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京極夏彦 『今昔百鬼拾遺 天狗』 : 祈りとしての〈呪〉

書評:京極夏彦『今昔百鬼拾遺 天狗』(新潮文庫)

「被害者の服装」が謎解きのポイントとなる「本格ミステリ」作品は、決して少なくない。本作においても、前半はそうした「謎解き」興味で引っぱりはするものの、しかしこれは、本筋ではない。と言うのも、後で被害関係者が増えていくからで、これは「本格ミステリ」としては、あまりスマートなものとは言えないからだ。
しかしまた、前作『今昔百鬼拾遺 河童』においても明らかなように、著者・京極夏彦の興味は、すでにそんなところにはない。と言うか、デビュー当時から、そんなところには無かった。
彼の興味は、いつでも「憑き物」を呼び寄せてしまう、「人の心」という不可解で理不尽なものに向っていたのではないだろうか。いつの世にも人の心に憑いているそうした「憑き物」を落とすために、彼は小説というかたちでの、言葉による「呪」を放っているのではないだろうか。

そんなわけで、本作のテーマは「偏見」である。

「偏見はいけません」「差別はいけません」という話なら、誰でもいちおうは理解しているつもりであろう。だが、事はそんなに簡単なものではない。なぜなら、「偏見」というものは、その人に憑いて、その人の一部になっているのだから、それを認識することは極めて困難だからだ。

誰が、自分の身体の一部だと感じているものを、「偏見」だと思うだろうか。その目が、その脳が、その心臓が、その右腕が「偏見」であろう可能性を、考慮などできようか。そんなことは普通できないのだ。
だから人は、「私は偏見を持っている。偏見とは、私のおぞましい一部分である」とでも思わないかぎり、決して「偏見の存在」と向き合うことはできない。
言い変えれば、自分には「偏見が無い」とか「ほとんど無い」などと思っていること自体が、自身に対する「偏見」であり、「偏見はいけません」「差別はいけません」と言われて「そんなこと、わかっている」と思う人は、自己過信という意味において、自身に「偏見」を持っている。
「偏見」の難しさとは、それが「他人」に対するものには止まらず、何よりも「自分」自身に対するものだからなのだ。

本作においては、篠村美弥子によって、胸のすくような「偏見」批判がなされる。それに拍手喝采をおくる読者は少なくなかろう。
しかし、中禅寺敦子の「偏見」に対する懊悩は、もっとリアルである。それは「偏見」を我がことと捉え、はたして「偏見無くして、思考があり得るのか」と考えているからである。そもそも「この世界に、アプリオリな意味はあるのか。根源的な正邪善悪はあるのか。無ければ、どうすればいいのか」と。

偏見批判くらいなら、この作品以前にも多くの作品で語られている。有名作例としては、例えば、島崎藤村の『破壊』があり、住井すゑの『橋のない川』があり、大西巨人の『神聖喜劇』もそうであろうし、中上健次の作品の多くもそうであろう。しかし、そうしたものがあっても、「偏見」や「差別」が無くなりはしなかったし、これからも無くなりはしないだろう。
本作において、中禅寺敦子や篠村美弥子、あるいは呉美由紀が、いかに切実に「偏見」を告発しても、それを「他人事」として読み、拍手喝采を送って「娯楽として消費する」だけの読者が大半なのだと、私にはそう思えるのだが、果たしてこれは、悲観的に過ぎようか。

多くの人は、作中にも描かれたような「度しがたい偏見の持ち主」と、直接対峙したことなどないはずだ。
例えば、ネット上に掃いて捨てるほど存在する「差別主義者」や「ネット右翼」に対して、「それは間違っていますよ」と直接批判した人など、ほぼいないのではないか。いたとしても、その「お話しにならない、度し難さ」に辟易して、二度と相手になどすまいと考え、あとは当人たちのいないところで「あいつらはクズだ」と吐き捨てるように言うだけだろう。

たしかに彼らは「クズ」だ。だが、「紙くず」でも「ゴミくず」でもなく、「人間のクズ」なのだから、彼らを「紙くず」や「ゴミくず」扱いにすることもまた、「偏見」なのである。

だが、それを反省する人は少ない。なぜなら、彼らのような「度しがたい」人間は、同じ「人間」ではなく、いっそ焼却処分にしても良いような、単なる「ゴミくず」だと考えた方が、気が休まるからである。そうした「偏見」を持っている方が、楽だからだ。つまり、自身が「天狗(もどき)」になるのである。
「偏見」とはもともと、同じ「人間」であると認めたくない人間を、「別物」扱いにすることなのだ。それを「神様」扱いにするのも、「ごみクズ」扱いにするのも、どちらにしろ「偏見」なのである。

こうした、人間における根源的な「呪い」に対して、京極夏彦は「言葉という呪」を用いて抵抗する。
この世は、まさに「百鬼夜行」であり、そこかしこに「偏見」という「化け物」が蔓延っているのだが、それに抵抗するのは「理性の言葉」しかない。

京極夏彦における「呪」としての「理性の言葉」とは、畢竟「人間に対する、祈り」なのではないだろうか。
なんど苦虫を噛み潰そうと、それでも「人間に絶望しない」。そうした、自分自身に対する「呪」なのではないだろうか。

初出:2020年8月13日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)




































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