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デヴィッド・ロウリー監督 『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』 : 死後の魂が あったとしたら…

映画評:デヴィッド・ロウリー監督『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』(2017年)

とても私好みの映画であった。ということは、少々浮世離れしていて、好みの分かれる作品なのかもしれない。

しかしまた、「映画.com」の本作紹介ページをご覧いただければお分かりのとおり、本作は「映画.com ALLTIME BEST(1200)」に選ばれてもいる。

この「映画.com ALLTIME BEST」というのは、次のようにして選ばれた、更新制のランキングだ。

『「映画.com ALLTIME BEST」は、映画.comスタッフ・映画.comに寄稿いただいている映画評論家の方々のセレクト・映画.comユーザーのレビューや5つ星スコアなどを総合し、「いつ見ても素晴らしい、時代を超えて愛される名作映画」1200本を選出したものです。ご家庭での映画鑑賞にお役立てください。なおこのリストは、年に一度更新します。』

つまり「映画評論家やマニアに評判の良い映画」ということができるだろう。
もちろん、1200本も選んでいるんだから、かなり票が割れてもいて、何人かの熱心な評論家やマニアが票を入れれば、それで残ることになるのかもしれず、「評論家やマニア一般」に評価が高い、とは言えないのかもしれない。

ともあれ、2017年の作品だから、少なくとも6年間は、消えないで生き残っているというのは事実で、その意味では、一時的なものではない評価を勝ち得た作品だ、とは言えるだろう。
高評価した評論家やマニアは、かなり本作を偏愛しているということになるのかもしれない。

さて、映画マニアでもない私が、どうしてこの6年前の作品を観たのかというと、それは先日読んだ、蓮實重彦『見るレッスン 映画史特別講義』中で、蓮實が本作を、近年の収穫として高く評価していたからである。

ただ、ゴダールがそうであるように、蓮實の褒める作品が、必ずしも私の好みに合うわけではないから、蓮實が褒めたから観たというわけでもない。

蓮實が褒めていたものの中で、私の「好み」に合いそうなものと、基礎教養として観ておいた方が良さそうな「古典的名作」や「名監督の作品」は観ておこうと考え、本作の場合は『私の好みに合いそうなもの』としてのセレクトしたのだが、それがうまく当たったというわけである。

そんなわけで、本作は「蓮實重彦ご推奨」の作品だから、もしかすると「映画.com ALLTIME BEST」に本作を推したのも、蓮實重彦とそのシンパだったのかも知れない。上のサイトでは、具体的な選者名や得票数までは、紹介されていない。

ところで、私は先日、蓮實重彦オススメの映画監督・溝口健二の映画を初めて鑑賞した。『雨月物語』である。
蓮實の『見るレッスン』の中で挙げられていた、溝口の代表作ではないのだが、何本か観るつもりなのと、安く手に入ったので、ひとまずこれを観たのだ。

(『雨月物語』の京マチ子。こちらも亡霊)

で、どうだったかというと、悪くはないし、モノクロの雰囲気がある画面が面白くもあったが、特に論じたいような内容もなかったので、こちらのレビューは書かなかった。

この映画は、上田秋成『雨月物語』を原作に、モーパッサンなどを加えて脚色した、オリジナルストーリーとなっている。
『雨月物語』だから、当然のことながら「死霊」だの「呪い」だのが出てくるのだが、内容的には、いささか「まともな教訓倫理的なもの」に仕上げられていて、真面目なテーマではあるが、特にどうということもなかった。
なお、上田秋成の方は、ずいぶん昔に読んでいて、大まかなところは、なんとなく覚えていた。

閑話休題。
話を本作『A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー』に戻そう。

本作のストーリーは、いたってシンプルである。

「映画.com」のストーリ紹介だと、次のようになる。

『不慮の死を遂げた男がシーツを被った幽霊となって、遺された妻や世の移り変わりを見守り続ける姿を描いている。』

実際、これだけなのである。
つまり、この映画は、「ストーリー」の起伏で観せるような作品ではなく、悠久と呼んでいいような時間の中で、基本的には「傍観者」として、「この世」を見守るだけの「幽霊(死後の霊)」の、諦観にみちた静謐な世界を描いているのだ。
(この点で、ちょっと、クリストファー・ノーラン監督の『インターステラー』に似たところのある作品だが、あれほど「理屈っぽい」はない)

だから、そうした諦観にみちた静謐な世界に浸れる人は、滅多に味わうことのできない「独特の味を持った映画」として本作を楽しめるのだが、当たり前のエンタメ映画を期待した人は「なんだこれ? 退屈な映画」ということになってしまうだろう。

また、同様の意味で本作は、先日ご紹介した、アレクサンドル・ソクーロフ監督の『独裁者たちのとき』と、ちょっと似ている。
どちらも「亡者の(変化のない)生活」を描いているからだが、しかし、ソクーロフの場合は、独裁者たちの死後を描いていたから、その描き方には「毒」があって、そこが愉快でもあったのだが、それに比べると、「普通の人」の「死後」を描いた本作は、普遍的なものとしての「死」を描いていて、その世界観は、前記のとおり「諦観に満ちた静謐なもの」であり、攻撃的だったソクーロフ作とは真逆に、「真面目で大人しく上品」な作品だとでも言えるだろう。つまり、これはこれで、ソクーロフ作とは対極的な魅力を持った作品なのである。

さて、ここからは、本作を論じるために、もう少し詳しく、本作のストーリーを紹介しよう。

【※ 上記のとおり、本作はストーリーがどうのというような作品ではないものの、ストーリーを詳述すると、若干「ネタバレ」的になる部分もあるので、未鑑賞の方はご注意ください】

時代ははっきりしないが、ほぼ現代(の少し前?)のダラスの郊外の一軒家に、若い夫婦「C」と「M」が住んでいた。
夫の「C」は作曲家で、二人とも上品で知的で優しい感じの、お似合いの仲睦まじいカップルである。(※ 主人公の二人には、名前はなく、このような略称に呼ばれている)

ただ、この家は、妙な「家鳴り」がして、ちょっと薄気味悪いところがあり、妻の「M」は、この家に馴染みきれない。一方、夫の「C」は、この家が気に入っていて、「M」の引越しの提案には消極的である。

そんなある日、夫の「C」が、交通事故で死んでしまう。
病院の遺体安置室の中央には、「C」の遺体を横たえた移動式の寝台が置かれて、すっぽりと白いシーツが被せられている。
遺体の確認をするために同所を訪れた「M」は、「C」の上に掛けられた白いシーツが職員によって胸のあたりまでめくられ、遺体が「C」であることを確認すると、しばらくして黙ってシーツを掛け直し、硬い表情のままその部屋を立ち去る。「M」は、ショックで声も涙も出なかったのであろう。

「M」が遺体確認し、そして立ち去っていくのを、開いたドアの外(廊下)から撮したアングルのまま、しばらく、「C」の遺体の乗せられた移動式新台のある無人の遺体安置所が、長回しで撮られているのだが、突然、寝台のシーツの上半身部分が、むっくりと持ち上がる。そして、全身をシーツに覆われたままの「C」が、ベッドを降りて、部屋を出ていってしまう。

「C」らしき「白いシーツをお化け」は、そのまま病院の廊下を堂々と歩くのだが、誰も彼の存在に気づかない。つまり、この「白いシーツをお化け」は、文字どおり、「Cの幽霊」だったのである。

こうして、「Cの幽霊」は、懐かしき我が家に戻ってくる。しかし、生者である「M」と、コミュケーションをとることができない。
基本的には、彼(Cの幽霊)は、外に出ることはなく、家の中にいて、「M」のそばで、彼女を黙って見守ることしかできない。たまに、癇癪を起こして、物を棚から落としたりなどして、物音を立てたりはするが、それ以上のことはしない。

「Cの幽霊」は、声を発しないし、表情も見えないから、何をどの程度考えているのかが、よくわからない。生前とまったく同じような思考をしているようには思えない。やはり、死んでしまえば、感覚も変わり、思考様式の変わるのではないだろうか?

「M」は、「C」との思い出の家に、しばらくは住んでいたが、やがて引っ越しを決断する。
「M」は、家財を片づけると、最後に屋内のペンキ塗りまで始めるのだが、その際、思いついて、小さな手紙を書き、それを壁と柱の隙間に突っ込むと、上からペンキを塗って、隙間を埋めてしまう。何を書いたのかはわからないが、とにかく「秘密の置き手紙」というわけである。

その後も、「Cの幽霊」はこの家に居つづけた。
つまり、「M」を追って移動しはしなかったのだが、「幽霊は、家に憑く」ということなのかもしれない。

というのも、ある時、「Cの幽霊」が窓から外を眺めていると、隣りの「空き家」の窓にも、自分とそっくりの、白いシーツのお化けが立っており、こっちを見ているのに気づいた。
離れた窓越しに「Cの幽霊」が「隣りの幽霊」に挨拶すると、相手も当たり前に挨拶を返すので、「Cの幽霊」が「何をしてるんですか?」というようなことを尋ねると、相手の幽霊は「人を待ってるんだ」と答えるので、さらに「誰を待ってるんです?」と尋ねると、相手の幽霊は「忘れちまった」というような返事を返したのである。
どうやら、幽霊どおしなら、少し離れていてさえ、会話が可能のようなのだが、ともあれ「幽霊は、家に憑く」ということのようだ。

したがって、「幽霊」は、「愛着のある人」に憑くのではなく、「愛着のある場所」あるいは「家」に憑くということなのだろうか。
日本だと「恨みを残して死んだ場所」に憑いて、「地縛霊」などと呼ばれることもあるが、西欧の「幽霊」は、「幽霊屋敷」がそうであるように、おおむね「住んでいた家に、住み続ける」ということのようである。

そんなわけで、「M」が去っていった後も、「Cの幽霊」は、その家に残ったまま、代替わりする住人たちの生活を見守り続ける。
「M」が住んでいた時には物静かだった「Cの幽霊」も、後の住人によっては、時に苛立ち、一度などは住人の目の前で、テーブルをひっくり返し、棚の食器類を盛大にぶちまけて大暴れなんてこともした。
その結果、その時の家族は、この家を出ていってしまう。まさに「ポルターガイスト(騒々しい霊)」現象の起こる「お化け屋敷」だとわかったからだろうが、それでも幽霊の存在など信じない酔狂な住人が、新たに入ってきたりした。

「Cの幽霊」は、住人がいる時期もいない時期も、折に触れて、「M」が壁の隙間に遺していった手紙を取り出そうと、壁をカリカリと掻くのだが、シーツで覆われた指先では、それもまったく捗らなかった。だが、彼には、時間だけはあったのである。

彼は、もはや住む者のない古びた廃屋となった家で、手紙に取り出し作業に専念していたのだが、あと一歩というところで、いきなり、背後の壁が窓ごと、外から粉砕された。一一それは、廃屋の解体作業に入った、ユンボによるものであった。
ユンボは、あっという間に家をとり壊してしまい、「Cの幽霊」は「M」の遺した手紙を取り出すことができなくなってしまった。

取り壊された家の廃材の上に、ぼんやりと佇む「Cの幽霊」。
隣りを見ると、隣りの空き家も解体されて、そこにも先般の(?)幽霊が立っている。そして、「Cの幽霊」がそちらを見ていると、隣の幽霊は、しばらくして、一瞬で空気が抜けたように、シーツだけを残して消えてしまった。
もちろん、シーツだって、実在していないのだから、要は幽霊が「消えた」ということなのだろう。どうやら、幽霊といえども永遠の存在ではないようで、ある条件が整うと消えてしまうようなのだ。
日本だと「成仏した」といったところだろうが、西欧の幽霊だから、「成仏」というのとは違って、たぶん「消滅した」だけなのであろう。

では「なぜ消えたのか」。一一それは謎である。

というのも、少なくとも「Cの幽霊」は消えないのだから、「家がなくなったから、そこに憑いていた幽霊も消えた」ということではないようだ。

だとすれば、隣りの幽霊は、家を潰されたことで「待つことを諦めた」から消えたのであり、一方「Cの幽霊」の方は、「場所(土地)」への執着か、あるいは「M」への執着がまだあって、その執着が家を潰されただけでは消えなかったために、自身も消えることはなかったのだと、一応、そのように考えることができよう。

そして、その後だが、「Cの幽霊」は、そのままその場所に佇みつづけ、彼を取り巻く時間はどんどんと(加速度的に?)流れていく。
彼が生きていた頃には「郊外」だったのが、やがて家が立ち並んで街になり、やがては高層ビルの立ち並ぶ、近未来的な大都会へと変貌する。

彼の家の建っていた場所にも、巨大なオフィスビルが建ち、彼はその中を彷徨うのだが、ある時、ビルの屋上に出て、そこから、はるかな地上へと飛び降りてしまう。
たぶん、世界に取り残された孤独な自分をはかなんて、自殺したかったのであろう。

で、どうなったか。一一気づいた彼は、灌木のまばら平原の中に立っている。
そこへ幌馬車がトコトコとやってきて、両親と娘の親子が馬車から降りてきて、火を起こして食事の用意を始める。
その服装は「西部開拓時代」の庶民という感じだ。
彼らは、食事に前に、家族そろって神への感謝のお祈りをする。間違いない、そこは「昔のアメリカ」であり、たぶん「後のダラス」だ。

ところが、「Cの幽霊」の感覚で言えば、すぐに、その家族は殺されてしまう。
倒れている父親の背中には弓矢が2本刺さっている。そばでは、幼い娘も背に弓を受けて死んでいる。どうやら、インディアンの襲撃を受けたようだ。
で、次の瞬間には、哀れな娘の死骸も、腐敗を終えた茶色い骸骨と化している。時間の流れは早い。

そして彼は、いつの間にか、もとの我が家に戻っていた。

たぶん、世界の時間はループしており、ひと巡りしたということなのだろう。
家の中には、「M」と「自分=生前のC」がいて、「Cの幽霊」が生前に経験したことを、そのまま繰り返している。
一一ただし今の場合、家の中で、不審な物音を立てるのは、帰ってきた「Cの幽霊」である。「C」と「M」の夫婦の家で、不審な物音を立てていたのは、実は、その時はまだ生きていた「C」とは別(?)の、「Cの幽霊」だったのである。

したがって、「M」が不審な物音に怯え、引っ越しをしたがったのに対し、「C」が家を気に入っていたというのも、わからない話ではない。なにしろ、そこにいた物音の犯人は、自分の幽霊なのだから、それを怖いとは感じなかった、ということなのではないだろうか。

とは言え、当然の流れとして、「C」は交通事故で死んでしまう。
でどうなったかというと、「M」が一人で暮らすその家に、やはり「Cの幽霊」が病院から帰ってきて、要は「Cの幽霊」が、「二人」になってしまうのだ。
そして、第二の(新しい方の)「Cの幽霊」は、第一の「Cの幽霊」の存在に気づかない。同じ幽霊でも、存在の次元が違うということなのだろう。

で、第一の「Cの幽霊」は、その後の展開を知っているから、もはや、積極的に見守るべきものもない。
ただ、彼に引っ掛かっていたのは、「M」が残した、壁の中の手紙であり、第一の「Cの幽霊」である彼は、その手紙の取り出し作業に専念することになる。

そして、とうとう彼は、今度こそその手紙を取り出し、それを目の前で開いて読んだその瞬間、白いシーツを残して、消えてしまうのだった。

 ○ ○ ○

さて、その手紙には、何が書かれたいたのであろうか。

これは、本当か嘘かはわからないが、監督のコメントによると、内容は決めていなかったそうで、「M」役の女優に、「M」としての想いを自由に書いてもらった、というのである。そして、その手紙の内容は、映画と同様に「秘密」のままなのだそうだ。

「Cの幽霊」は、その手紙を読んだせいで消えたのだから、ごく普通に考えれば、その手紙には、「M」の「C」に対する、永遠の愛の言葉が綴られていた、とでも解するのが、無難至当なのであろう。
そのことで、「Cの幽霊」からは、「この世」や「M」に対する執着が消えて、いわば「成仏」的に消失したと考えるべきなのだろう。

ただ、この「謎」の解釈には、そもそも「正解」はない。
それは、本作を観た者がそれぞれに考えるべきことであり、それは、「手紙の中身」だけではなく、「生きるということ」「死ぬということ」の意味を、自分なりに考えてもらおうというのが、たぶん、この映画の意図したところであって、当たり前の「正解」なんかは、どうでも良かったはずなのである。

で、私自身は、この映画をどう考えるのかというと、『「生きるということ」「死ぬということ」の意味を、自分なりに問い直す契機を与えてくれる映画』だ、一一とは思うのだけれど、なにしろ私は、確信犯的な「無神論者」なので、「死後」を考慮に入れて、人生を考えることはない。
「人間、死んだらそこで終わり」であり、だから「生きている間はせいぜい楽しく充実した、納得のいく人生を送りたい」と、それだけである。

ただ、子供の時分は「無神論者」ではなかったから、「死んだらどうなるんだろう?」などとあれこれ考えをめぐらし、「知っている人が誰もいない世界で、ずーっと生きていく(?)のは嫌だなあ」とか「誰とも話もできないなんて嫌だ。それなら消えてなくなってしまったほうがいい」とか考え、「消える」というのも、それは「意識まで完全に消える」ということであり、「真っ暗な、何もない世界に入っていく」みたいなのは「嫌だなあ」などと想像し、少し怯えたりもした。
だから、この映画で描かれている「気分」が、まったくわからないというわけではないし、だからこそ楽しめもしたのだろう。

だが、「無神論者」である今の私にとっては、やはり、この映画の「思考実験」的な部分は、あまり興味を持てない。
私が楽しんだのは、あくまでも「もしもの世界の雰囲気」であって、それが「意味したもの」ではない。

したがって、実際のところ、「M」の残した手紙の中身も、どうでもいいと言えばどうでもいい。
それが、「M」の「C」に対する「永遠の愛の言葉」なんかだったら、いささか「ベタだなあ」と思うだけだから、作り手が、手紙の中身を特定しなかったのは、作劇的に正解だったと思う。

だから、ちょっと冗談半分に言わせて貰えば、「Cの幽霊」の読んだ手紙の文面が、

「次回に続く」

でも、まったくかまわないのである。

そうであったなら、「M」は、とんでもない霊能力者だったのか、あるいは、何か別の思いがあったのか、それは「謎」ということになるし、「Cの幽霊」が消えた理由も、それはそれで色々と考えることもできるからだ。

 ○ ○ ○

ちなみに、蓮實重彦は、本作についても、まずは「絵としての見せ方が上手い」という点を褒めていたが、たしかに非常に「絵」を作るのが上手いと監督だと、私も感心した。

私の場合、ゴダール作品の場合がそうであるように、「絵」だけで満足することはできないから、この監督の作品も、中身によっては楽しめないかも知れず、この作品がいささか変わった作りであるために、かえって、他の作品までぜんぶ観たいとまでは思わないものの、いずれにしろ、良い作品を紹介してもらったと感謝している。

機会があれば、他の作品も観ても良いと思う。


(2023年7月10日)

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