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ないほどいい

認識を変えれば、認識世界は変わる。
想像し得る あらゆる事は実現できる。

だが、こんな事は、仏教で云う典型的な集諦である。

ごく近い将来、量子テクノロジーが開示される事で、
奇跡は奇跡でなくなり、超能力は超能力ではなくなる。

インフラ、医療、金融、様々な問題が解決するだろう。

だが、必ず死ぬ。

対人関係という問題がなくなる事もない。

認識とは、事実の後に生じるものであり、
認識が認識以前の事実に触れる事はできない。

認識にできる事は、既知を解釈し、現実として体験し、
更なる理想を投影して自らの現実とする事だけとなる。

つまり、それは、認識内で、認識という物理の表層で、
認識が触れる事のできない事実を捏造する行為となる。

究明されない自己の事実と矛盾するから 求心が止まない。

本来、運命学が究明しようとする "運命" は認識の事ではなく、
認識以前、考え方以前、自然の摂理としての自己の真相である。

運命学は宗教ではない。

だから "信じる" という要素が ないほどいい。

太陽が昇り沈むのは、どんな認識や考え方や信仰とも関係がない。
どうする事もできない無礙の自然、摂理である本来の自己の真相。

それは、それでない何かになる必要がない。

自己本来が究明されれば 求心が止む。

これが そうなのだと。
これでよかったのだと。

認識以前、考え方以前の自然、無礙である本来の自己に落ち着く。
そうなると、どんな認識でも、考え方でも、信仰でも、好みでいい。

支配されるという事はない。

むしろ、生活を彩るだろう。

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