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角南圭祐 『ヘイトスピーチと対抗報道』 : あなたは〈口だけ人間〉ですか?

書評:角南圭祐 『ヘイトスピーチと対抗報道』(集英社新書)

「書評家」気取りの人、あるいは「消費者」意識だけの人にとっては、本書は、やや物足りないかもしれない。

私は、在特会による「京都朝鮮人学校襲撃事件」以来、ネトウヨとあちこちでバトルしながら、いろんな文献を読んできたような人間で、「ヘイト問題」については、言うなれば、本書著者よりも古参なので、本書に書かれていることのほとんどは、概知の情報でしかない。一一しかし、問題は「情報」ではないのだ。

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その「情報」を持って「どう戦うのか?」、あるいは「知っているよと、ただ自慢するだけなのか?」ということなのである。

著者が本書に込めた想いは、

『「私は差別をしない」では差別はなくならない。「私は差別に反対する。闘う」でなければならない。そのために、差別に反対する政策と法制度をつくり出し、差別に反対する仲間を増やしていきたい。この本を読んで、共に反差別の戦線に立とうと感じてくれればうれしい。』(P261「おわりに」より)

という、この言葉に尽きよう。

偉そうに「情報がどうとかこうとか」匿名で言っているような「自慰的書評家ゴッコ」も結構だが、そんな奴に限って、ろくに勉強もしていないし、本も読まない。
読んだとしても、偏頗な本しか読んでおらず、基礎教養がない。無論、「サイバー・カスケード」「エコー・チェンバー」なんて言葉も知らない。こう書かれて、慌ててネット検索する程度の輩だ。

例えば、「日本の伝統」がどうとか言っている「ネトウヨ」は無論、その象徴たる「安倍晋三前首相」が、愛読書は『永遠の0』であって、『古事記』『日本書紀』を読んでもおらず、「云々」を「でんでん」と読むような「日本語能力」しか持たない、無知無教養の徒であることからも、そうしたことは明らかだろう。

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したがって、こういう低レベルの「日本の恥さらし」は別にして、私たちが真っ当に「人の痛みを感じることのできる人間」なのであれば。「差別」と闘うのは当然であり、「差別と闘う」とは「差別者たちと闘う」ことだと、そう現実に即して理解しなくてはならない。

無論、差別者たちと闘うためには「勇気」も必要だろうが、ひとまず「現実」を知らなければならない。そして「現実を知る」とは、「どのような差別があり、具体的にどのような差別がなされているのか」を知るだけではなく、「差別と闘えない、自分の現実」を知る、ということでもあろう。

「差別の現実」をろくに学ぼうともせず、テレビやネットニュースも見聞きした程度で、「問題の本質は分かっている」などと思うような人間は、間違いなく「無教養な馬鹿」だ。
と言うのも、「本を読む人(読書家)」というのは、本を読めば読むほど、自分の知識がいかに限定的なものかを思い知らされる経験をしているからだ。だからこそ、あれも読みたい、あれも読まなければと、次から次へと本を読んで勉強することにもなるのである。
知識のある人間ほど、自分の無知な部分に自覚的であるから勉強するし、その真逆に「無知な馬鹿」は「無知な馬鹿」であるがゆえに、自身を「無知な馬鹿」とは自覚できないし、だから勉強をしなければとも思わないのだ。

また「ネトウヨ」のような「わかりやすい馬鹿」ではなくても、自身を「中立的な客観者」だなどと勘違いしている「悪意のない馬鹿」というのも大勢いる。
一一本書でも紹介されている「どっちもどっち」(P39)だなどと言って利口ぶり、澄ましていられるような、現実を知らない浅薄な輩のことだ。
「ヘイトスピーチをやるような奴は、むろん品性下劣だけれど、それに対抗して大声を出して喧嘩しているような奴(カウンター)も似たようなものではないか。私には到底、あんな下品な振る舞いはできない(から、傍観させてもらうよ)」という輩である。

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言うまでもなく、「差別に傷つけられた人々の現実」に接していれば、「カウンター」が「あそこまでやらなければならない」というのも、容易にわかることだ。
だが、「賢い傍観者」たちは、そもそも「無知」であるし、保身に精一杯だから、ヤバそうなところには決して近寄ろうとしない。たとえそこで、罪もない子供が殺されようとしていても、あわてて足早に立ち去るのが、こういう自称「賢明な人間」だ。

だが、例えば、自分の妻子が、暴漢から襲われて暴力を振るわれていたとしたら、それでも「私は暴力に反対だから、手は出さずに、傍らに立って、暴力を止めるように説得します」なんてことができるだろうか。
まあ、こういう輩は、妻や子がやられていても、自分では助けに行かずに、110番して警官の到着を待つのが、関の山であろう。だが、それでは「間に合わない」場合があるというのは言うまでもないし、そもそも警察の「強制的抑止力」だって「合法的暴力」なのである。
ともあれ、こんな旦那や父親の姿を見せられたら、妻や子は、旦那であり父親を、一生軽蔑することだろう。「こいつは、大切なもののために闘うことのできない、ヘタレだ」と。

もちろん、私はむやみに暴力を肯定しているわけではない。
もともと「文学趣味の人間」である私は、四畳半襖の下張裁判サド裁判に関する文献も読んでいるくらいだから、「表現規制」や「言葉狩り」の問題については、そこらの人よりよほど慎重な人間で、「ヘイトスピーチ規制法(解消法)の制定についても、かなり慎重な立場を採っていた。

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四畳半襖の下張裁判」記者会見での野坂昭如・左)

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(「サド裁判」記者会見での澁澤龍彦・右)

しかし、だからと言って、「いちがいに」法規制すべきではない、とは思わない。必要な法規制は必要であり、それを逸脱するような法規制には、徹底的に抵抗する。それだけのことだ。

つまり、暴力についても、それが不正な暴力を止めるために必要なものであれば、その行使を認める。
現実は、現場は、暴力が「いちがいに」良いとか悪いとかいった話ではないのだし、実際、法的にも「正当防衛」や「緊急避難」といった例外規定があるのは、現実は、「単細胞の保身家」が「暴力は絶対反対」などと言うほど、単純なものではないのである。(最も、この理屈で「過剰防衛」を正当化するようなタカ派も、単細胞の阿呆だが)

そんなわけで、本書の眼目は「あなたには、差別者と闘う気があるのか、無いのか」と「問う」ことにあるのであって、本書は決して「差別問題のお勉強用テキスト」などではない。せめて、そう気づくくらいの「読解力」は持つべきだろう。

頭が悪いから「ネトウヨ」になるのである。人の痛みがわからず、自分のことだけに精一杯の「小人物」だからこそ、人を差別して「自分の方が上だ」と思いたがり、人より大切にされたがる「小人物」なのである。

著者も書いているとおり、「差別」意識がまったく無い人などいないだろう。かく言う私も、この文体から分かるように、きわめて「マッチョ」な人間であり、「男なら」とか「日本人なら」、差別と闘って当然だろうと、そんなふうに考えてしまうが、これが、ある種の「差別意識」を含んでいるのも間違いない。
ただ、その自覚はあるし、そうした「さほど問題にならない差別意識」をどう乗り越えるべきかと考えるくらいの知能は持っている。

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本書の読者に言いたいのは、本書を読むほどの人なら、たいがいは差別に反対で、差別者を許せないという「気持ち」くらいは持っているだろう。だが、「本書を読むだけで、満足していないか?」「ネットで差別反対の意思表示をして、それで満足していないか?」、そうしたことを「無行動のアリバイ」にしていないか、ということである。

「口だけ人間」では、「頭の悪いネトウヨ」と、裏返しに五十歩百歩だと、そう自分に、一度は突きつけてみるべきなのではないか。

初出:2021年5月7日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年5月23日「アレクセイの花園」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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