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米国の大学生は“心の免疫力”が低下している(倉田幸信)

倉田幸信 「翻訳者の書斎から」第5回
"The Coddling of the American Mind" ( 甘やかされるアメリカン・マインド )
by Greg Lukianoff, Jonathan Haidt (グレッグ・ルキアノフ、ジョナサン・ハイト) 2018年9月出版

いきなり私事で恐縮だが、私は主夫として2人の子供を育てたことがある。1人目の長男のときは、屋外だろうが室内だろうが、一度でも床に落ちたおしゃぶりはすべて煮沸消毒していた。バイキンが怖かったからだ。だが2人目の長女のときは、多少の泥がついたおしゃぶりでも、適当に服でぬぐってそのままくわえさせていた。赤ちゃんはけっこう頑丈だとわかったので、面倒くさいことはしなくなったのだ。
その後、医学の世界で“幼少期の環境があまりに清潔だと免疫力が低くなる”とする「衛生仮説」の考え方が広まっていることを知り、我が意を得たりと思ったものだ。

本書"The Coddling of the American Mind(『甘やかされるアメリカン・マインド』)"は、これとまったく同じことが若いアメリカ人の身体ではなく精神に起きていると主張する。過剰に保護されて“心の免疫力”が低いまま成長した今の米国の大学生は、心と知性が弱体化しているというのだ。
子供の心を傷つけまいとする親や教師の善意が、結果的には病的な不安症やうつ病患者と同じような考え方をする若者を生んでいる。そして実際に今の大学生はうつ病になったり自殺する率が目に見えて高まっているという。それが本当だとしたら恐ろしい話ではないだろうか?

本書のベースとなったのは同じ著者による3年前のアトランティック誌の記事だが、同誌のサイトでこれまで最も読まれた記事のベスト5に入るという。当時のオバマ大統領もスピーチで言及したほどで、多くのアメリカ人に衝撃を与えたようだ。元記事に大幅な加筆をして2018年7月に発売された本書もベストセラーとなった。
ちなみに著者のルキアノフは表現の自由を専門とする法律学者、ハイトは社会心理学者でニューヨーク大学スターンスクールの教授である。

古典を読むと“安全が脅かされる”?

2015年、コロンビア大学の一部の学生が、ホメロスやダンテ、モンテーニュなどを学ぶ「西洋の偉大な文学と哲学」という講義に苦情を訴えた。こうした作品を読んだり議論するだけで、一部の学生は過去のつらい経験を思い出して感情が傷つけられる恐れがある。だから「学生の安全を守るために」、教授は事前に“精神的苦痛の引き金になる可能性がある”という「トリガー警告」を学生に伝えるべきだ、と──。
今の米国のキャンパスにはこの手の話がいくらでもあるという。例えばアジア系アメリカ人に「お国の言葉でこれはなんて言うの?」と聞くだけで、「マイクロアグレッション(悪意の有無に関わらない軽い侮辱)」をしたと非難される。
ブラウン大学では、「米国はレイプカルチャーではない(世界には桁違いにひどい地域があり、レイプされたことで被害者が逮捕されたり殺されたりしている)」と主張するフェミニスト作家を招いてディベートを行った際、「レイプ被害の経験を持つ学生が、自分の経験を無価値にされたかのように感じて傷つきかねない」という一部学生の要求に応じて「セーフスペース(心の平安を保つため、静かな音楽を流してブランケットなどを用意した避難部屋)」を設置した。
こうした考え方を表現する「トリガー警告」や「マイクロアグレッション」、「セーフスペース」という聞き慣れない言葉がすでに存在していることからも、今の大学でこうした話が珍しくないことがわかる。

心を傷つけられることを過剰に恐れる学生と、過保護の一途をたどる大学側の運営──。急速に広がるこの風潮を筆者は“セーフティイズム(Safetyism)”と名付け、健全な精神と知性を育てる機会を若者から奪う「狂信的な安全第一主義」と定義する。自分と異なる考えや不愉快な意見をいっさい排除していては、知性や批判的思考力は育たない。まさにそれらを育てるべき大学でセーフティイズムが蔓延する現状は、“いずれ民主主義の根幹さえ揺るがしかねない大きな問題だ”と警告する。
誤解してほしくないのだが、本書は無条件に「他人の感情を傷つけかねない発言に寛容になるべきだ」とか「安全性を重視し過ぎるのは間違いだ」と主張しているのではない。例えば消費者向けコマーシャルならば、誰の感情も傷つけないよう最大の配慮するのは当然だろう。だが、それと同じ姿勢を教育の場に持ち込み、学生が“お客様”であるかのように過剰に配慮する今の風潮が、逆に彼らに害を与えていると指摘しているのだ。

3つの「大嘘」を信じる人々

筆者はこのセーフティイズムが生まれた原因として3つの「大嘘(Great Untruth)」を挙げる。いずれも昔からの人類の英知に反し、最新の科学的知見から見ても明らかに間違った考え方なのに、それを信じる風潮が広まっていると訴える。その3つとは、

1)脆弱性の大嘘=「人は傷つくことで弱くなる」
子供は周囲の環境に適応するため、不快なものを含めてあらゆる刺激を必要とする。アンチフラジャイル(反脆弱)な存在なのだ。「人は傷つくことで強くなる(That which does not kill us makes us stronger)」というニーチェの名言があるにもかかわらず、傷つくことを過剰に恐れるせいで、若者の脳は健全な発育ができない。

2)感情的決めつけの大嘘=「自分の感情を一番信頼すべし」
理性ではなく感情で判断することは、最もよくある認知のゆがみの一つである。それを認識せずに感情で判断すると、適切な答えを導くことはできない。「自分の感情は一番信頼ならない」のだ。

3)敵味方の大嘘=「この世は敵と味方の戦いだ」
世の中を味方(我々)と敵(やつら)というように単純に二極化して考え、共通の敵を持つことで団結する。ささいなことでも相手に悪意があると非難し、敵に対しては容赦ない攻撃をするのも許されると考える。学生はトラブルを恐れて意見を自粛したり、自分と意見の合わない相手を悪者扱いするようになる­。このような姿勢では、議論や研究などできるはずもない。

この3つの大嘘とセーフティイズムが台頭してきた理由は単純明快ではない。本書では「政治的イデオロギーの分極化」や「安全性を重視しすぎる子育て」「大学の過剰な保護主義」などいくつかの手がかりを挙げている。その中の一つが「i世代の特徴」だ。
筆者によれば、1995年以降に生まれたi世代(またはジェネレーションZ)は、一つ上の世代で1980年以降に生まれたミレニアル世代とはまったく異なるという。
i世代はSNS全盛のなかで思春期を迎え、常にデジタルデバイスを通して世界とつながりながら成長してきた。その結果、自分だけ取り残されるという不安感や、世の中を実際よりも危険な場所、もしくは敵意にあふれた場所だと思い込む傾向が強い。統計データからも、ミレニアル世代に比べてi世代のほうがうつ病になったり自殺する率が高いことが明らかになっている。そして、大学キャンパスにセーフティイズムが急速に広まり始めたと筆者が感じた2013年以降という時期は、i世代が大学入学年齢に達した時期とぴたりと一致するのだ。

本書に描かれる問題ある大学生の姿は、一人の人物を思い出させる。ドナルド・トランプ米国大統領だ。理性より感情で物事を判断し、敵か味方かという単純な二元論で世の中をとらえ、ささいなことで感情を害する──。もしかすると、“トランプ的なるもの”は彼個人の特異な資質ではなく、アメリカ全体の未来像を先取りしているのかもしれない。

執筆者プロフィール:倉田幸信 Yukinobu Kurata
早稲田大学政治経済学部卒。朝日新聞記者、週刊ダイヤモンド記者、DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー編集部を経て、2008年よりフリーランス翻訳者。


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