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波木星龍

運命学に関して言えば、古典物理学的厳密さより経験則。

だが、それには条件がある。

研究者の多くは、統計から何らかの結論を引き出そうとし、
自分の仮説を裏付ける都合の良いデータを求め、期待する。

このような期待が一切なく、仮説に失望し、何も信じられず、
虚心坦懐且つ、事実に基づいた手掛かりを手探りで求める時、
事実の方から与えて来る、経験則としてのデータが得られる。

それは個人的な経験則でありながら、一定の事実を指し示す。

仮に、例えば、ボクシングという競技、ルールがある。

基本的な理論を学び、練習して試合をしたら全く通用しなかった。
筋力、骨格、体力、性格、感性、スピード、反射神経、動体視力。

人それぞれ、皆、違う。

自分に向いていない、実際に通用しない理論に縋る事はできない。

個人の素質を見抜く様な、優秀で天才的な指導者がいないなら、
自分で、このルールで通用するものを発見しなければならない。

ある時は練習という研究の中で、ある時は試合の中で発見する。

ある状況下において、相手がコンビネーションを放った瞬間、
左手に相手のパンチを感じると同時に左フックを合わせると、
相手の攻撃を寸断し、有効である事を発見したとする。

無論、常に通用するわけではない。

相手にも、状況にもよる。

だが、例外を前提とした上で、一定以上通用する目安にはなる。
それは、このルールで闘うための、自分だけの引き出しになる。

しかもそれは、そのルールにおいて有機的な条件こそあれど、
他者にとっても有効な一定の普遍性を示すものだったりする。

実戦の中で、このような引き出しを増やしていくのが鍛えであり、
経験則であり、個人としての、自分だけの闘い方としてのデータ、
統計学的に不完全な、生き抜くために人生を賭けたデータである。

統計は襲い掛かる相手と、自分の代わりに闘ってはくれない。
私なら、統計学者の言葉より、世界王者の言葉を参考にする。

ある技法において、結果を出すために、実戦で通用する目安、
常に通用するわけではないという、例外を前提とした経験則。

馬鹿者が統計的に不完全だと揶揄する、有機的な経験則。

占術に裏切られ、その失望によって事実と運命学の接点を見出し、
実戦で通用する目安を使いながら 例外に即応して状況を把握する。

それと意識する事なく、経験則と直観を同時に用いて結果を出す。

そういう占術家を、私は一人だけ知っている。

"不遇の天才" とも "実占運命学の申し子"とも謳われた孤高の実占家。

札幌の波木星龍である。

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