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刑事ドラマや漫画のように、殺人事件が起こることで物語が始まることがあります。犯人さえ探し当てればよいというストーリーもあれば、犯罪を犯す愚かさや悲劇から教訓を得ることもあります。

他者を殴って蹴って倒すことを目的とするゲームがあります。戦争ゲームはとてもリアルにできています。日常生活では絶対使わない「殺せ!」「死ね!」など、過激な言葉を発しながら、相手を倒すことで快感を得ています。

そんなに人を殺したいですか?


ドラマもゲームも人を殺して楽しむ人がたくさんいるって、異常なことではないでしょうか?

今も戦争が行われています。昔からなくなることがありません。戦国時代のドラマが脚光を浴びますが、結局、武士の殺し合いで自分の陣地を広げていた時代の話です。それでは秩序が保てませんから法律や憲法ができたわけです。そして理性が働くことで現代は平和なのです。

生き物としてのDNAが戦うことを止めない


おそらくこれから先も戦争はなくならないでしょう。そして殺人者がなくなることもないし、殺人をするゲームもなくなることはないでしょう。むしろバーチャルゲームが進歩して、殺人ゲームもリアルな体験型が登場するかもしれません。結局、人間もまた動物であって、DNAが戦わせるのでしょう。野生動物は縄張り争いをし、生存競争を生き抜くために他者を殺し食べます。たまたま人間は理性が働くことで秩序を作っただけです。

その理性が利かない人が時々いるから犯罪が起こるし戦争になっているわけです。性善説と性悪説という話がありますが、その話を書き始めると長くなるのでやめておきます。

スポーツの戦いは、理性とルールがある


相手を殺すことなく、ケガをさせることなく、「正々堂々とルールにのっとり勝ち負けを決める」のがスポーツです。一部、血を見るスポーツもありますが、多くは潔く見ていて気持ち良いものです。勝っても負けても感動するのでスポーツを見るのは好きです。

戦争のように、殺すか殺されるかの戦いではありませんから、その違いは明白です。元々スポーツがどうやって生まれたか私は知りませんが、「楽しむため」という目的の他に「殺し合いの代わり」という名目があったのではないかと私は思います。

古代のオリンピックは戦争を一時中断しています。「大会の期間およびそれに先立つ移動の期間、合計3ヶ月ほどをオリンピア祭のための休戦期間に挙げた」とされています。

古代オリンピックの話
当時のギリシアではいくつかのポリスが戦いを繰り広げていましたが、宗教的に大きな意味のあったオリンピアの祭典には、戦争を中断してでも参加しなければなりませんでした。(聖なる休戦)です。

ところが最近のオリンピックでは戦争地域は休戦しません。古代と違って統率が取れなくなったのでしょう。悲しいです。

世界中で起こる無差別殺人


今は世界中で無差別殺人が発生しています。「誰でも良かった」という身勝手な言い分で、関係ない人が殺されるなんて許されることではありません。回転寿司店などでの迷惑テロも後を絶ちません。

それらすべて共通していることは、他人の気持ちになっていないということです。理性が普通に働いている人間であれば簡単に分かることです。

殺人ゲームや殺人ドラマ、戦争映画などの影響があるのかもしれません。いじめが無くならないのは、人に迷惑かけて笑い合うテレビ番組があるからです。あくまでも主観ですが、私はそう思います。残念ながらそれらを無くすことはできません。

ビジネス優先で多少の犠牲は仕方なし


ファストフードが体に悪いと分かっていても無くせないのも同じ理由です。原発が無くならないのも同じです。大きな渦に巻き込まれてしまったから、抜け出すことは不可能です。まったくゼロにすることは難しくても、行かない、食べない、見ない、関わらない、ように私は心がけたいです。

ボブ・ディラン「Blowin'The Wind 」(風に吹かれて)


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