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最後の花火――フジファブリック『若者のすべて』にきこえる自己予言
日本のバンド、フジファブリックが演奏する『若者のすべて』は、志村正彦(1980年7月10日~2009年12月24日、29歳没)によって作詞・作曲された。
2007年11月7日にリリースされたので、それから志村は2年を生きることができなかったことになる。
この曲のサビの冒頭にある「最後の花火」。
これには、深掘りすると二重の意味がありそうだ。
一つは「夏の終わり」という観点、二つめは「志村の
まことらしきうそをいうも、うそらしきまこというべからず(伝 徳川家康)
客観的事実をただ不用意にならべても、人を衝き動かす迫真力は出てこない。それにひきかえ、現実感のあふれた虚構には人間的真実がある(中村良夫)
『風景学入門』(中公新書)より
つまらないノンフィクションと、すぐれたフィクション。
何のためにウソをつくるのに時間を費やすのか?
事実は作家性を拒むが、虚構はそれを受容する余地がある。
余地には人間的真実が入り込む。
ヘンリク・ベックの芸術的執念
ヘンリク・ベックの水彩画(上掲)『人影なき、焦土と化した夜のワルシャワ』は、1944年、蜂起後の破壊されたワルシャワの掩体壕で描かれた。
ベックは蜂起が終わった後も同地にとどまった。
劣悪な生活環境、恐怖、水道水の欠乏といった逆境にもかかわらず、ベックは制作を止めなかった。
(この記事はアプリ「デイリーアート」の内容をもとにして書かれた。翻訳: Hiro Watanuki)
この執念は見上
「音楽はずるいよ。心に直球で来るから」
鉄道駅の発車メロディーの作曲者に語った言葉である。
これは音楽の影響力を賞賛したものであると同時に、嫌ったものであろう。
音楽は物理であり、心理でもある。
作曲をする者はそれを理解していないといけない。でないと、砂をかむような音楽を垂れ流すことになる。
男時・女時(世阿弥)
世阿弥の時代には、「立合」という形式で、能の競い合いが行われました。立合とは、何人かの役者が同じ日の同じ舞台で、能を上演し、その勝負を競うことです。この勝負に負ければ、評価は下がり、パトロンにも逃げられてしまいます。
立合いは、自身の芸の今後を賭けた大事な勝負の場でした。しかし、勝負の時には、勢いの波があります。世阿弥は、こっちに勢いがあると思える時を「男時おどき」、相手に勢いがついてしまってい
「離人神経症」患者の言葉
以前は音楽を聞いたり絵を見たりするのが大好きだったのに、いまはそういうものが美しいことがまるでわからない。
音楽を音楽として感じ取ることができない。
音は聞き取れても、統合された作品としての時間構造を理解することができないのだ。
また、
絵についても部分と全体との関係を見失っている。
ようするに、
作品とは、享受する者の頭の中で組み立てられたものであるということがわかる。
創作者の頭
作品の作家性
われわれは、他人(ひと)によって編集されたもの(芸術作品など)を受容する。あるいはしない。
素材をボンッと置いても、それを創作物といわない(もちろんそうしたものに思想などを込めることもあるが)。
作品にしようとすれば、どこかしら素材は加工される。
それは「作家性」による。
素材をどれだけたくみに作品に仕上げるか、だ。
しかし、作家性の振れ幅が大きければ大きいほど有効であるとは限らない。
ケーテ・コルヴィッツと「病んだ母性」
この作品はケーテ・コルヴィッツ「母と2人の子」である。
作品は1927/37に制作された。
コルヴィッツは第1次大戦で息子を、第2次大戦で孫を戦死で失っているが、つくられたのは大戦間時代である。
この作品は彫刻作品としてまとまりのあるフォルムを持っているけれども、まとまりすぎているきらいがある。
2人の子を抱く姿は、母の顔が見づらいことも相俟って、何か、病的な印象を与える。
不安というも
音楽作品の古典化について
音楽作品の古典化は、演奏者が作品を認識し、一定の価値づけをすることによるが、演奏の頻度もかかわってくる。
これは、あるジャンルの円熟化ともいえる。時間がたつにつれて「すぐれた作品」が出現することから古典化はおこる。
しかしながら、これは、新規の作品が不作であることからもおこってくる。
かならずしも喜ぶべきではない事象だ。