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セルゲイ・ロズニツァ監督 『ミスター・ランズベルギス』 : ロズニツァは、 鵜呑みにすることを 期待しているのだろうか?

映画評:セルゲイ・ロズニツァ監督『ミスター・ランズベルギス』

ロズニツァ監督には、アーカイブ映像を編集して、それにほとんど音だけをつけただけのドキュメンタリー映画(『国葬』『バビ・ヤール』等)と、ドキュメンタリー風の劇映画(『ドンバス』等)の両方があり、有名なのは、やはり前者の方であろう。

本作の場合は、基本的には前者となるわけだが、すこし変則的な作りになっている。
本作は、前者のような「リトアニアのソ連からの独立」に関わる各種のアーカイブ映像と、それを観た(独立運動の指導者であった)ヴィータウタス・ランズベルギスへのインタビュー映像という、まったく質の異なる「2種類の映像」が交互に登場する、というかたちになっているのだ。

つまり、完成した作品からすれば、いつものアーカイブ映画あとに、その「解説」となるランズベルギスのコメントが挟み込まれているという形式であり、ロズニツァのこれまでのアーカイブ映画が、「説明・解説」を極力排して、観客に自力での解釈・理解を求めたのに対し、本作では、言うなれば、ランズベルギスの立場からの「一方的な解説」が加えられるかたちなっている。

一一さて、私たちは、このロズニツァにおける「新形式」を、どう理解すべきなのであろうか?

『「ドンバス」「バビ・ヤール」のセルゲイ・ロズニツァ監督が、1991年にリトアニアをソ連から独立に導いた元リトアニア国家元首ビータウタス・ランズベルギスを取材したドキュメンタリー。

ピアニストで国立音楽院の教授を務めていたランズベルギスは、祖国リトアニアの主権とソ連からの独立を訴える政治組織サユディスの指導者となる。1990年3月の第1回リトアニア最高会議で議長に選出された彼は、ソ連に対して独立を宣言し、ゴルバチョフ政権との対立を激化させていく。

独立の気運を高めた連帯「バルトの道」、経済封鎖による物価上昇と社会的混乱、首都ビリニュスで起きた軍事占拠「血の日曜日事件」など、1980年代後半から1991年9月のリトアニア独立にかけて起きた歴史的な出来事をアーカイブ映像で振り返りながら、ランズベルギスが当時の熾烈な政治闘争と文化的抵抗について語る。』

セルゲイ・ロズニツァ監督は、映画評論家でもあるランズベルギスとは、この映画以前からの旧知の仲であり、リトアニアの非暴力による独立を主導した人として、ランズベルギスを個人的にも尊敬していたようである。

したがって、と言うか、本作を見ればあきらかなように、この映画は、ランズベルギスの立場を「正当」なものとする立場から作られている、とそう言っても良いだろう。何しろ、ランズベルギスに不都合な事実は、何ひとつ描かれてはいないのだ。
無論のこと、現実には、ランズベルギスに不都合な「歴史的事実」もあったはずなのだが、それはあえて排除されていると見て良いだろう。それが、まったく無かったから描かれなかったのだ、という考え方は、あまりにもナイーブすぎるし、あえて言えば、ロズニツァを盲信しすぎている、と私は思う。

しかし、ロズニツァ自身も、この映画が、「自分の立場」を明示したものになっていることは、重々承知していたであろう。一一と言うよりも、これまでの「解説・説明」を排したアーカイブ映画でだって、ロズニツァの立場はほとんどあきらかであり、それは「編集・モンタージュ」によって、そうならざるを得ないものであったはずだ。
そうしたアーカイブ映画が、「客観的中立」性を保ち得ていると考えるのは、ナイーブすぎると言うか、問題意識がなさすぎると言っても良いだろう。

したがって、今回の『ミスター・ランズベルギス』は、ロズニツァ自身の、もともと「暗示されていた(隠されてはいなかった)視点」を、ハッキリと明示したかたちの作品になっている、と考えるべきなのではないか。
つまり、これまでは「言葉」にして示しはしなかったが、「編集」における「解釈範囲の限定」あるいは「解釈の方向性の示唆」として示してきた「自身の視点」を、本作では、「ランズベルギスの言葉」に託して、直接的に語った、ということになるのではないだろうか。

その意味では、この映画で描かれるランズベルギスは、ランズベルギスその人をリアルに、全人格的に描こうとしたのではなく、ロズニツァの「政治家は斯くあるべし」という理想像に合わせるかたちで「切り取られた(編集された)」ものであり、あえて「それ以外の部分は、編集的に切り捨てた」ということなのではないか。

ただ、勘違いしてもらっては困るのは、「理想像から外れる部分は、意図的に切り捨てた」というのは、撮影したフィルムの編集において「実際に切った」、という話ではない。

もともと、ランズベルギス自身は、当然のこととして、自分に不都合なことなどは語らず、自分の描いた「絵」に沿って「リトアニア独立の真相」を語るのだから、ロズニツァの編集意図としては、「それをそのまま、注文をつけることなく」映画の中に取り込むのか、そうではなく「他の視点や立場や意見もあったのではないか、という注文」をつけて、そうしたものをも映画の中に取り込むのか、の「どちらか」ということになる。
で、普通であれば、「客観性を担保するため」に後者を選ぶのであろうが、この映画の場合は、あえてそれをせずに、ランズベルギスの意見を、そのまま受け入れている。
つまり、「理想像から外れる部分は、意図的に切り捨てた」というのは、「撮影したフィルムから、不都合な部分を切った」という意味ではなく、ロズニツァは「ランズベルギスの不都合な部分を、あえて最初から採り上げなかった」という意味なのだ。

だが、これはいったい何を意味するのだろうか?

もちろん、ロズニツァが、ランズベルギスに「肩入れしている」部分があった、ということはあろう。だが、それは、ロズニツァの、ランズベルギスに対する「心酔」的な肩入れであったとは、私は思わない。

もちろん、ロズニツァとて人間なのだから、個人的にもよく知っている尊敬すべき人物の「負の面」をわざわざ(探り出してまで)描こうとはしなかったのではあろう。
いずれにしろ、人間誰しも「負の面」というのは、「無い」わけではないが、ランズベルギスに関して言えば、それは彼という「象徴的な存在」の「本質」ではなく、「枝葉末節」的事実でしかない。だから、あえてそれを取り上げることは「無用の誤解を招く」ことにしかならない、とそう考えたのかもしれない。

しかし、私が思うのは、前述のとおり、ロズニツァの創作姿勢においては、観客に対し「自分の頭で考えろ」というものではあれ、その素材とするための「公正中立的な資料映画」を提供しているつもりはない、という意識は明確にあったはずだ。

「私の映画を観て、ソ連共産党の独裁政治が素晴らしいと感じる人はいないはずだ。なぜなら、それを私が批判的に見ているのは、その編集ぶりからも明らかであり、そのような意図を持った映画として作られているからである」という意識はあったはずで、だからこそ、わざわざ「ナレーション」などの「解説」を加える必要もなかったのであろう。

だとすれば、その、これまでは加えられなかった「解説・説明」が、本作では「ランズベルギスの言葉」として露骨につけられたのは、どういうことか。
それは「もう、あえて伏せる必要はないだろう。私は、この映画で描いて見せた、ランズベルギスの立場に立って、リトアニアの独立を理解し、支持してもいるのだから、そんな私の立場を理解した上で、さて、あなたは、この歴史的事件を、あなたの問題として、どのように考え、理解するだろうか?」と、そう問うているのではないだろうか?
つまり「私の立場を、無条件に信じ、支持するのですか? それとも注文をつけますか?」という「メタレベルの問いとしての挑発」を、この作品は発しているのではないだろうか。

実際、この映画を観て「ランズベルギスは立派であり、好ましい人物」だと、普通なら、誰でもそう思うだろう。また、浅田彰も書いていたように、それに対して「ゴルバチョフは、所詮は、ソ連体制を守るために、力でリトアニアの独立を妨害しようとした人物でしかなかった」というふうに考えるだろう。つまり、「ゴルバチョフの、巷間に流布したイメージなどに騙されるな」というわけである。

しかし、この映画を観て、そのように理解するのは、あまりにもナイーブではないだろうか?

つまり、そんな人なら、簡単に「プロパガンダ映画」に感化扇動されてしまうのではないだろうか?
なにしろ、この映画は、あきらかに「ロズニツァの立場」で、恣意的に「編集」された映画に他ならないし、ロズニツァ自身、それを隠してもいないからだ。

それでも、それを、そのまま信じて受け入れるというのは、ある意味で「ロズニツァ信仰」なのではあるまいか。
「これまでの作品を見ても、ロズニツァと私の立場はほとんど同じだし、その意味でロズニツァは信用に値する人だから、描かれ方が一面的だとしても、私はロズニツァが選択的に示したその一面を、事の本質的な部分であると信じる」という、「信者」の立場に立っている、ということにはならないのであろうか。

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では、私の「理解」、つまり本作を「どう見たのか」だが、無論、ソ連の他国支配は認めないし、その意味でリトアニアの独立運動も正しかったと思う。また、それを、命を賭して指導したランズベルギスも、非凡な人だったと思う。

そして、何よりも、リトアニアの人たちは、日本人に比べて、あきらかに「民度が高い」。
この映画では、リトアニアの人たち(庶民)の、良いところが中心に切り採られていたとしても、それでもやはり「日本人には、こんなことはできない」という感想は動かしがたい。

そもそも、こうした感想は、今回が初めてではなく、例えば先ごろ中国であった「ゼロコロナ政策反対デモ」や、そこで「たとえ、殺されることになっても、自由のないまま生きるよりは良い」と言っていた中国人の姿一つを見ても、「日本人にはできない」と思ってしまう。
「ミャンマーでの反クーデターデモ」や「上海での反中国支配デモ」でも同じで、ああいうのを見るたびに、少なくとも今の「日本人には、到底できない」と、私は一人の日本人として情けなくなってしまう。

言い換えれば「仮にランズベルギスが日本に生まれていたとしても、政治家として際立った仕事などできなかっただろう」と、そう思えるのだ。

ともあれ、このように私も、基本的には、本作におけるロズニツァと立場を共有するものだが、しかし、だからと言って、この映画が「真実のすべて」だとは思わないし、その意味では「全面的に信用」することもしない。

ロズニツァが、意識的に「切った」部分に注目する必要があると私は考えるし、むしろ、ロズニツァには「観客の問題意識を試す意図すら、あったのではないか」と疑っている。
映画パンフレットで誰かも書いていたが、それくらいロズニツァの「大衆に対する懐疑」は深いからだ。

だから、私は、まずランズベルギスを「この映画を観た程度のこと(映画パンフレット所掲のインタビューも含めて)」で、全面的に「この映画に描かれている姿がすべての、何も問題のない立派な人」だなどとは考えない。

神のみぞ知る「事実」は、そうなのかもしれない(その可能性は否定できない)が、それを知り得ない以上、私は「一定の懐疑」を持つことは「必要なこと」だと考えるので、ランズベルギスには申し訳ないが、私は「この程度では、あなたを絶賛したり、盲信したりはしませんよ、残念ながら」と言っておきたい。

逆に、この映画では「悪役」を振られて、「一般的なイメージの、修正が迫られている」ゴルバチョフについて、この映画の大方の観客に評価に抗して「いや、彼は、十分に立派な人でしたよ。彼の立場では、あれが限界だったのではないですか?」と擁護しておきたい。

無論、彼が、必ずしも、自らの好まない「強権的暴力」に訴える決断をしなければならなかった立場にあったのは、そもそも「ソ連の共産党体制の中で、自ら望んで出世したのだから、彼が悪い。それは彼の、自己責任だ」とは言えるだろう。

だが、であるとしたら、私たち自身は、どうなのだ?
この、今の日本の中で「出世」することは、「悪」ではないのか?

無論、出世したくても、ゴルバチョフのような立場にまで実際に出世できる人は少ない。だから、その「立場」での「非情な判断」を迫られる立場に立つことも、ほとんど無いのであるが、しかし、それは所詮、あなたが無能であるための「結果論」であって、あなたは望んで「出世しなかった」わけではないだろうと、私はそう言いたいのだ。

つまり、日本の政治家を見ても分かるとおり、最初から「自分の利得」しか考えないで政治家になったような者は論外として、当初は理想に燃えて政治家になった人が「選挙に負けては、政治家としての仕事はできない。理想を実現することはできない」といった「目の前の(小さな)現実」の前で妥協を重ねていき、いつしか「理想も持っている、汚職政治家」になっているといったことは、ごく普通にあるだろうし、あなた自身が、理想を持って政治家になろうとした場合、果たして、この罠にハマらないという自信があるだろうか? 

もしも、一切妥協せず、あらゆるレベルにおいて「アンフェアな手段は採らない。それを少しでも採るくらいなら、私は政治家になれなくても良い」と、そこまで徹底できるだろうか?

私は、そんな人は、まずいない、と思う。
なぜなら、多くの人は「大の虫を生かすには、小の虫を殺すのもやむを得ない(トロッコ問題トリアージ問題)」と考えるだろうし、ましてや天下国家を動かす「政治家」になろうとするような人なら、政治家になる手前で、個人的な理想にこだわって、大きな理想を捨てるなんてことはできないと思うからだ。そんな人なら、初めから、政治家になろうなどとは思わない。
つまり、完璧な「潔白」を目指すとするなら、政治家に限らず、「出世しよう」「社会に影響力を行使できる立場に立とう」などとはしないと、そう思うからである。

つまり、ゴルバチョフだって、ランズベルギスと同様、それなりの「理想」があって政治家になったのだろう。だが、彼の生きた時代の祖国は、好むと好まざるとにかかわらず、あの「ソ連」であったのであり、彼はその祖国「ソ連」が、他国に対して多くの「悪」をなしていると知っており、それが好ましいことではないと理解していたとしても、ひとまず「他国の権利よりも、祖国の防衛」を優先しなければならない立場にあったと、そう言えるのではないだろうか? 

例えば、ランズベルギスが、ソ連に生まれて、傾きかけた国家の立て直しを任される立場にあったとしたら、彼は「祖国ソ連は、世界のために潰れるべき」だと考えて、その「要請」を断ることで、「見殺し」を選んだだろうか? それとも「できる範囲で何とかしたい」と考えて、その要請を受けただろうか?

だが、その要請を受けてしまえば、有能な彼は、あとはゴルバチョフと同じ道をたどったのではないだろうか。
「祖国独立のためには、多少の犠牲者もやむを得ない」というランズベルギスのギリギリの選択と同じように、「祖国ソ連を守るためには、ソ連邦が解体して国民の多くが苦しまないためには、他国には申し訳ないが、ひとまず犠牲になってもらおう」とは、考えなかっただろうか?

ランズベルギスは、ゴルバチョフを「結局のところ、ソ連の帝国主義体制を守ろうとしていただけで、民主的な社会を望んでいたわけではない」と断ずるけれども、それは仕方のないことなのではないだろうか?

そんなに簡単に、ソ連が民主社会国家に変われるのなら、ゴルバチョフもそれを望んだ公算は十分にある。
しかし、それを達成するのに、どれほどの犠牲を伴うことになるのかと考えた場合、彼がひとまず「現状維持」を考えたとしても、それはごく常識的な判断だったとは言えまいか。

独立を宣言したリトアニアの側でも、共産党議員だけではなく、基本的にはランズベルギスと同じサユディスの出身であろう女性首相ブルンスキエネが「ソ連の顔色を窺いながら、話を進める」という立場を主張して、ランズベルギスを悩ませたという事実が、本作では「妥協的な政治家」とか「獅子身中の虫」ででもあるかのように描かれているが、彼女の判断とて、決して間違いではないはずだ。

結果としてソ連は「本格的な軍事的侵攻により、リトアニアの独立を叩き潰す」という暴挙には出なかったが、その可能性は十分にあった。
ランズベルギスは、「非暴力による独立維持」は、ぎりぎりで可能だと読み、あえて「非妥協路線」を採ったわけだが、それは「鋭い読み」と「幸運」の相半ばしたものであり、それが「完全に正しい選択だった」ように見えるのは、結果論でしかなかったのではないか。

ランズベルギスは「ゴルバチョフは、開明的な民主政治を目指す政治家であることを西側にアピールし、西側の援助によって、現体制を守ろうとしているから、強硬措置には出られないはずだ」と読んで、「非暴力による独立維持」は可能であり「非妥協路線」こそが正しいと読んだわけだが、かの女性首相ブルンスキエネは、その「読み」を「あまりにも危険な賭け」だと見たから、「ソ連の顔色を窺いながらの綱引き」の必要性を認めていたのである。

そして、この両者(ランズベルギスとブルンスキエネ)の「情勢判断の是非」は、当時の緊迫した状況においては、どちらが正しいかなど、そう簡単に断定できるものではなかったはずで、「無難」路線を選んだブルンスキエネの立場を、「腰抜け」呼ばわりできる、「責任のある立場の人間」など、いないのではないだろうか。

つまり、ランズベルギスの判断が「全く正しかった」というのは「結果論」でしかないと、私には思える。
そして、私は「結果論」を採らないし、「冒険主義」も採らないから、ランズベルギスの判断が「完全に正しかった」とも評価しないし、いま現在の彼の「情勢判断も、必ずしも正しい」とは思わない。
つまり、ロズニツァが彼を支持しているからといって、「ランズベルギス」信者になろうとは思わない、ということである。

そしてこれが、この映画の「問い」に対する、私の回答だ。
ロズニツァに示した「解釈・説明」に盲従するのではなく、それ以外の部分にも目を向けて、自分なりに考えて出したのが、この回答なのだ。

ロズニツァが、この映画の観客に何を期待していたのか、本当のところは、ロズニツァ本人以外、誰にもわからない。
だが、いずれにしろ、ランズベルギスが語った「解釈」を鵜呑みにするだけなら、「愚かな大衆」にでもできること、なのではないだろうか?

そしてそういう「あまり考えない人」は、自分が「ゴルバチョフの立場」に立たされた時には、「本意ではないけれども、立場上、致し方ない」という発想を、あっさりと自身に許してしまうのではないだろうか?

あなたは「この問題ある日本」の中では、一切の「責任ある立場」を拒否することができるのか?
つまり「出生の罠」にハマらずにいられるのか? 現に、そんなストイックで「超俗的」な生き方を、積極的に選択しているのか?

また、あなたがこの「日本社会」の中で、何らかの「立場」を得ていたとしたら、あなたは現に「その立場責任を引き受けた行動」をしてはいないだろうか?
言い換えれば「自分の立場責任なんかより、ワールドワイドな客観的公正さ」を優先して生きているだろうか?

しかし、そんな人なら、現に「肩書き」を得ていることなどあり得ないと、私は思う。
なぜなら、それは「完璧に身ぎれいな、日本の政治家」などいない、というのと「同じことだ」と、私は考えるからだ。

あなたは、車のまったく通らない真夜中の通りで、歩行者用信号が赤だからと、いつでも完璧にその信号を守れるだろうか? 「誰も見ていないし、誰にも迷惑をかけるわけではないんだから、そこまで守る必要などない」と、私などは考えてしまうから、怖くて「出世」などできないのである。

そして、そうした意味では、ゴルバチョフは「ついていなかっただけ」であり、ランズベルギスは、リトアニアに生まれて、ある意味では「ついていた」とは言えないだろうか。

だが、私たち自身は、「つき(幸運)」に期待して、人様の命に関わる、政治を動かすわけにはいかないのである。


(2022年12月16日)

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