自分探しに出かけた彼は虚無病の犠牲者と化しこの世から消えた

最近のメモです。思ったことの羅列です。

たぶん「自分探し」なんてしても自分は見つからないから、さっさと「自分作り」にシフトしたほうがいい気がする。自分がわからない時点で、自らの手でコツコツ意識して自分を作っていない証拠だから、作ってなければ探しても見つかるはずない。見つかるのは(唯一無二の)自分なんていないという事実くらいだけなんじゃない?と最近思ってる。自分探しに出かけたって、流行り病の虚無病に感染するだけだよきっと。

つまり、自分探しをして見つかるのは自分なんてものはいないという虚無だけで、それは出口も正解もない迷路に入り込んだも同然。(知らんけど)

この世界で自尊心正常に機能してる女の子なんてほぼいないっしょ

大学進学率55%くらいで、もちろん大学に行ってなくとも思考力のある人はいるとして、大学に行っていてもみながみんな考える能力があるわけではないと思うと、日常生活で求められてるものって、いかに自分の頭で物事を考えられるかではないんだと感じる

最近、池上さんtoo muchな件について。池上さんの世の中解説番組、さすがにあんなに大量にやってしまうと、あの解説やコメントが数ある中の一意見というよりかは、正しい見方みたいに誤読する人増えてこないか、、?

たまに自分の主義主張と真反対の意見を持つ人に出会ったりするけど、そン何も自分と違う考え方をするってことは相手は自分と全く違う環境で育ってきたんだろうなくらいに思って、受け流していくくらいがちょうどいい

未来の社会の教科書には、2000年代を表すキーワードは承認欲求ですって書かれてそう

頼むから、Twitterやってる人のほうが多い世界になんてならないでくれ~あくまでここは狭い世界でいいんだ~

もうこういうタイプの人とアカデミック系の人って一生交わらなさそう。

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りんごむけるのはわたしだけ。母が皮をむいてタッパーに入れたリンゴを指して「あんた食べんといてや。あれお兄ちゃんとぱぱのやねんから。食べたかったら自分で剥いてな。」と私に言ったので、「別に各自食べた人が自分で剥けばいいやん」と言い返すと、「ママおらんねんからあんたが剝いたったらいいねん。あんたしか剥けへんねんから。」と返ってきたのだが、父はともかく、兄はリンゴを剥けなくて娘の私が剥けるのは、そうやって今までやらされてきたからできるようになったわけで、兄だって練習すればできるようになるわけで、なんなんだこの兄(息子/男)と私(娘/女)の非対称性は。

私にとって友達ってのは、自分の思考を共有したいときに会う人、会話する人だから、黙っていても一緒にいて落ち着くみたいな要素はそこまで多分求めてなくて、どんなに仲よくても、無言を作らないようにしたいんだと思う。交通費かけて遠出したら、そこでできること全部済ませておきたいみたいな。交通費もったいなしみたいな。それと一緒で、一人でいることがデフォだから、デフォじゃない誰かといる時間が作れれば、その時に全部目的達成しておきたい(=言いたいこと全部伝えておきたい)みたいな。


人間はもう絶滅して無に回帰したほうがいいんじゃねみたいことを言ったら、まぁ自分さえ幸せであればそんでいい気もするって返されて、やっぱりそれくらいのメンタリティのほうがいいんかね、他人に干渉するってこと自体が傲慢すぎるんかな。他人一人の事例に着目するのではなく、他人の集合体の社会としてみた時にその中に課題があると捉えてその解決が必要という視点で干渉するのも傲慢なのかね。

言葉って容易に殺人器具になるよね

チームマネージャーと先方とがミーティングして、そこで受けた要望を叶えるために振り分けられた自分のタスクを処理する際に、もうちょっとミーティングでこの事項詰めてきてよと思うこともあるけど、ミーテに行っていないその場にいてなかった自分は後々そんな指摘をマネージャーにできない人の事いえないというよりも、その場にいてもたぶん私もそこまで頭が回らないだろうから責めれらないって感じかな

赤ペンの大量チェックが入った課題は添削者からの真っ赤なラブレターだかんな

ナナメに見るとか考えるってどういう意味なん。「ナナメに考えるとは?を全力で一般大学生がナナメに考えてみた」っていうテーマでなんか記事かけそうわら

別に車の免許なくとも、何でもかんでも送ればいい時代になってきてるから(いらなくなった洋服をまとめて車で持っていかなくとも、自宅から箱に詰めて送ればいい。家に届いて郵便ポストで返却するビデオサービス)。逆に運転できることが最低限ラインじゃなくて、アドバンテージになりそう

なんかそこに思考をはせてはあかんエリアってあるよな、そんなこと考えたらもう日常生活いとなめへんってやつ。ちょっとくらい蓋をした方が精神衛生よく保たてる的な

自分より上があまりにも多くいることや、自分が達することができないと思う域の人の存在を知りすぎると、わたしごときがやっても、、、意味ねぇ、、、となるので、自己肯定感の面を考慮して、自分が上位層に入れるグループに居座ってる方がいいな私は。もちろん時たま、天狗になりそうになるので、その度に高位層を見て鼻をけちょんけちょんにおられる必要は大いにあるのだが。でも最近それすらもどこまで必要あるのかわかんなくなってきた。別にわざわざ右肩上がりの軌跡を辿らなくとも、グループ外を知らなければ、別に幸せじゃない?そこに外部の人が入ってきて、そんなの貧しいみたいなことを言われない限りは。別に外の世界を知らないことで中で楽しく暮らすことって別に残念なことでも何でもないからな。それを悔いるものにしてくるのは、余計な外界なおせっかいな発言だけだかんな

なんかもう他人に自分が書いたものを読んでもらうことすらもおこがましい??だから必死に簡略化明瞭化するの?

学生団体のあるあるで、ボランティアで誰一人として金銭の獲得を目的とせずに集まっているこそ、活動がモチベの影響を受けやすいとか、それゆえに参加度に差が出て、個人個人が〇〇の理念に共感して××達成を目指して活動していたはずが、A氏は全くミーテこずタスクも処理しないから腹が立つなんかやってるこっちが損してるとまではいかないまでもモチベ下がるみたいな問題とかに、指南書出せば売れそうだぞ

別のモデルを見せられなければそうなりたいとも思わない。

毎日書いた文字数記録して(歩数計みたいに)、棒グラフで日ごとの変化を見れるようにして、その中身の傾向や、思いついた時の状況、その考えの起因となるものをメモして、週ごとに振り返って、そのアウトプット量の少なかった日の原因と改善案書いていくのおもろそう

賢すぎても、大衆からはその知能レベルは理解してもらえない。難しいことを分かりやすくいってくれる人が大衆にとっての賢い人。

私なんぞにご支援いただける方がこの地球上におりましたら、もう控えめに言ってあげみざわエクスプローションします。