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健忘症 (1分小説)

最近、もの忘れがひどい。といっても、私に、まったく自覚症状はないのだが。

「社長、以前にも申し上げましたが」
「書類は、お渡ししたはずです」
などと、部下からも、よく言われるようになった。

思い切って、脳神経科に行ってみる。

医者は、くわしく診断した後、「原因は解明できませんが」と言って、一応、記憶力が、飛躍的に回復する薬を処方してくれた。

私は毎日、それをキッチリと服用している。

副作用のせいだろうか。

薬を飲む度に、吐き気や動悸がするのだが、以前の記憶力が戻ってくるのならと懸命に耐えている。

部下もそんな私を気づかってか、最近は、どことなく遠慮がちに接してくるようになった。

しかし、肝心の記憶力には、目立った効果は見られない。

「薬が、なかなか効かないのだよ」
秘書の山下に愚痴ってみる。

彼女は伏目がちに答えた。
「社長、これを提出されたこと、覚えてらっしゃいますか?」

白い封筒には、毛筆体で『退職願』と書かれてある。

山下によると、私は先月末で、この会社を退職しているのだという。しかし、そのことを忘れて、今月になっても毎日通勤しているらしい。

「社長は功績のある方でしたし、誰も何も言えなくて」

そこまで進行していたのか。

情けない茶番に、何日も部下たちを付きあわせていたとは。ショックで倒れこみそうになる。

「後任の新社長も、ご理解ある方でして」

私は、ヨロヨロと立ち上がると、山下の説明もそこそこに部屋を出ていった。

こんなカタチで、輝かしい社会生活を終えるだなんて。



いつもより早めに、帰宅したせいだろうか。妻の恵美子が驚いた顔をしている。

彼女にも、毎朝毎晩、苦労をかけさせているはずだ。

「色々すまんかった。でももう、力づくでいいから、私が出勤するのを止めてくれないか」

恵美子はキョトンとしている。

「ホラ、あれだ。私はもう、とっくに退職しているんだろ」

どうやら、事態がよく飲み込めていないようだ。


恵美子の顔を見ているうち、疑惑が湧いてきた。

これは、もしかして、会社ぐるみの陰謀ではないのだろうか?私を陥れようとする、新社長の長期にわたる作戦なのでは。

そうすれば、薬が思うように効かない理由も、恵美子が事情を把握できない理由も分かる。

私は、本当は、病気ではない!

「あいつらめ」

私は、恵美子が制止するのも構わず、家を飛び出した。



恵美子は、ひと呼吸入れてから受話器を取った。

「いきなり、電話してすみません。秘書の山下さんですか。

彼が、そちらに着いたら、私とは、もう5年前に別れていることを伝えてもらえませんか?」


※映画『明日の記憶』の深刻なシーンを元に、パロディ+シリアスに作りました。ご不快になられた方、すみません。

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