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「心理」の話。

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2018年1月の記事一覧

宿命とは「自由の所産」という話。

これまで聴覚障害のある当事者として、研究、教育、運動など実に様々なことを実践してきました。しかし、これらを実践している時は、まるで常に目に見えない「鎖」に縛られているような「宿命」をいつも感じていたものです。 また、過去に起きた偶発的な出来事は後から振り返ってみれば必然的な過程として作られたものだ、というふうに見えてしまうこともあります。これをドイツの哲学者ヘーゲルは「理性の狡知」といいます。そんなわけで一層「宿命」の重さを感じてしまうことも。 しかし実は「宿命」とは「自

「立つ」の現象学の話。

運動発達に遅れがあると言われているダウン症のお子さん。 2歳になったばかりで、家の中をハイハイして、立つときは誰かに支えてもらっていました。 ある日。リビングで親御さんと話している時、お子さんがベランダの方へハイハイし、窓を両手でポンポンと叩く。しばらく窓を見てから、左手で窓に体重の一部を預け、両膝を床から離したところで、すぐ左手よりも高い位置に右手を窓に置いて立ち上がります。しかも上手に。スッと。 ただ、立ち上がるといっても窓に体重の一部を預けている状態です。窓に寄り

きょうだいの「家族アイデンティティ」の話。

私には、3つ下の耳が聴こえる妹がいます。 妹は、両親よりも私の「音声日本語」を聴き取ることができていました。いつも一緒にいたからでしょう。両親が、私の「音声日本語」を聴き取れない時、妹が明瞭に復唱(リスピーク)してくれることがよくありました。 ただ、妹にとってその「復唱(リスピーク)」は、ちょっと特殊なものでした。家族団らんでは、両親は私のことをよく「話題」にしていたようです。 当時の聴覚障害教育では、保護者は言語指導を担わなければならないと強く求められていた時代だった

アタッチメントと係わり手のありかた。

アタッチメント。 この用語は「愛着」と翻訳される傾向があります。直訳すると「付着」であり、特定の他者との「近接」を求め、そこが「安全」だと感じている、という意味になります。 いわゆる「愛着障害」と聴覚障害との関係に関する先行文献では、聴覚障害の早期発見後、聴覚障害を医学的観点から否定し、コミュニケーションや関係性のありかたを蚊帳の外に置いた言語指導によって母子関係の形成が難しくなったとされる事例報告があります。 1歳半頃で発見された私の場合、発見当時の検査では情緒は非常

障害受容というコトバの本質。

障害受容というコトバ。 その本質は、「孤立しているから誰かとつながりたい、でもつながりかたがわからないでいる状態」ではないかと思います。 「障害受容」の研究では、3つだったり5つだったりいくつかの段階というものがあると語られていますが、これもまた、その時の他者や社会との「つながりかた」を抜きにして、「個人」だけを見て段階を考えることは難しいと思います。 障害受容のコトバは、時に支援者、専門家の「上から目線」で使われることもあります。そのような支援者等には、受容してもらえ

「社会的分類」のまなざし。

「社会的分類」は、人々を何らかの基準で「分ける」ものです。例えば、障害の種類だったり障害の程度だったり障害の特性だったり。それはその人は誰かを把握する上である意味「便利」なものでしょうが、「教育」という仕事で人を理解するためには再考を要すると思います。 障害のある人への支援に関わるコンサルテーションを実践していると、現場のスタッフから「〇〇障害だから…」「○○障害の特性から考えると…」という語りを聞くことが多いのです。障害や診断の名称や障害特性など「社会的分類」に支配された

「コミュニケーション」の意味。

他者に「コミュニケーション」って何?と聞くと、「伝え合う」「意思疎通」「情報交換」「交流」「通信」などの回答が返ってきます。 これが現在の用法なんでしょうね。だから「コミュニケーションをとる」「コミュニケーションを図る」という表現が出てくるわけです。二者の間を「何か」が行き来する、そういう意味がコアになってるらしいです。 そこで、このコトバは何から来たのかルーツをたどってみると、ラテン語で「communicare(共有する)」「communis(共有の)」というのがありま

相手の注意に自分の注意を重ねる。

このことを「共同注意」といいます。自分が他者と同じ対象物に注意を向け合うことです。 これは発達心理学の話ですが、教育実践のありかたにもつながる話です。人間は、乳児期から、他者と対象物への注意を共有し、それを話題にコミュニケーションを通して、その対象物は何か、どのように係わるものなのか、どういう名称で呼ばれているものなのかなどに気づきながら、この世界での生き方(文化)を身につけていきます。 例えば、子どもが「猫」を見ている時、親は、子どもがそれに注意を向けている(興味・関心

他者の「まなざし」との対話。

「まなざし」とは、見る側が見られる側にある評価や価値を押し付けたり支配したりする作用のことです。 自己やアイデンティティに関する心理学の話では、他者のまなざしは2つあり、1つ目は、社会が持つ役割や一般的価値意識(期待)を反映したもの。2つ目は、重要な他者(significant other)。 例えば、親、教員、上司、親友など自分の評価や価値に大きく影響を与えるような存在。しかもこれらのまなざしは自己に内面化していく。また、「他者」には、現実の他者だけでなく、もう一人の自

「コミュニティ」とは何か。

コミュニティとは、共通の目的や関心を持った人間の集まりのことを言います。 「コミュニティ」を求める背景の1つに、今の自分自身の生活に「安定」や「安全」が不十分で、特にストレス状態にある時は誰かの支持を得たくなったり、誰かとのつながりを持ちたくなったりするからでしょう。 ただ、それだけでコミュニティに入ってしまうと、「自己肯定感」の充足のみが目的化してしまう危険性もあると思います。 ここで、心理学アドラーが主張している共同体感覚(ドイツ語でGemeinshaftsgefü

「説明モデル」の話。

自分が生きていく上で何らかの困難に直面した時に、認知・行動面で様々な対処をとろうとします。この困難をどのようなものとして捉えるのか。この困難についてどのように対処していくのか。これらは、様々な他者や文化との係わりを通して、自分なりに自己や他者に説明する(語る)様式を作っていきます。例えば、このようにして起きるものだと意味づけよう、その上でこのように対処していけば、生きやすくなるのではないかと。 これは、医療人類学者のクレインマン(Kleinman)が提唱した「説明モデル(e

幼児期における「語り」と「アイデンティティ」。

子どもは、園で教員や他児など小集団に対して自分が遊んだり見聞きしたことを過去の経験として語ります。しかし家庭生活や園での活動は、いつも同じような経験をするわけではなく、一過的である経験もあるわけです。 そのため子どもたちは、そうした過去の経験をどのように語るのかといった課題に直面します。特に、経験した出来事が多くなったり複雑になったりすると、これらの出来事群を関連付けてまとめて語らなくてならなくなります。 そうした課題に対処するために、子どもたちは、自分以外の子どもや教師

「観察」するということ。

特別支援教育の仕事で「観察」を行うことがあるのですが、「観察」とは何かについて方法論的な検討をされた経験を持っている方々は少ないようです。 一般的に「観察」の対象は「子ども」であると考えられがちですが、よく考えれば「教育」という事象は、子どもと外界(教員、他児、教材、その時々の状況など)のダイナミックな相互作用の過程によって子どもの活動が展開したり停滞したりして立ち現れてくるものです。 そう考えると、1つは、「子ども」のみを観察するのではなく、「外界とのダイナミックな相互