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詩『記憶のコインロッカー』

お父さん、あなたの顔はもう忘れたけど、父親の戸籍が今夜も波打っています。ポケットで温めたつちを何度も、何度もかけて、お湯を注ぎました。マスカットの香りがするしろい花が咲きました。白い花びらいちまい、いちまい、に理想の父親像がプリントされています。どれも見覚えがありません。そもそも父親なんていたのかしら。お母さん、あなたの隣の欄には、誰の名前が記入されていたのですか?お母さんは、魚のムニエルにかけられたクリームソースの匂いや煮物の匂いがします。お父さんの匂いの履歴はありません。検索しても、五感にヒットしないのです。誰か履歴を削除しましたか?愛犬は死にました。つめたく、かたくなって、動かない四本足は、白い骨になりました。愛犬の名前は、誰が命名したの。誰も教えてくれないけれど、かすみ草の『かすみ』という雌犬でした。白い毛並みのラブラドールレトリバー。荒い鼻息、濡れた鼻の手触り、小刻みに揺れる尻尾のリズムが今も鮮やかで、忘れられないのです。

忘れてゆくものと忘れられないものの間にある波は、どんなリズムで光っているのでしょう。記憶は何色の風に流されてゆくの。嵐と凪、そしてその繰り返し。家族は更新されてゆくもの。増えたり、減ったり、忘れたりして、顔ぶれが変わってゆく。嗚呼、さようなら、また来て、お久しぶり、あら、初めまして、新米さん、この世界の朝のひかりはあたらしい目を突き刺すわね。そっと手を翳す。指があかい、泣いているように赤い。生まれたての命を抱いたあの日のように。父親の愛を知りません。母親にはなれるけれど、父親にはなれません。あなたがこどもを殴ったときも、真っ赤な顔で柔らかい頬を護りました。まもることはできても、父親の手は買えません。温かい手は、いつも母親のものでした。ごつごつとした男のひとの手の温もりをあまり知りません。誰かその温度を、その感触を、その記憶のみずたまりのありかを教えてください。

ねむるたびに、すこしずつあたたかいきおくを、うしなってゆくようです、かぎをかけたまま、こいんろっかーのかぎを、ふんしつするように、むねのなかで、ちいさなわたし、がざわざわ、とブランコをこいでいる、
(さかなのにものの、しょうゆとしょうがのにおい、まないたのくろずんだあと、おちゃのでがらし、ほうちょうのはこぼれ、めぶんりょうの、りょうりしゅとみりん、なべりょうりの、にえるおと、しんぶんしのおりじわ、ざっしをめくるおと、まいにちくりかえす、いただきますとごちそうさまの、れいぎただしいあいさつ、きびしくしつけられたはしづかい、)
かぎをあけたら、わあっとつなみがあふれだしそうで、あけられない、きっとわたし、はわすれていない、わすれたふりをしないと、いきてゆけないから、またかぎをかけるあさ、


photo:見出し画像(みんなのフォトギャラリーより、みれのスクラップさん)
photo2:Unsplash
design:未来の味蕾
word&poem:未来の味蕾

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