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「学生が棄権する」理由から「失敗を認めない社会」の末路が見える件 前編

▼選挙に行かない大学生が多いらしい。その理由を探った論考を読んで、衝撃を受けた。「間違った候補者を選んだらどうしよう」という理由で悩むというのだ。

間違った候補者ってなんだ? 逆に、正しい候補者ってなんだ?

▼大阪府立大学准教授の工藤宏司氏の談話。おそらく共同通信の配信だろう。2019年7月14日の福井新聞が、いい見出しをつけていた。

〈若者、なぜ投票しない?/「落選なら少数派」恐れ/失敗認める社会必要〉

「落選なら少数派」恐れーーこの見出しで、話の輪郭(りんかく)がちょっと見えてくる。おそらく、「自分が投票した候補が落選したら、自分が少数派になってしまう」という事態を恐れている。そして、記事を読んでみると、「そんなコストはかけたくない」ということらしい。

漫才師のサンドイッチマン風に言うと、「ちょっと何言ってるのかわかんない」のだが、ちゃんとした論理があることを知った。

▼学生たちは、政治に無関心なのではない。〈「どうせ投票しても世の中は変わらない」という諦念と、「正しい投票をしなければ」というある種の生真面目さが矛盾せずに同居している。〉という。

だから、「正しい投票」ってなんだ?

それはもちろん、投票用紙に候補者名や政党名を書くときに、名前のつづりを間違えないようにしましょう、という話ではない。どうも、候補者たちのなかに「正解」と「間違い」があるらしいのだ。

▼学生たちは基本的に自分のことを過小評価しており、「自分たちが政治を語るのはおこがましい」と思ってしまうそうだ。

以下のくだりで、工藤氏は学生たちの論理を解明しようとしている。適宜改行。

5年ほど前から「間違った候補者を選んだらどうしよう」という声を聞くようになった。当時は驚いたが、今では同じような考えを持つ学生は珍しくない。

 学生たちは何を「正しい投票」と考えているのだろうか。断定的なことは言えないが、社会に有益な政治家を選ぶという「正しさ」より、自分が当選者(=多数派)に投票できるかどうかが重要な指針になっているように感じる。

少数派と見られるのを失敗と同義に捉え、極度に恐れている。

▼つまり、政治について考えるうえで、政治がよくなるかどうか、ではなく、「自分が、自分の周りとの関係において、多数派でいられるかどうか」が最大の判断基準になっている、ということだ。

上に引用した部分を読んで、筆者は衝撃的な論理だと感じたのだが、まだ続きがある。

〈学生の中には「支持する候補者や政党はあるが、当選の可能性が低いので投票しない」と語る者もいる。自分の意志より、少数派にならない選択を優先し、そのためなら舞台から降りてしまう

 自分の意見に自信を持てないので、特定の政治家の好き嫌いについて話しても「あの政治家は嫌い」とは決して言わず、「苦手」と表現する。〉

▼「嫌い」を「苦手」と言い換えるような「気にする」感覚は、理解できる。しかし、「支持するが、投票しない」というのは、要するに支持しない、という意味だと思うのだが、そういう論理で動くのではないようだ。

自分の意志は、あるのだ。真剣に考えてもいる。これは、その次元での問題ではない。

自分の意志」を示すことよりも、「少数派にならないこと」のほうが大事なのであり、自分の意志を貫いた場合、少数派になってしまう危険を察したら、「舞台から降りてしまう」、つまり選挙は棄権する、ということだ。

これは、じっくり考えるべき論理、ロジックだと思った。(つづく)

(2019年7月20日)



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森往来のメモ

ご覧いただき感謝します。マスメディアをめぐるメモと書評。好きな言葉は「私たちは政治的過ちから自らを防衛するために、知性や合理主義に信頼することはできないのである」(ロバート・P・エリクセン『第三帝国と宗教 ヒトラーを支持した神学者たち』風行社、2000年)

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