょう。そこらへんだと思います。金融教育含めた経済関連のものは"このような形で"役に立ちます。
 とはいえ、私的には学生に金融をどうこうよりかは読解力や思考力等を鍛えてほしいものだと思っていますし、なんなら最近流行りのアクティブ・ラーニングも然りです。つまり、他にもやるべきことはたくさんあるということです。(金融みたいに実用的なものは楽しんでもらいたいのでできればテストにはしてほしくないのですが、そうすると勉強すらしなくなるでしょうね…)
 ちなみに、親のクレカを勝手に使いまくって見知らない請求が大量に届いたというケースもあるので、金融教育は普通に義務教育でやるべきです。18歳になってクレカ使えるようになったでは遅いです。

そもそも、「古文はムダだ」とか言うやつは、古文が金融や不動産に変わったところで多分、金融や不動産の勉強もしないと思うよ。

 偏差値40の高校に通っているような勉強嫌いな高校生に対して言っているのであればまだわかりますが、さすがに主語がでかすぎる気もします。
 みなさんに質問です。古典は嫌いだが、他の科目は平気な人は存在しますか?
 いないわけがないですね。しかも、「他の科目」の中で、例えば物理だけ嫌いと思っているようなケースもあります。ただ、その場合だと物理以外の「他の他の科目」は平気ですよね。
 何が言いたいのかというと、古典は嫌いだが、他の科目が平気な人は、金融や不動産を嫌いになるわけがないじゃないですか?そんなピンポイントで嫌いになることありますかね???
 もちろん、全科目が嫌いな人は金融や不動産も嫌う可能性が高いでしょう。ただ、古典以外の全科目が平気な人、または好きな人がピンポイントで金融や不動産も嫌いになるのは違います。
 これは勉強するかどうかにも通用します。古典は勉強しないが、他の科目はすべて勉強する人が、学校の金融や不動産の勉強を絶対にしないはずがありません。

 あと、もっと身近な話題で行く。
 大学入試の科目として実際に情報が導入されました。情報についての実際の評判のほうはどうなっているのでしょうか?
 同級生から情報嫌い!といった意見を聞いたことはほとんどないです。驚きです。情報の点数やばかった!はあるものの、情報嫌い!はないです。それくらい実用性のある科目は学生たちにとって有意義なものになっているということなのでしょうか?
 ちなみに、同じツイートの記事の同じ部分について取り上げた方がいらっしゃいましたので、ここに貼っ付けておきます。こちらのnoteでは私とは違う視点で語られている部分もあるので興味があれば見てみてください。

 ツイートの記事についてですが、後半部分はかなり良いことを言っていると思います。古典が入試で出る以上やらないといけないのは確かですし、それでお金持ちを逆転できるチャンスも残されている。古典に限った話ではないので、後半部分だけ見ても損はない記事かな~って思ってたりしました。

5.最後に

 最近騒がれている古典不要論ですが、私はそれに大体賛成していこうと思います。古典必要論の意見も確かに理解できますが、現代社会の変遷を鑑みるに、多少双方が妥協しても致し方のない部分があると思います。
 古文を原文のまま読めと言ってしまうと、平安から明治まで、漢文であれば殷の時代から清の時代と、きりがありません。そもそもそんな時間もないでしょう。他言語にも趣の深い文章があるはずなので、そちらも読んだほうが良いと言うことにもなります。しかし、現代語訳しても真の意味が伝わりにくいような和歌・漢詩、また本気で古文を勉強しに文学部を目指そうという方もいらっしゃいますので、完全廃止は厳しいでしょう。
 とはいえ、現状の古典教育はやりすぎだと思います。大学入学共通テストでの古典の配点が現代文と同程度なのはさすがに時代遅れでしょう。現在の高校生は法律、なんなら契約書でさえまともに読めないので、教育で現代文に比重を置くのは然るべき事の流れでしょう。時代に逆行して古典教育に力を入れるという悠長なことは言えません。それに対応できるのは本当に要領の良い人だけでしょう。
 他にも日本人のアイデンティティとして重要という意見も上がりますが、入試で日本人を苦しめている以上、アイデンティティとなるというのは個人の妄想にしか過ぎないと思います。(文科省はおかしいと言う先生も多くいます)たしかに日本人としての自覚を持つことも大事ですが、それと同程度くらいに他民族への理解も大切でしょう。国際情勢についての理解も同じくらい重要だと思います。あえて例えて言うならば、北朝鮮から核を撃たれないようにさせるのが他民族への理解や国際情勢への理解、そして北朝鮮に抗うためには日本人としての自覚が鍵となるでしょう。また、日本人が1番みたいだという教育をしてしまうと、愛国心しかないプライドの高い者だらけになってしまうでしょう。(どっかの国が代表例)もし嫌であれば、古典教育を見直すべきだと私は思います。

 繰り返しになりますが、私は古典教育を廃止しろと言っておりません。しかし、そろそろ見直すべきだと私は思います。昔々、中国では科挙というものがありました。科挙は古文を暗記して書き取らせる、といった試験が主流でしたが、ある時から問題が大幅に改変されたようです。なぜか。科挙を突破した政治家たちが昔の文章に記載してあることしかできなくなったからです。
 古典教育はいずれ廃止の方向性に向かっていくのは間違いないでしょう。AIの台頭によって、古典よりもプログラミングが重視されるようになってきているからです。情報の高速化も進み、現在では古典より英語が重視されてきています。これは時代の流れなので、致し方のないことだと私は思います。私達にとって重要なのは、そのような時代をどう受け入れていくのかと考えていくことでしょう。

 ここまで23000文字と、かなりの長文になってしまいました。新書1冊で大体80000文字なので、あと4倍の量を書けば新書並みの濃さになるでしょう。この文章をkindle等で自費出版すれば多からず少なからず印税が入るでしょう。noteの有料記事にすれば数百円かもしれませんが儲かる可能性もあります。しかし、私はそんなことをしません。この記事をなるべく多くの方に読んでもらいたいからです。このnoteの文章を常識の範囲でCC-BY(クリエイティブ・コモンズ)形式の元で利用しても構いません。(孫出典者には十分な配慮をお願いします)また、気になることや、意見等ありましたらコメントしていただけると幸いです。もしかしたらノートに追記するかもしれません。(「♡」ボタンも押してくれると嬉しいです)

 最後になりましたが、ここまで読んでくださった方向けに、私の尊敬する公共の先生が言った事を引用して終わろうと思います。


「国連で務める人のことを国際公務員と言います。国連の役割とはなにか。第三次世界大戦を防ぐことです。そして国際政治学は、戦争を防ぐためにあります。なのに君たちは、自分の夢のためにユ◯タン!自分の成功のためにサ◯シード!をやっているわけなんですよ。古典を学ぶ暇があるんだったら国際情勢を勉強してくださいそして、戦争の発生を未然に防いでください。それが我々人類の役目だろうと私は思っております。」



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