見出し画像

植木雅俊訳・解説 『現代語訳 法華経』 : 神仏にすがらない 〈人間のための教え〉

書評:植木雅俊訳・解説『現代語訳 法華経』(角川ソフィア文庫)

本書は、「漢訳(中国語訳)」以前の版で、より原型に近いと考えてよいサンスクリッド語版「法華経」のから翻訳であるが、一般読者向けに「縮訳」となっている。また「縮訳」と言っても、割愛されているのは「繰り返し」の部分であって、決して内容的に薄まっているわけではない。なにしろ昔の経文なので、(独特の文体として)今の感覚からすれば無駄としか思えないような「繰り返し」が、とにかく多いのだ。

たとえばこんな具合である。
釈尊が「これこれはこうだから、こういうことになるのであって、それはこういうことではなく、こういうことなのである」と説明すると、それを聞いた菩薩が「おっしゃっているのは、これこれはこうだから、こういうことになるのであって、それはこういうことではなく、こういうことなのである、ということですね」と受けて、それに対し釈尊も「そのとおりである。私が言ったのは、あなたが言うとおり、これこれはこうだから、こういうことになるのであって、それはこういうことではなく、こういうことなのである、ということに間違いない」というふうな会話になっているし、「喩え」も過剰で「その法門は、Aのようであり、Bのようであり、Cのようであり、Dのようであり、Eのようであり、(…)Xのようであり、Yのようであり、Zのようでもあるのだ。」といった調子なのである。

無論これは「釈尊の教えを、一言たりとも揺るがせにはしない」とか「より厳密に」という強い信仰心から出ている文章形式なのだろうが、今の一般読者に対して、その形式を忠実に再現して提供することに、さほどの意味はない。と言うか、今でなら、読みにくいだけの「繰り返しの多い悪文」ということにもなりかねず、そのために肝心の「教え」を読んでもらえないのでは本末転倒なので、言わば「方便」として、「繰り返し」部分など、内容に関わらない「形式」部分をバッサリと切って、スマートにしたのが、この「縮訳版」でなのである。
そして付け加えるなら、むろん訳者は「法華経」研究の第一人者であるから、サンスクリット語の原文に忠実な、現代日本語「完訳本」も出しているので、そっちの方が良いという奇特な素人や研究者は、初めからそれを読むべきであろう。

さて、長らく「詠唱するため経文」としてしか知らなかった「法華経」を、訳者による解説付きの「現代日本語訳」で読んでみてわかったのは、「法華経」自体には「宇宙の法理」みたいな、「トンデモない話」や「難解な話」などは書かれておらず、結論として言えば、「釈尊の教え」であるこの「法華経」を保ちなさい、ということしか書かれていない。そして、この「法華経」がどれくらいすごいのかということを、釈尊が菩薩たちに、教えを説き、布教の使命を与えた「物語」として描いているだけである。
ただし、では「法華経の教え」が何も語られていないのかと言えば、無論そんなことはない。それは、釈尊が菩薩たちに教えを語る「姿(態度)」において、言わば象徴的に語られているのだと言えるだろう。そして、その教えとは「徹底した平等主義による、人間救済の意志」である。

訳者の解説にもあるとおり、「法華経」において、「物語」として象徴的に語られている「釈尊の教え=法華経の教え」とは、決して「神秘主義」や「オカルト」的なものではないし、人間が人間以上のものになることを目指す「超人指向」や「超能力主義」などでもない。そのような、浮世離れした「知的エリートのためのファンタジー」ではなく、普通の人々がいかにすれば「心穏やかに活き活きと生きる」ことができるようになるのかを説いた「リアルな人生哲学」だと言えるだろう。
ただし、そういう「リアルかつ、地味に見える教え」というのは、「手っ取りばやく楽になりたい」とか「超越的な権威にすがりたい」という大衆には(当時も今も)ウケが悪いために、当時のインドで流行っていた「宗教的絵空事」のイメージを援用して、釈尊本来の「人生哲学」を間接的に語ったのが、この「法華経」なのである。

例えば、訳者は「法華経」の第19章にあたる「常不軽菩薩品(第二十)」を解説して、次のように書いている。(※は、引用者補足)

『 仏道修行の基本である経典読誦をやっていなかったこの(※ 常不軽)菩薩の(※ ただ、すべての人に対し「私は、あなたを軽んじない」と礼拝し続けるという)振る舞いが、『法華経』(※ の教え)に適っていて(※ 釈尊の教えをすでに)自得した(※ していた)ということになると、ここには重要なメッセージが込められていることになる。「誰人も軽んじない振る舞いこそが、法華経」であったということになる。経典読誦などの仏道修行の〝形式〟を満たしていなくても、法華経の教えを知らなくても、人間尊重の振る舞いを貫いているならば、その人は既に『法華経』を行じていることになる。逆に仏道修行の〝形式〟を満たしていても、人間を軽視したり、睥睨しているならば、それは仏教とは言えない。
 一宗一派や、イデオロギー、セクト主義の壁を乗り越える視点が、ここに提示されている。』(P321〜322)

そもそも、「法華経」においても「経文を読誦する(読み唱える)こと」が、果たして菩薩道を行ずることになるのだろうか。
よく「経文の勉強をした人」は「意味もわからずに唱えているだけでは、何の意味もない。実に愚かなことだ」などと、人びと蔑んで言うけれども、「経文を読誦すること」の重要性とは「繰り返し学ぶ」という点にあるのは明白だ。つまり、昔の人は経文を「意味不明な外国文」として読んだのではなく、私たちが「現代日本語訳」で読むようにして、その「物語」を繰り返し読んだ(音読した)のである。そしてこれは、難しい理屈が理解できない一般大衆をも救うことを目的としていたからこそ推奨されたものに違いなく、繰り返して読んでいれば、いつかはそこに書かれた物語の「意味するところ」が理解できる(体得できる)であろうと考えたからに違いないのである。
しかしそれが、時代を経るにしたがって、単なる「形式主義」に堕し、「意味のわからない外国語文」を有り難がって一種の「呪文」と化さしめてしまい、そのままのかたちで読誦するようになったのではないだろうか(つまり「だんだん(※ 気持ち)よくなる法華の太鼓」的なものに堕した)。

しかしである、仮に意味のわからない「呪文のごとき外国語文」であったとしても、それを有り難いものだと思って毎日読誦していれば、それがきっかけとなって、いつかその意味を知ろうと「発心」するかもしれないのではないだろうか。懸命に読誦する人であればこそ、その意味を知りたくなり、やがて釈尊の教えを学ぶきっかけになるに違いないのである。
まただからこそ、「経文を意味もわからず唱えること」を頭ごなしに馬鹿にするような「意味偏重の頭でっかち」は、「経文の教えを理解しない愚か者」でしかないのである。

頭のいい人に教えるのは、難しいことではない。しかし、釈尊の目的は「すべての人を救うこと」であって、「頭のいい人の、知的好奇心と自尊心を満足させること」など、目的ではないのである。ならば、多くの先師が一般大衆のために「ひとまず経文を読誦しなさい。それが仏道修行である」と教えたのは、その先の成長進歩を信じての「方便(としての教え)」であったと考えるべきなのはではないだろうか。

釈尊の「教え」は、実践してこそ意味がある。つまり「他の人を救うことで、自分も救われる」という思想の実践であり、そのための教えが経文に書かれているのだから、経文を学んで理解するだけでは、それこそ、意味がない。また、真に正しく学んだ人ならば、他人を救う行に邁進するようになるはずで、それがそうならないとしたら、その人は経文を「字面で理解しただけ」で、そこに込められた「教えそのもの」は理解していない、ということになるのである。

つまり、常不軽菩薩が経文読誦などの行を行わずに、ただ、すべての人に対し「私は、あなたを軽んじない」と礼拝し続けるという振る舞いをしたことをして、すでに釈尊の教えを自得していたと言えるのは、常不軽菩薩が「知的に理解してから、次にそれを実践に移す」という段階を踏むまでもなく、釈尊の教えを自得して「菩薩行という実践を行じていた」ということになるからなのだ。

『 この寿量品で釈尊は、ブッダとしての永遠性を強調するとともに、「菩薩としての修行を今なお未だに完成させていない」とも語っている。常にブッダとして娑婆世界にあり続けると同時に、永遠の菩薩道に専念しているという。
 宇宙の背後など、人間とかけ離れたところではなく、あくまでも娑婆世界にあり続ける。人間として、人間の中にあって、人間に語りかけ、菩薩行を貫く存在としてある。
 法師品の法師としての菩薩も、「衆生を憐れむために、このジャンブー洲(閻浮提)の人間の中に再び生まれてきた」「ブッダの国土への勝れた誕生(※ 恵まれた転生)も自発的に放棄して、衆生の幸福と、憐れみのために、この法門を顕示する」ということが強調された。
 薬師喩品でも、「如来は〔中略〕世間に出現して、世間のすべての人々を声をもって覚らせるのである」ともあった。
 あくまでも人間として生まれ、人間対人間の関係性の中で言葉(対話)によって救済する在り方を貫くブッダなのだ。仏に成ることがゴールなのではなく、人間の真っただ中で善行を貫くことが目的であり、菩薩行はその手段でもあり目的でもあった。
「成仏」(仏に成る)という言葉には、仏に成る前は「劣ったもの」で、仏に成ることが「勝れたもの」というイメージが伴う。このイメージは、権威主義的部派仏教が、ブッダを人間離れしたものにしてしまった残滓であろう。ブッダは、「真の自己」に目覚め、人間としてあるべき普遍的真理(法)に目覚めた存在で、人間からかけ離れた在り方ではなかった。成仏とは、「真の自己に目覚めること」「失われた自己の回復」であり、中村元先生の表現を借りれば「人格の完成」であったのだ。』(P275〜276)

つまり、結局のところ、釈尊の教えというのは、人間が個々に独自の尊厳を持って、その人らしく生きることこそが最高の生き方なのだ、ということを教えているに過ぎない。
しかし、そのことが「言うは易く、為すは難し」であり「頭で理解するだけなら容易だけれども、実際にそのように生きるというのは極めて困難事である」からこそ、各種の「譬え話としての物語」で、民衆に対し、その教えと心がまえを諄々と説いたのである。

したがって、私たちは「信仰者」あるいは「仏教徒」に成らずとも、釈尊の「人間哲学」に学び、それを実践して生きる者であることは可能であり、実のところ釈尊が求めたのも、仏像や曼荼羅を拝むといった「偶像崇拝」ではなく、「人間の尊厳ある生き方の実践」だったのである。
だから、私たちはむしろ「無信仰者=無神論者」のままで、この「釈尊最高の教え」である「法華経」を受持し読誦する、「法華経の行者」であり、「菩薩」たり得るのだということに、気づくべきであろう。

釈尊の真の教えは、「法華経」という「物語」の中で、私たちに「人間らしく尊厳を持ち、他者への慈悲の心を持って生きよ。それが成仏なのである」と語られているのである。

初出:2020年12月21日「Amazonレビュー」

 ○ ○ ○




















 ○ ○ ○











 ○ ○ ○






この記事が参加している募集

読書感想文