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江澤隆輔 『先生も大変なんです いまどきの学校と教師のホンネ』 : なぜ異常な〈労働環境〉は改善されないのか?

書評:江澤隆輔『先生も大変なんです いまどきの学校と教師のホンネ』(岩波書店)

昨今は、テレビの報道番組などでも取り上げられて注目されるようになった、学校教育の現場における教師のおかれた、常軌を逸したと呼んでもいいだろう「劣悪な労働環境」の問題について、現役教師がその実態を具体的に紹介したものが、本書である。

私は昔から、仕事でごくごく稀に、学校の先生と接する機会があったので、(独身の私は、生徒の保護者目線ではなく)教師目線に近いところで、もう20年も前から「学校の先生は大変そうだ」という感触を持ち、やがて「公務員になるにしても、学校の先生だけは止めいておいた方が良い」というようなことを人にも話すようになっていたのだが、その当時、そうした実態は、まだまだ世間には知られてなかった。

私がなにより驚いたのは、午後7時や8時といった時間に、先生がまだ学校に居残っているというのを知ったことだ。
子供を学校にやって、クラブ活動などをさせている人(親)なら、ある程度は知っていたことなのかもしれないが、私は高校を卒業して以来、基本的に学校には縁がなかったので、学校の先生というのも公務員なんだから「基本、定時に退社」だと思っていた。ところが、仕事上で何度か学校の先生がたに接して話を聞いたところ、クラブ活動を含め、定時以降の仕事がいろいろあって「そうもいかないのだ」という話を聞き、「これは何やら大変そうだ」と感じたのである。

そもそも、私が中学高校の頃のクラブ活動というのは、ごく一部のスポーツ有名校などをのぞき、所詮は「遊びと趣味の延長線上のもの」という感じであって、親も子供のクラブ活動については、大した興味もなければ、それにお金や時間をつぎ込むといったこともなかった。
ところが、いつの頃からだろうか、「所詮は学生のクラブ活動」のはずなのに、ユニフォームなどを含めた道具代だけではなく、遠征費だなんだと結構お金が掛かるし、親は子供の送り迎えに車出しをしなければならない、などという話を、職場の同僚から聞かされ「なにもそこまでする必要ないのに」と、美術部やマンガ部といった文化部にしか所属したことのなかった私には、ずいぶんバカバカしく感じられたりもしたのだった。

しかし、こうした、私に言わせれば「行き過ぎ」の事態は、世の中で徐々に進んでいたようで、たかだか「学生のクラブ活動の運動選手」まで「アスリート」と呼んでみたり、「当校学生の誰某が、インターハイで何位になった」とかいう垂れ幕を、公立の学校までデカデカと外に向かって掲示しはじめた時にも、私は「なんでそこまでやるの」という違和感を禁じ得なかった。

結局、こうした「過剰さ」が、教育現場の「健全性」をじょじょに蝕んでいたのではないか。つまり、学校に多くを期待し過ぎなのである。

本書の著者を含めた先生がたの持っている「教育的理想」というのは、なにしろ「理想」なんだから、それは素晴らしいと思う。
しかし、私が思うに、公立学校の仕事とは、子供たちに「最低限の知識や能力」を身につけさせることであって、「高度なものや特殊なもの」まで教えるところではないし、まして人格まで「作り上げる」ところではない。それも「教え」はするけれど、「学ぶ(身につける)」かどうかは、所詮は子供次第なのである。

もちろん、クラブ顧問などは、勤務時間外なのだから、好きな先生が「趣味」でやればいいことで、「職務」の延長線上のものとして、強制されるようなたぐいものではない。
だから、顧問のなり手がいなければ廃部にし、学生が「同好会」として勝手にやればいい。そもそも「趣味のクラブ活動」には「指導者」など必要なく、学生が自由に楽しく勝手にやればいいのである。
しかし、それでも「うまくなりたい」とか「そのために指導者が必要」とか言うのなら、保護者にやってもらうか、先生に「有料」でやってもらうしかないだろう。むろん、保護者は「趣味」でやるのでお金は出ない。また、先生に「有料」でやってもらう場合でも、「趣味」の活動に「税金」からお金は出せないので、「保護者」負担ということになるだろう。
これが、私の「学校の常識的イメージ」である。

ところが、現実は、こういう「ひと昔前の常識的イメージ」から大きく踏み出しており、あれもこれもやるし、そのどれも「完全完璧」にやる、やらねばならぬ、やって当然、ということになってしまっているようだ。

「授業」についても、やる気のある先生もいれば、さほどやる気の感じられない先生もいるというのは、昔なら当たり前のことだし(そこから学べることもある)、クラブ活動は「趣味や遊び」といったものだった(けれども、そこから学べることもある)のに、今ではこうした「ユルさ」が許されていないのである。
そして、こうして生み出された「膨大な過剰部分」のすべてを、先生がたにおしつけた結果が「学校教育現場のブラック企業化」ということなのではないだろうか。

本書で著者は、現在の学校教育の現場における「過剰労働」の実態を紹介し、その原因を、主に「教師自身の理想主義教育観」と「教育行政の不備・不作為」に求めており、「教育現場の実態を世間に知らせ、世間の理解を得た上で、教師の意識改革による現場からの変革」というようなことを考えているようだ。

しかし、ここには「重要な論点」が抜け落ちている。

まず、教師たちが「どうして、このような過酷な労働環境に甘んじているのか」という問題について、著者は「教師というのは、子供のためならと思うと、つい無理を承知で頑張ってしまうところがあるからだ」という説明をしている。
たしかに、そういった側面もあるだろうが、しかしこれは「きれいごと」であることも否定できない。つまり「いくら生徒たちのためとは言え、われわれにも生活があるし、われわれも賃金労働者であり、自分の生活をまず第一と考えて、何が悪いのか」という「ホンネ」をもっている先生も少なくないはずで、これは当然のことだ。
しかしまた、先生は「教育者=聖職」というイメージがあるため、何より我が身がかわいい「普通の人間」としての「ホンネ」を語りにくいということがあろうし、世間の方も、そうした「タテマエ」をタテに取って先生がたに「理想」を押しつけ、多くを求めてしまう傾向があるので、先生がたとしても迂闊に「ホンネ」で語れない、という「かけひき」的な問題もあるのだろう。

だが、だからと言って、「タテマエ」を語っているだけでは、人を動かすことはできない。
「ホンネ」としての「切実な痛み」がリアルに語られてこそ、人はその問題を「我が事」として感じられ、「何とかしなくては」と「本気」で思うようになるのではないだろうか。ところが、本書には、そういう「人を動かすホンネ」というものが、ほとんどないのである。
現役教師である著者の立場を考えれば、それもやむを得ないことだとは言え、これでは世間は動かせない。がっちりと固定化した悪しき現状の打開といったことは、やはり「無難さ」をもとめる「保身」にとらわれていては、とうてい不可能なのではないだろうか。

そこで、私が、本書に最も欠けているものとして挙げたいのは、「教員もまた労働者である」というだけでは済まされない、「労働者の権利は、先人たちの実力闘争によって勝ち取られた、血と汗の結晶である」という、リアルな現実認識なのである。

こう書くと「政治の話」「左翼の話」として敬遠されてしまいそうだが、歴史的事実として、「政治的権力者」や「金持ち」という「国家の支配者層」が、「一般庶民(被支配者)」に対し、進んで「権利」を与えたというためしはないのである。
権力やお金が欲しいと思って頑張るような人は誰でも、好きこのんで、他人に力や金を分け与えようとはしないものであり、それは一般庶民としての私自身をふくめても、基本的には変わらない「人間的事実」なのだ。

なのに、である。「きれいごと」や「タテマエ」を前提とした「教師の意識改革」程度のことで、今の「教育行政」が変わろうはずがないと思うのだが、いかがだろうか。

それでなくても、この現実社会は「新自由主義経済」の「弱肉強食=自己責任」論というものを経た過酷な世界であり、労働者から「労働力をいかに搾取するか」ということが、資本家経営者の「ホンネ」の問題となっているこのご時世に、「子供たちのことを考えてしまうから、つい…」などという「きれいごとの甘ったれ」だけで、いったい何が変えられよう。

著者は、教師も社会人として広く知識教養を身につけるべきだと書いているが、しかしそれならば、世界の政治経済的な流れについてもまったく無知ではないだろうし、「やりがい搾取」といった言葉くらいは聞いたことがあるはずだ。
だとすれば、「教師としてのやりがい」の故に「ブラックな労働環境」に甘んじているという現状が、いかに「無知」と「無自覚」に由来するものなのか、というくらいこともわかってもいるはずなのだ。それならどうして、「労働運動」の問題にまで踏み込んではいかないのか。

これが本書の「限界」である。

「読書」や「意識改革」だけでは、金輪際「労働環境」は変わらない。
むしろ「不当な労働環境」におかれた教師たちが、本気で取り組まなければならないのは、「自分たちの人権」を取り戻すことであり、それに身を持って取り組むことなのではないのか。

無論、それはきわめて困難な道であるし、世間の無理解にもさらされようが、しかし「自分の人権を守る行動とは、そのまま他人の人権を守るための行動でもある」ということを忘れてはならない。それは「虐げられた人々」のための戦いであり、そうした教師の姿は、かならずや学生たちにも良い影響感化を与えるはずだ。
そして少なくとも、文部科学省が望む「去勢されたような従順な若者」の生産に寄与することにはならないはずなのである。

いま「教育」に求められて然るべきなのは、じつのところ「強かに生き残る生命力」の方ではないのか、とさえ私には思える。だからこそ、著者の「優等生的理想主義」の「語り」には、大いに不満を感じたのだった。

初出:2020年4月20日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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