マガジンのカバー画像

記事集・F

37
古井由吉関連の連載記事、および緩やかにつながる記事を集めました。
運営しているクリエイター

#小説

木の下に日が沈み、長い夜がはじまる

木の下に日が沈み、長い夜がはじまる

 本日、二月十八日は古井由吉(1937-2020)の命日です。

 樹の下に陽が沈み、長い夜がはじまる。机に向かい鉛筆を握る。目の前には白い紙だけがある。深い谷を想い、底にかかる圧力を軀に感じ取り、睿い耳を澄ませながら白を黒で埋めていく。

 目を瞑ると、そうやって夜明けを待つ人の背中が見えます。

 合掌。

※ヘッダーの写真はもときさんからお借りしました。
#古井由吉 #杳子 #夜明け

「かける」と「かける」(かける、かかる・03)

「かける」と「かける」(かける、かかる・03)


かけるとかける
 かけるとかける。
「かける」と「かける」。

 上のフレーズは「AするとAする」と読めば、「Aすると(その結果)Aする(ことになる)」とも、「「Aすること」と「Aすること」」とも読めます。

 いずれにせよ、前者と後者は別物でなければなりません。

     *

 かける、掛ける、懸ける、架ける、賭ける、欠ける、駆ける、翔る、駈ける、掻ける、書ける、描ける、画ける

「かける

もっとみる
鏡、時計、文字

鏡、時計、文字

「わける、はかる、わかる」への投稿後の加筆が、かなり大幅なものとなってしまったので、加筆した二つの文章を独立させ、新たな記事にしました。ふらふらして申し訳ありません。

「同一視する「自由」、同一視する「不自由」」は蓮實重彥の文章にうながされて書いたものであり、「「鏡・時計・文字」という迷路」は古井由吉の『杳子』の冒頭における杳子と「彼」の出会いの場面について書いたものです。

 私は古井由吉の作

もっとみる
わける、はかる、わかる

わける、はかる、わかる

 本記事に収録した「同一視する「自由」、同一視する「不自由」」と「「鏡・時計・文字」という迷路」は、それぞれ加筆をして「鏡、時計、文字」というタイトルで新たな記事にしました。この二つの文章は以下のリンク先でお読みください。ご面倒をおかけします。申し訳ありません。(2024/02/27記)

     *

 今回の記事は、十部構成です。それぞれの文章は独立したものです。

 どの文章も愛着のあるも

もっとみる
相手の幻想に付きあう快感

相手の幻想に付きあう快感

【注意:この記事にはネタバレがあります。】

人見知りの人違い

 人の顔を覚えるのが苦手な私は人違いをよくするようです。たまにされることもありますが、するほうが多い気がします。

 いま「ようです」、「気がします」と書いたのは、確かめようがない場合がほとんどだからです。

 自分が人違いをしているらしいと思っても、本当にそれが人違いなのかを確認するためには、そして自分が人違いをされているらしいと

もっとみる
夢のかたち

夢のかたち


死者たちの声 読む、詠む、黄泉、病み、闇、山

 辞書を頼りに「よむ」という音を漢字で分けると、「よみ」と「やみ」と「やま」が浮かんで、つながってきます。

 連想です。個人的な印象とイメージでつないでいます。夢路をたどるのです(夢は「イメ(寝目)の転」だという、夢のような記述が広辞苑に見えます)。

 よみ、やみ、やま、ゆめ。

 連想するのは、死者たちの集まる場所です。そこでは姿が見えるとい

もっとみる
見る「古井由吉」、聞く「古井由吉」(その1)

見る「古井由吉」、聞く「古井由吉」(その1)

聞く「古井由吉」、見る「古井由吉」
 古井由吉の小説では、登場人物は聞いているときに生き生きとしていて、見ているときには戸惑っているような雰囲気があります。

 耳を傾けることで世界に溶けこむ、目を向けることで世界が異物に満ちたものに変貌する。そんな言い方が可能かもしれません。

     *

 私にとって「古井由吉」とは小説の言葉としてあります。それ以上でもそれ以下でもありません。かつて渋谷の

もっとみる
見る「古井由吉」、聞く「古井由吉」(その2)

見る「古井由吉」、聞く「古井由吉」(その2)


Ⅰ 一目瞭然、見てぱっと分かる
 前回の「見る「古井由吉」、聞く「古井由吉」(その1)」では、以下の図式的な分け方をしてみました。

*聞く「古井由吉」:ぞくぞく、わくわく。声と音が身体に入ってくる。自分が溶けていく。聞いている対象と自分が重なる。対象が染みこんで自分の一部と化す。世界と合体する。

*見る「古井由吉」:ごつごつ、ぎくしゃく。事物の姿と形がそのままはっきりと見えるままで異物に変貌

もっとみる
見る「古井由吉」、聞く「古井由吉」(その3)

見る「古井由吉」、聞く「古井由吉」(その3)

 前回に引きつづき今回も、『妻隠』における「見る「古井由吉」」と「聞く「古井由吉」」を見ていきます。

*「見る「古井由吉」、聞く「古井由吉」(その1)」
*「見る「古井由吉」、聞く「古井由吉」(その2)」

 長い記事です。太文字の部分に目をとおすだけでも読めるように書いていますので、お急ぎの方はお試しください。

Ⅰ 「見る「古井由吉」」と「聞く「古井由吉」」
 まず、この連載でつかっている「

もっとみる
「私」を省く

「私」を省く


「僕」
 小学生になっても自分のことを「僕」とは言えない子でした。母親はそうとう心配したようですが、それを薄々感じながらも――いやいまになって思うとそう感じていたからこそ――わざと言わなかったのかもしれません。本名を短くした「Jちゃん」を「ぼく」とか「おれ」の代わりにつかっていました。

 さすがに学校では自分を「Jちゃん」とは言っていませんでした。恥ずかしいことだとは、ちゃんと分かっていたよう

もっとみる
「ない」に気づく、「ある」に目を向ける

「ない」に気づく、「ある」に目を向ける

 吉田修一の『元職員』の読書感想文です。小説の書き方という点でとてもスリリングな作品です。

「 」「・」「 」
 たとえば、私が持っている新潮文庫の古井由吉の『杳子・妻隠』(1979年刊)に見える「・」ですが、河出書房新社の単行本では『杳子 妻隠』(1971年刊)らしいのです。

 らしいと書いたのは、現物を見たことがないからです。ネットで検索して写真で見ただけです。

 私は「・」がなかったり

もっとみる
くり返される身振り(好きな文章・06)

くり返される身振り(好きな文章・06)

 今回は、作家がくり返し書いている身振りについて書いています。そうしたくり返しのもたらす既視感が、私はたまらなく好きなのです。

書き手の癖、読み手の癖
 このところ吉田修一の小説を読みかえしているのですが、再読するのはぞくぞくするからです。わくわくよりもぞくぞくです。

 どんなところにぞくぞくするのかと言うと、吉田の諸作品に繰りかえし出てくる動作とか場面にぞくぞくします。

 反復する、つまり

もっとみる
古井、ブロッホ、ムージル(その2)

古井、ブロッホ、ムージル(その2)

 今回は、古井由吉が訳したロベルト・ムージルの『愛の完成』で私の気になる部分を引用し、その感想を述べます。

・「古井、ブロッホ、ムージル(その1)」

 以下は、「古井、ブロッホ、ムージル」というこの連載でもちいている図式的な見立てです。今回も、これにそって話を書き進めていきます。

     *

*聞く「古井由吉」:ぞくぞく、わくわく。声と音が身体に入ってくる。自分が溶けていく。聞いている対

もっとみる
人が物に付く、物が人に付く

人が物に付く、物が人に付く

 今回は「付く、附く、着く、就く、即く」(広辞苑より)について書きます。人と物との関係について考えたのです。

 まず、古井由吉のエッセイで「付く」という言葉がつかってある興味深い一節があるので引用します。記事の最後では、川端康成の小説で出会った、警句のような趣の掛詞も紹介します。どちらも、物がキーワードです。

 人が物に付く、物が人に付く。

「椅子の上にも十年」
 タイトルから察せられるよう

もっとみる