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猛毒の雨が降り注ぐジャカルタの中華街、そこに集いし怪物たちとの晩餐会



連作:4


Pantjoran Chinatown PIK








JAKARTA
PIK郊外
INDONESIA
2023






連作:5

猛毒の雨が降り注ぐジャカルタの中華街チャイナタウン、そこに集いし怪物たちとの晩餐会ばんさんかい






CENTRAL JAKARTA




先だってロイター通信がその通信網を使って全世界に伝えたところによると、不名誉なことにここジャカルタは世界最悪の大気汚染の都市に選出されている



根拠となる数値データを公表したのは、スイスにある大気汚染の調査機関に依るもので、それによるとここジャカルタの汚染された空気は深刻な健康被害を時間をかけて誘発させるもので

ある統計によれば、ジャカルタ市民の呼吸器系の疾患による死者は近年急上昇しているらしい





だからこの街に降り注ぐ雨は——





そして世界保健機関WHOの最新の報告によると、深刻な大気汚染が原因の肺癌や呼吸器疾患による死者は年間700万人を超え——

<汝、月灯りに照らしだされ、ジャカルタの酸性雨に濡れし黒衣を纏ひて、来る>






INDONESIA


NORTH JAKARTA

中華街チャイナタウン

11

灯台と猛毒の雨

19:00-20:00





11
灯台と猛毒の雨







PIK郊外




<六ヶ国語を操る華僑のゲイ>の友人ーJeanジャンがハンドルを握る漆黒の車体の車は、人工島”PIKエリア”の北西部の湾岸を、再び心臓部の中華街チャイナタウンへ向けて走っていた

窓の外は、酸性雨スコール

それもかなり酷い土砂降りの状態で、フロントガラスのワイパーが激しく左右に動いている

今夜予約を入れてあった飲茶レストランの時間にはまだ早かったこともあり、Jeanジャンがわたしに気を利かせてこの郊外の湾岸地区の夜の工業地帯まで車を走らせてくれたのだ



PIK郊外



激しい雨が叩きつける車窓から見たその景色は、まるで世界の終わりディストピアを思わせるような荒廃した無人の土地のようにわたしには見えた

岬の突端に立つ灯台は不気味な緑色の光を放ちながら周期的に車内を照らし出す

そのたびにわたしは何度か後方をふり返り、どうにかこの不気味な灯台を撮影してみたいと思ったが、わたしの技術ではこの雨を避けて撮影することはできない

再び車内を灯台の閃光のような緑色の光が照らしだし、Jeanジャンの横顔までを緑色に染め上げた後、Jeanジャンは小さく不敵に微笑みながらこういった——



——”さわまつさん、随分と気に入ったようですね
もしよければ明日の朝にでもまたここへ案内しますよ”



緑の光を帯びた大粒の雨が、間断なく車窓を叩きつける
そしてどろりと流れ落ちていくそのさまは、どこか猛毒の雨を思わせた

そして——



PIK郊外



ここジャカルタの心臓部”PIKエリア”は悪くないのかもしれない
混沌と喧騒——世界の中心地ユートピアを思わせる中華街チャイナタウン

そしてそこから車で30分も走れば、今度は世界の終わりディストピアを思わせる光景が広がっている

インドネシアでもかなりいろいろな土地を見てきたが、再訪したいと思える土地に巡り合うことは意外と少ない


この土地にはひょっとしたら「何か」があるのかもしれない
わたしの渇きを癒すような何かが・・・





この地はもしかしたら、華僑たちだけでなく、このわたしにとっても——







NORTH JAKARTA

中華街チャイナタウン

12

心臓部のレストラン

20:00-20:30





12
心臓部のレストラン







PIK中心地



極めて「食」にうるさいJean Mespladeジャン メスプレードがわたしを案内してくれたのは中華街チャイナタウンのど真ん中の老舗の香港飲茶のレストランだった

石段を数段登り、巨大な木製の扉を開けて中に入ると、まさにそこは香港を思わせるような内装で、多くのひとびとで賑わっていた




RESTAURANT 01



窓辺に無造作に吊るされた焼豚/水槽の中を泳ぐ様々な色をした魚介類/香辛料の匂い/漢語表記の屏風/チャイナドレスを着たお店のスタッフたち

高い天井は全て鏡張りで、巨大なホールには大小無数の中華式の丸テーブルが並び、地元客や観光客の歓声がホールの壁に反響して聞こえてくる

聞こえてくる言語はもちろんインドネシア語、英語、そしておそらくは中国語、そしてわたしには何語か判別できないどこか遠い国の言葉・・・

テーブルの間にはスリットの入った原色のチャイナドレスを着たお店のスタッフが、微笑みながら片手に湯気を立てる料理の皿を持ち、各テーブルを回遊魚のように廻っている

フロアの要所には髪を整髪料で綺麗に固め、黒い長袖のジャケットを着た男性マネージャーたちが立ち、ホール内を見渡しながらインカムでどこかと通信している

そして奥の厨房オープンキッチンと思しきガラスの向こうでは中華鍋が炎を上げ、色とりどりの野菜と肉が舞っている
ふたつあるやはりガラス扉を、チャイナドレスの女たちが激しく出入りし、時折怒気を含んだ声までもが厨房の奥から聞こえてくる




——なんて活気のあるレストランなのだろう・・・



Jeanジャンが案内してくれるので、どこかの小洒落た高級店を予想していたが、良い意味で大きく期待を裏切られたような気がした
かれの人柄と考えが透けて見えるような、活気溢れるレストランだった


入り口左手のカウンターの奥から濃紺のチャイナドレスを着たお店の女性がわたしたちの前に現れると、Jeanジャンはインドネシア語で自分の名を名乗り、予約していることを伝えると、相手の女性は一瞬戸惑い、普通語プートンファJeanジャンに何かをいった

Jeanジャンもすぐさま普通語プートンファに切り替え、彼女といくつか言葉を交わした後に、真横にいたわたしに今度は日本語に切り替えてこういった



——”さきほどお話ししたぼくの友人Dianaディアナが後10分ほどでこの店に到着します。それまではウェイティング・バーでビールでも飲んで待ち、彼女が着いたら個室に移りましょう”




RESTAURANT 02
WAITING BAR



案内されたウェイティング・バーの内装はかなり洗練されていた

扉を閉めると外のホールの騒音が見事にシャットアウトされ、空調が隅々にまで効きわたり、冷んやりとして心地よい空間だった

照明の光量は計算しつくされたように絞られ、温かなオレンジの照明がワインレッドのレザーソファに艶やかに反射し、どこか親密な雰囲気を醸し出している

小さな音で聞こえてくるのは、おそらくはアート・テイタムのピアノ・ソロ


この古風なジャズもまた、見事にこのフロアに調和しているようにわたしには感じられた

Jeanジャンはいった——


——”ここのウェイティング・バーはぼくは本当に好きなんです。この店は
仕事ビジネスでもプライヴェートで友人とも来ますが、いつも約束の時間より早く来て、ここでビールを飲みながら本を読んで待つんです”



それは確かによさそうだ
全く同じことをしてみたくなる



ソファ席ではなく、カウンターにJeanジャンと横並びに座ると、さきほどとは別の、抑えられたグリーンのチャイナドレスのバーテンが現れ、彼女にJeanジャンは生のビンタンビールを二杯注文した

ほどなく先に、小皿に盛った搾菜ザーサイを、また別の色のチャイナドレスを着た女性が運んで来たが、Jeanジャンは彼女に向かって小さく穏やかに何かをいうと、その女性は柔らかく微笑みながら今持ってきた小皿をそのまま持って後方へ消えていった

やがてビールが運ばれてきて、Jeanジャンとグラスを合わせる


それは泡のきめの細かな見事なビンタンビールだった

ここインドネシアではイスラム教の教義ドグマで、イスラム教徒は一切の飲酒が禁じられている保守的な国だが、しかしもちろんこの国民的ビールのビンタンは流通はしている

わたしも週末には政府から販売認可を受けた限定された酒屋か外資系のスーパーマーケットで買うが、日本や諸外国では当たり前の生ビールドラフトビールを提供する店は、少なくともSemarangスマランでは一か所のレストランしかわたしは知らなかった

この日は喉も乾いていたこともあり、この店の、このウェイティング・バーで飲む生のビンタンビールの一口目は、それはほとんど犯罪的な美味しさだった




RESTAURANT 03
BINGTANG DRAFT


ふたりでビールを味わっていると、さきほどのグリーンのチャイナドレスを着た女性が、今度は白いナッツが盛られた小皿を持って現れ、Jeanジャンになにごとかをいって確認すると、カウンターにその小皿を置いて静かに立ち去っていった


そしてわたしは何気なくひとつかみしたそのナッツを口に運ぶと、その衝撃的な美味しさに思わず声をあげた



——”こっ・・・これは・・・うまい”



Jeanジャンはしてやったりの顔でわたしの横顔をみながらこういった



——”そうでしょう?これはバリ島のナッツなのです。この味を知ったらもう他のナッツは食べることができません”



不思議なナッツだった
見た目は日本のどこででも購入できそうな落花生の皮を剥いて抽出しただけのような姿で、特徴的なのはやや白いくらいなのだが、奥歯で噛んだときに
最初にカリッと小気味いい音を立てると、あとはそれを裏切るようなサクサクの触感なのだ
塩加減もまた絶妙だった


Jeanジャンはいった——


——”最初に持ってきてくれたあの搾菜ザーサイもかなり美味しいのですが、さわまつさんにはまずこのナッツを食べてもらおうと思って
これはGELAELゲラエールでも販売しているので、Semarangスマランでも購入可能です

・・・店に頼んで、今夜少し持ち帰りますか?”


わたしはそれは断り、再びこの魔法がかかったようなナッツを食べながら外資系スーパーのGELAELゲラエールで必ず買う強い予感を感じた
そしてこうも思った


この男・・・
この〈六か国語を操る華僑のゲイ〉・・・Jean Mespladeジャン メスプレード
ひょっとしてわたしは、彼のてのひらで今夜は踊り続けるのかもしれない、と


そしてJeanジャンのスマートフォンが鳴った

その短い親密なやりとりだけで相手が誰だかわかった


Jeanジャンの幼馴染のDianaディアナがこのお店に到着したのだ





NORTH JAKARTA

中華街チャイナタウン

13

Jeanジャン、忘我を喰らう

20:30-22:00




13
ジャン、忘我を喰らう









お店の巨大な木製の扉を、内側から外に向かって開けると、ちょうどエントランスの石段をひとりの若く美しい女性が登ってきた
外は傘の必要まではない霧雨に変わっていた

雨にやや濡れた長い黒髪と黒いノースリーヴ、黒い細身のパンツ、黒いパンプス、肩からかけた小さな黒いエナメルのバッグ


その女性がJeanジャンの幼馴染の
〈四か国語を操る華僑の女性〉


さきほどJeanジャンの車内のBluetoothを効かせたスピーカー越しにわたしも彼女とは少し話をしていた





——はじめまして。唐突に申し訳ありません。わたしはDiana Halimディアナ ハリムと申します
いえ、日本語は日常会話程度のレヴェルなのですが・・・
いえ、しかしわたしはうまく敬語が・・・もう忘れてしまっていて・・・
もしもそれでも構わないのであれば
もしもそれがあなたへの失礼にならないのであれば・・・
今夜わたしも一緒に食事に同席したいと思っているのですが、いかがでしょうか
Jeanジャンはわたしの古い友人なのです

——はじめまして。敬語などわたしはちっとも構いません。
もしお越しになるのであれば歓迎いたします
ぜひ一緒に食事しましょう
雨が降っているのでくれぐれもお気をつけてお越しください





Dianaディアナは正統派の、いわゆる中華美人なのだろう
切れ長で大きな瞳と、雨に濡れたストレイトの黒髪
霧雨を帯びた全身が、微かな湿り気と白い輝きを放っているようにわたしには見えた
加えて、電話で話した際の、こちらが畏まってかしこまってしまうような礼儀正しさがそのまま姿として表れている

彼女は石段の最上段に立ち、微かな呼吸の乱れを整えながら——

微かに濡れて湿った、黒く艶やかな長い前髪を、彼女は左手のピアニストのように長く白い指でゆっくり左耳にかきわけてこういった


——”さわまつさんですね?はじめまして。さきほどお話しさせて頂いた、わたしはDiana Harimディアナ ハリムと申します。今夜は突然——”



顔立ちの美しさよりもむしろ、全身に溢れている率直な生命力のようなものに注意を引かれる



Jeanジャンは手早く彼女にわたしを紹介し、次にわたしを彼女に紹介して再び扉を開け、JeanジャンDianaディアナ、わたしの順で再び
店内に入る






巨大なフロアを、濃紺のチャイナドレスを纏ったまとった若い女性スタッフに先導されて横切り個室へと通される

中はかなりゆとりのある広さで、しかし中華式の丸テーブルはかなりコンパクトな設計だった

華僑の多いここインドネシアには無数の中華料理屋があり、わたしもSemarangスマランでよく利用するが、ときどき困るのがテーブルが大きかった場合だ

大きすぎると対面の相手の声が聞こえづらく会話しづらいからだ


小さな丸テーブルの中央にJeanジャンが座り、わたしとDianaディアナは向かい合う形で座ると、すぐにチャイナドレスのスタッフがJeanジャンにメニューを持ってきた


Jeanジャンはいった——


——”さわまつさん、何か特別召し上がりたい食事はありますか?
ここは基本的に何でも美味しいのですが、肉よりは海鮮シーフードの方が有名です
お酒もビールはもちろん、紹興酒とワインも充実しています”


——”料理はすべてJeanジャンに任せるよ。飲み物はまだビールで大丈夫”


Jeanジャンは頷き、Dianaディアナと額を寄せながらメニューを捲り普通語プートンファで話しながら料理を決めていった


そのふたりのその親密な姿をみていると、もしもJeanジャンがゲイでなかったら、このふたりは美男美女の理想的な恋人同士なのになと、わたしは思ったりしていた


三人でまずは生のビンタンビールで乾杯すると、次々と料理——
まずはさまざまな色彩に彩られた前菜が運びこまれてきた




蟹肉と白身魚の前菜の盛り合わせ



くらげの酢漬け



ブロッコリーのオイスターソース炒め


運ばれてきた料理を箸で摘まみながらビールを飲んでいると、DianaディアナはまじまじとJeanジャンの泣き腫らした目元を見つめていた

夕方よりだいぶ腫れは引いているように思えたが、かれの目元にはまだ赤い痕がうっすらと残っていたのだ

今夜の主賓はもちろんわたしではなく、また紅一点のDianaディアナでもなく、確実にJeanジャンだった


Jean Mespladeジャン メスプレイド


さきほど車内でJeanジャンボーイフレンドの間に何があったのかのおおまかなアウトラインは聞いていたが、細部までは聞いていなかった

DianaディアナはまるでJeanジャンの母親か姉のような温かな表情で、同時にだから本当に困ったように眉を顰めひそめ、綺麗な日本語でこういった



——”もう別れなさい・・・その方がいいわ”



Jeanジャンはビールを一口飲み、左手で頬杖をつき途方に暮れたような表情をしてぼんやりと天井を眺めた



焼き豆腐と海鮮のスープ



蟹カマの生春巻き



小海老の唐揚げ



この〈六か国語を操る華僑のゲイ〉の友人、Jeanジャンボーイフレンドにわたしは会ったことがなかった

しかし、写真では見たことがあるのだ


去年の暮れ、わたしが二回目のJAKARTAジャカルタ旅行を計画したときにこのJeanジャンにコンタクトを取り、一緒に中央ジャカルタで食事でもしようと思っていたのだが、そのとき彼はバリ島にいた

ボーイフレンドと一緒にバリ島で休暇を過ごし、おそらくはサーフィンでもしていたのだろう

ビーチサイドのウッドデッキでボーイフレンドと弾けるような笑顔で肩を組み合った写真がわたしのスマートフォンに送られてきたのだ

わたしはゲイではないので、やや複雑な心境でその写真をジャカルタのデザイナーズホテルのベッドに寝ころびながら見ていたが、そのボーイフレンドの姿をみて、実は同時にこのような感想をもっていたのだ



嫌だな、と



一切面識のない相手に対して嫌だなとは、我ながらそうした感想を持つのはどうなのだろうとは思うが、写真をみた第一印象ではこうも思ったのだ




遊んでそうだな、と




これまでの人生の中で往々にして、なぜこのように素敵な女性がこんな男と付き合うのだろうと疑問に思ったことは度々、ある

散々振り回されたあとに、最後には傷しか残らないような相手とどうして付き合ってベッドで裸で抱き合ったりするのだろうかという疑問だ

それはもちろん当事者同士がよければ、外部のわたしの感想などはどうでもいいのだが・・・

そしてJeanジャンボーイフレンドの仲睦まじい写真からもそうした危うさをわたしは感じ取ってしまったのだ

もちろんこのことはJeanジャンには一切話していない
Jeanジャンのような繊細なタイプが、逆に奔放なタイプな恋人を求めるということも世の中には往々にしてあるのだ


最後に泣かされなければいいのだが・・・


と思ったのが、その写真をみたときの最後の感想だった



四川風麻婆豆腐



北京ダック



牛肉と八角の煮込み



DianaディアナJeanジャンボーイフレンドとは何度かここ中華街チャイナタウンで会い、食事をしたことがあるとのことだった

そして彼女ディアナもわたしとほとんど同じような印象をJeanジャンボーイフレンドに抱いており、以前からふたりの行方なりゆきを心配していて、Jeanジャンには率直にもう別れたほうがいいよと忠告していたようだった


そして今回ー昨夜、わたしが第一印象として抱いていた、ボーイフレンドの浮気が発覚し、このJeanジャンの心を乱しに乱していたようだった・・・



トマトと海老のスープ



水餃子



この夜は主賓のJeanジャンがそうした状況を抱えていることもあり、どちらかというとしっぽりとした雰囲気ムードだったが、こればかりは仕方がなかった

この国では異邦人であるわたしの、唯一の現地人の友人なのでなんとか彼の力になってあげたかったが、最終的な判断はやはりJeanジャン自身で下すしかない

こうした恋愛絡みの話は、いうまでもなく当事者同士の問題なので、第三者は本質的な関与はできない

ただアドヴァイスを与えるだけだ

そしてこのJeanジャンは、おそらくはGUESTゲストでもあるこのわたしに気を使ってなのか、努めて明るく振舞おうとしていたが、それは逆に痛々しいだけで、何度か話題を変えようとして話が逸れることもあったが最終的にはやはりどうしてもこの話に戻ってきてしまうのだ・・・

Dianaディアナがそれに一役買っていたこともある
Jeanジャンの幼馴染は真剣にかれのことを心配していたのだ

Jeanジャンはなんとかこの湿っぽい雰囲気を振り払おうとし、呼び鈴を鳴らして店の人間を呼びワインリストを取り寄せた




HAUT-MEDOC



Jeanジャンが選んだ赤ワインはボルドーのHAUT-MEDOCオーメドックだったが、ここインドネシアの小さな不思議のひとつはテイスティングが人数分に振舞われることだった

ひとりでテイスティングで味わうことをよしとせず、わたしが経験してきた限りでは、必ず人数分用意され満場一致を確認したうえで正式な注文となりグラスに注がれる


そしてこの夜はJeanジャンはかなりお酒を飲んでいた
ワインの前には紹興酒のボトルもほとんど独りで開けていたし
HAUT-MEDOCオーメドックの前はよく冷えたChablisシャブリも三人で空けていた




HAUT-MEDOC



Dianaディアナもお酒が強かった
ただJeanジャンと違ったのは、白い急須に入った緑茶グリーンティを取り寄せ、ワインを飲みながらまるでインターバルのようにときおりお茶に口をつけ身体の内部のバランスをとるような飲み方だった


そしてこのDianaディアナ
その細い身体の一体どこに食物が吸収されるのかを不思議に思うくらいの旺盛な食欲だった
それも、実に美味しそうに食べるのだ


Dianaディアナはいった——


——”初対面のさわまつさんにこういうはずかしいことはあまり言いたくはないのですが・・・わたしは一日に五回食事をします”





五回!?





Dianaディアナに訊いてみた


——”でもどうして太らないのですか?”


昔から何をどれだけ食べても太らない体質らしく、一切体形が変化しないらしい

羨ましい限りだ

Dianaディアナは続けた——



——”仲の良い友人と一緒に食事をするのが、わたしの一番の楽しみなのです。もちろんそれは、誰でもそうだとは思うのですが”




間違いなかった





牛肉のオイスターソース炒め



鶏の唐揚げ



料理に関してはほとんどJeanジャンが選び、それも一度にまとめて頼むことはなく、目の前の料理の進み具合をみながらまるで熟練の指揮者のように絶妙な塩梅あんばいで注文し、それに対してDianaディアナが量をHALFハーフにするか、一人前にするのかを決めてから呼び鈴を鳴らした

それは見ていて実に気持ちの良い絶妙なコンビネーションのようにわたしには感じられた

小さなテーブルに入れ代わり立ち代わり色とりどりの料理の皿が並べられては下げられ、その大部分はDianaディアナが実に美味しそうに食べ、こちらの食欲も増すような素敵な光景だった



青菜の炒め物



Jeanジャンはいった——


——”さわまつさん?Dianaディアナって面白いでしょう?”


わたしは微笑んで頷いた

長く海外で生活していて、独身だということもあり普段はひとりで外出してひとりで外食することが多い

孤独だとは思うが、しかし寂しくはなかった
屋台やレストランやバーでひとりで食べたり飲んだりは日常茶飯事だが、食事しながら本を読むのがなかば習慣になっていることもあり、ひとりでも全く平気だった

そしてあくまでわたしが見てきた限りでは、この資質を持たない者はやがて帰国することになる

これまでヴェトナム・スペインで何人、何十人とみてきた

孤独・・・それしか適切な言葉は思い浮かばないが、肉親や友人たちと実際的に引き離される距離を強制的に生み出す海外赴任には、まずその資質・・・耐性があるのかどうかを問われる

もっとも、通信技術の発達の恩恵で、それは流動的ではあるのだが、しかし孤独に耐えうる強さがなければ、それが日本からどれだけ近い距離にある海外であるのかを問わず、撤退ー帰国を余儀なくされるはずだ

それは逆説的に、その資質さえあれば、別に言葉ができなくても、それは重大な問題ではないようにも思える

言葉と言語・・・くだらない・・・今でも本当にそう思う
それらは常に副次的な問題でしかなく、本質に迫って脅威となるような問題ではないのだ
それは間違いない事実だった

わたしが見てきた限りでは言語は一切論外で、検討の枠外の話だった
それは後からいくらでも学ぶ余地をもつからだ

本当に重要に思えるのは孤独に耐えうる強さの有無だけで、それは少なくとも後天的に学びとることはかなり困難な性質のものなのだ

だから本人の本質的な芯・・・先天的な根幹の強さは、海外赴任では間違いなく問われる

ひとりの日本人を海外へ送り込むのは、企業にとっては膨大な投資であることは間違いない・・・




PIK



そして、だから、ときおりこうして友人と会って食事をするのであれば、やはりこのDianaディアナのように旺盛な食欲をもち、何でも美味しそうに食べる相手こそが相応しいふさわしい

見ているだけで前向きな気持ちや元気をもらえるような気がするからだ


Jeanジャンはいった——


——”Dianaディアナは、他のひととは少しだけ違う個性アイデンティティを持っていて、ぼくの少ない友人の中でも昔から何でも話すことができるのです”


わたしは頷き、深く考えることもなくJeanジャンに訊き返した


——”彼女の他のひととは違う個性アイデンティティって?”


Jeanジャンは一瞬の空白の間を置いてこういった


——”ちょっと日本語ではどのような言い方になるのかはわかりませんが
英語でいうと〈androgynos〉です
意味はわかりますか?”


Jeanジャンの英語の発音はほとんどネイティヴのそれだった
確かジャカルタだけでなくイギリスの大学も出ていたはずだ




——”なんだって?もう一度——”



Jeanジャンはその英単語だけをもう一度繰り返したが、わたしはそれでも意味が掴めなかった


わたしは通訳がいない環境で仕事をしていて、必要に迫られる形で毎日英語とインドネシア語のみで仕事をし生活しているが、それでも聞きなれない英単語だった


Jeanジャンはジャケットのポケットからスマートフォンを取り出し
一瞬迷ってからまたそれをしまい、内ポケットから万年筆を取り出すと、テーブルの上の紙ナプキンに素早く筆を走らせた




”androgynos”



待て。待てよ——

この英単語は——

待て。待てよ——


おそらくは——

通常、英語を学ぶ者にはかなり遠い距離にある単語だ。それは間違いない
ある専門分野を学ばない限りは、おそらくはほとんど出会うことのない種類の——



しかしわたしはその分野に関してかなり以前に調べたことがあったのだ
単語の意味を思い出すのにいくらか時間はかかったが、この意味は——


わたしは顔を上げてDianaディアナの整った顔立ちの切れ長の綺麗な瞳を見つめる

彼女は柔らかく微笑みながらわたしを見ている








Dianaディアナ——








あなたは——



まさか——

あなたは——





あなたは——






上半身に女性の胸をもち——


下半身に男性器をもつ——










両性具有者アンドロギュノスだったのか













NEXT
9月24日(日) 日本時間/AM7:00
連作:6

ジャカルタの猛毒の雨はやがて霧雨へと変わり、その中で揺れる、男性器をもった少女と、死んでしまった仔犬




ヘンリー・ダーガー【非現実の王国で】
世界一長いといわれる遠大な長編小説
その七人姉妹の主人公、Vivian Girlsは少女の姿を持ちながら、全てに男性器が描かれている





前回、本来はこの〈連作:5〉で完結のアナウンスはしていましたが、文字数が長大になりすぎるので便宜上ここで一端切り、次回が〈完結編〉となります。どうぞ最後までお楽しみください。



この連作へと繋がっていく
前日譚




連作:1

〈六か国語を操る華僑のゲイ〉と、〈黒いノースリーヴの”D”〉





連作:2


今夜、ジャカルタの心臓部を喰らう





連作:3


混沌と喧騒の激しい渦の中、ジャカルタの陽は落下して、光は慟哭と共に去りぬ





連作:4


汝、月灯りに照らしだされ、ジャカルタの酸性雨に濡れし黒衣を纏ひて、来たる




次回へ続く




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